デザインの自由性や、広告欄の大きさに不自由を感じてきたので、このブログを閉じて、ヤフーブログに引っ越そうかと考えていた矢先、なんと(予想外に)、前記事にコメントを頂いたので、追加で記事を入れておきます。
そもそも、「過払金返還請求」とは何なのか?
これを知るには、法や判例、常識の類をよく噛み砕いて、理解する必要がある。僕なりの考えを簡単に言ってしまうと、「過払金返還請求」とは、その大体において行為自体がモラルハザードそのものであり、それを引き起こした判例そのものが、突き詰めれば司法の「誤り」であり、司法関係者のみが利益を得る結果となっている以上、司法スキャンダルとも受け取られかねない内容であると考えている。以下に理由を述べる。
そもそも、過払金として返還を請求する側においては、「利息制限法を超過した利息は無効であるから…」といった理由がお題目のように唱えられるが、その利息制限法自体が、返還請求を認めてはいない。利息制限法第1条第2項において、
「債務者は、前項の超過部分を任意に支払つたときは、同項の規定にかかわらず、その返還を請求することができない」
と定めている(注・6月18日改正により削除)。簡単に言うと、当事者間で問題が発生しない貸し借りにまで法は及ばないという事であり、法が社会秩序までをも混乱させるものではないといった意味合いも含まれている。又、利息制限法を超過して行われた貸借自体を、不法行為と捉えると、不法原因給付においてはその返還を請求できないとする法理論にも適った内容であると考えられる。
では、何故、現在では「過払金返還請求」が可能となっているのか?判例の歴史は以下の通りになる。
昭和39年最高裁
既払済みの金員については、利息制限法により、返還の請求は出来ないが元本への充当は出来る。
→最高は元金0円まで可能
昭和43年最高裁
元本充当が完了した場合、後に支払われる金員は「利息」に該当する筈がないから、利息制限法の射程外となり、民法上の不当利得として返還の請求は可能。
→過払金返還請求が可能
この2つの判例により、利息制限法第1条第2項は、実質、形骸化されてしまった。昭和39年判例では社会経済の混乱を招くとの反対意見も述べられているが(予言は当たった?)、結果は、43年判例により、返還も可能とする泥沼へと突き進んだ。
この判例(判断)は何をしたかったのか???
おそらく、弱者としての多重債務者を救済したかったのだろう。この時代、もちろん貸金業規制法もなければ、民事再生法もない、破産法の敷居も高く、債務者側の環境は弱者と考えても異論はない状況である。又、利息制限法第1条第2項が想定する「当事者間に問題がない」についても、実際に法廷闘争になっている事からも問題が発生しているようであり、ベニスの商人の如き、悪徳金融と被害にあった一市民の図式は容易に成り立ってもいたのだろう。…そしてこの後、「みなし弁済」という奇妙な法制度が誕生する。
昭和58年貸金業規制法施行(議員立法)
利息制限法を超過し、出資法を上限とする金利帯(俗に言うグレーゾーン)については、一定の要件を満たす金銭消費貸借環境において、正当な金利(返済)とみなす(俗に言うみなし弁済)制度を開始。
→ノンバンク(街金?)の営業が活性化
この後の司法判断は、この貸金業規制法を認める(保護する)か、認めないかの立ち位置でのみ判断されるようになる。
~平成9年迄
裁判所は、貸金業規制法を保護する方向で対応。みなし弁済要件の任意性についても、当事者が利息制限法利率を不知であっても認めるといった判例を出している。
~平成9年以降
下級審において、みなし弁済要件について厳格説を採用する判例が出始め、後、商工ローンバッシング等の発生により、最高裁においても連続して厳格説が採用されるようになる。更に、平成18年1月の最高裁判例により、期限の利益喪失の定めがある金銭消費貸借には、みなし弁済要件である任意性が認められないとする判断を行い、みなし弁済制度そのものを形骸化するに到る。
昭和58年以降の司法判断では何をしたかったのか???
平成9年迄の司法判断は、おそらく、多重債務者救済の為とは言え、強行法規を形骸化してしまった過ちを修正する期間になっていた筈である。貸金業規制法の内容とは、噛み砕けば、金銭の貸し借りにおいて、当事者間同士で紛争が起きないようにする法律であり、紛争さえ起きなければ、やはり経済秩序を金利の上限より優先
させます(させるべきである)といったスタンスをとっていたのだろう。だが、平成10年付近に到って、商工ローン問題等が発生し、再び、貸金業規制法を形骸化させるスタンスに立ち位置を変更したというのが、平成10年以降である。過ちを修正したのに、再び過ちを繰り返す?との発想はあるが、平成18年判断を行って、後退官した滝井判事は、自身の判断を昭和43年判例と比べればかわいいものだと言っている。成る程、強行法規を形骸化するような大それた事は過去の裁判官がやった事で、自分が行った事は、貸金業規制法なる議員立法を形骸化した程度だという意味なのだろうが、傍目に見れば、治りかけた瘡蓋を剥がすに等しい行為でもあり、五十歩百歩、目糞鼻糞ではないのか?とも思うのだが…。
と、ここまでが一連の流れである。が、ここまで読んでも、それが何か?と言われる方が殆どだろう。何故なら、ここまでの内容では、「最高裁は弱者を守っているのだから問題ない」とか、「貸金業者はそれでも儲か過ぎだったのだ」等の一般論を打ち消す程度の内容とは思えないからだ。ここまでは事実のみを書いているのであり、事実の裏側を読み解けば、これでいいのか?と考えてもらえる程度にはなるかと思う。
結論を先に書いてしまうと、ここまでの事実からは、経済環境を左右する司法判断は、やはり、経済政策やそれに付随する政策が深く関わっているとしか思えないという事である。
昭和43年までの司法判断は、高度経済成長期になされたものである。この時代、「貧乏人は麦を…」といった所得倍増計画等が実践されている時代でもあり、貯蓄の敵である高利貸しは不要であると考えられていた筈である。事実、表向きは資本主義でも、実際には社会主義的な経済発展(大多数が貧困に耐えて行うという意味で)には、国の統制が及ばない高利貸しが厄介であり(江戸期は改革毎に両替商が肥えていきましたし…)、これを排除しておく為にも、強行法規の形骸化もやむを得ないといった所かと考えられる。
次の昭和58年以降の政策は、言わずと知れた「バブル経済」である。高度経済成長後、国民消費が頭打ちになり、借入→消費→成長の図式が実践されたのである。政策として貯蓄を奨励してきた結果、貯蓄のない人に消費を促すには、借入しかないといった政策である。これについては、経済成長とインフレが借入自体を飲み込めるとの判断もあったのだろうが、結果としてバブルは崩壊する。
バブル処理後の新たな経済政策において、三度、司法判断が用いられる。この政策は、小泉政策による完全資本主義への転換であり、所謂、貧富差を拡大させる政策である。これが、どう司法判断に影響したのか…、簡単に言うと肥えた貸金業者のスケープゴート化である。貧富差が拡大→低所得者層の増加→社会問題化となるところに、「低所得者層→多重債務者には過払金」といった流れを作り、マスコミを用い、「多重債務者の敵は貸金業者」といった図式で、多重債務者の不満を貸金業者に向けさせたのである。芝居がかった怒りの形相を用い、政府は多重債務者の味方と息巻いていたのは後藤田氏であったか…?とにかく、政策で低所得者層を生み出しながら、政府が低所得者層の味方になるのに一役買っているのが司法判断という格好である。お偉い(筈の)裁判所が、「貸金業者が悪い」と言っているのだから、裏側をみない方々はこぞって「そうなんだろう」と考えるのも当たり前である。又、政府にしてみても、銀行が立ち直らなくては、今後の経済政策もうまくいく筈がないということで、貸金業者が得ていた利益はお上筋の銀行が頂こうといった一石二鳥発想もあった筈である。結果として、殆どの貸金業者が銀行系になったことは言うまでもない。
更に、もう一つ大きな政策が絡んでいる。それは、司法制度改革である。
これは、1999年から始まった政策であるが、簡単に言うと、弁護士を増加させ、司法環境を欧米化させるものと考えて差し支えない。実際に、裁判員裁判は開始され、ロウスクールも開校し、従来の何倍もの弁護士が社会に送り込まれている。
何故、この司法改革が必要なのか?
僕は今まで生活してきて、医者は足りないと聞いたことはあるが、弁護士が足りないとは聞いた事がない。まぁ、人口が激増している訳でもないのに医者が足りなくなっているというのも「?」というところだが、弁護士に到っては必要になる要素がないのは当然である。何故かとういうと、日本は単一民族国家だからである。単一民族であるという事は、同一の常識を有しているという事であり、法が常識を明文化し、共有化させる道具である以上、他国と比べて紛争が起こる割り合いが少ない事は当然なのである。これを何故欧米化させるのか?単純に考えれば、政策では、欧米同様、他民族化させようと考えているのだろう。今の日本では、高齢化等により、人口の増加も望めなければ、消費の増加も見込めない。加えて、労働力が圧倒的に不足してくる事も予想されるので、外国人の受け入れは、人口、消費、労働力の問題を一気に解決できる手立てとして考える事も自然の流れである。外国人を大幅に受け入れる環境が整った場合、日本人を守るには、法対応の常套化が不可欠であり、司法制度改革は、それに対応しているものと思われる。
だが、ここに大きな問題がある。増えた弁護士に仕事がないという事である。仕事がなければ、収入がない、収入がない=低所得者…。どこかでみた図式である。
これが、経済政策と司法制度改革を円滑に行う為に司法判断が行われているとする理由である。
しかし、「日本は三権分立であり、司法が行政に影響を受けない筈である」といった考えを持たれる人もある筈である。実際に僕もそう思っていたほどである。が、司法のトップは最高裁判所の裁判官であり、その指名は内閣によって行われているのである。内閣の影響を受けない筈はない。長期政権であればある程、指名期間は長くなり、その影響も長く続く筈である、まぁ、政権政党が同一であれば、永遠と続くといった解説が正しいのであるが…。
長く書いたが、言いたいことは、「多重債務の原因は低所得であり、貸金業者ではない」という事である。所得が多ければ、借金はしないのである。低所得の原因は経済環境にあり、国政が大きく関わっていることは言うまでもない。
低所得者は多重債務者となり、高利を低所得から消費させられ、高利の一部を返還してもらう際にも弁護士の収入確保の為に費用を負担させられ、低所得である事に変わりはないのである。そして、貸金業者は政策被害者なのである。ほとんどの返還請求者に対して、「利息制限法利率ならば、あなたには貸していない」と言いたい筈である。金利はリスクに応じるものであり、「破綻者=高リスク」は当たり前だからだ。
このような理由から、僕は、多重債務者は弁護士費用は払う必要はないと言い、貸金業者とは折り合いが必要だと言っているのだ。誰が悪くて、誰が正しいかはそれぞれの判断だが、僕は間違っているとは思わない。