※このブログは拙い文章で構成されている可能性がありますので、ご理解の上お読み下さいませ。
※前回の続きになります。
本当にみんなに置いていかれた新年度
正直この1年間の記憶はほとんど無い。
バイトのシフトを振り返ってみると、14日連勤してたり、ほぼ休みなく働いていた前半だったみたい。
受験勉強なんて、してる暇がなかった。
受験するために稼がないと、受験のチケットさえも手に入れられない。
そんな気持ちがあったのか無かったのか、9月には完全にバイトから離れ、(たぶん)勉強してた。
1日20時間寝ていた日もあった。
たしか部屋のどこかに日記が残っているはず(書いたり書かなかったりしているはずだから全ては分からない)だけど、見るのが怖いから、またいつか見つけたら見ようかと思う。
この、所謂浪人二年目の冬、私の中では大きい出来事があった。
本格的に死ぬことを計画してた。
この事だけは覚えている。
年明けの、今となっては懐かしさを覚えるようなセンター試験(今の試験の名前忘れた)の後、私はもう無理だと思い始めた。結果は悪くなかった。
だけど、どうしても、もう無理だと感じていたのだ。
私は2月、私大の受験の毎朝、と言うより電車に乗る時、ホームで待っている間、ただひたすらにレールをみて、飛び降りたいと思っていた。
自死することも出来ない臆病な自分が1番死ねる可能性のある方法は、人様に迷惑をかけて電車に飛び込むことだった。
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他の方法では完全に死ぬ確率は下がるし、何よりできない。包丁を持ってお腹に添えることまでは出来たのに、一思いに刺すことが出来なかった。
包丁をもってリビングで何時間も佇んでいたとは、家族は誰も知らないし思ってもみないだろう。
誰も助けてくれない、助けてくれない家庭環境で、毎晩だけ顔を合わせる家族に対し、毎回平然を装うのがどれだけ大変だったか。
取り繕わないと、迷惑をかけてしまう、なんて助けもしてくれない家族に想ってた。
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正直、受験どころではなく、飛び降りることしか考えてなかった。
試験会場では、辛くて、死にたくて、でも飛び降りれない生物的な生存本能に対する怒りで、涙が止まらなかった。
あの時の試験監督の方はきっと驚いてただろう。
一受験生がそんなこと思いながら、静かに涙を流しているなんて、誰が想像出来るんだ笑
なんとか生きて、受験も終えて、私は決断した。
これでどこも受け入れて貰えないのなら死のう。
受け入れてもらえる場所があるなら生きよう。
全ては結果に委ねた。
結果、第1希望の大学では無かったけど、合格した。
結果が届いた日、私は号泣した。
死ねなかった苦しみか悔し涙なのか、今となってはもう分からない。
だけど嬉し涙ではなかったのは覚えている。
家族に伝えた。合格したと。
なんて言ったと思う?
「そっか、やっとか」
ただそれだけ。おめでとうの言葉なんて勿論なくて、その後はお金の話。入学金、授業料、たくさんのお金をどうするのか。
母は勿論出さないと言われた。父に頼るしかなかった。本当はもう関わりたくなかった。関わるのが怖かった。
だけど、父にお願いした。いつか社会で出て返済するとの口約束で、父は貸してくれた。
ありがとうの気持ちもあったけど、申し訳ない気持ちもあった。
それと病院も行った。行った理由は、合否前にどうせ死ぬなら自分が病気なのかどうか知りたかったという気持ちがあったのと心機一転するために少しでも苦しみを取り除きたかったからだ。色々調べて、女医がいる病院に行って、カウンセリングと診察を受けた。
予約して言ったのに、半日も待たされて、もうなんでもいいやなんて思って先生と話したのは印象的だった。
特に病名が断言されることはなく、薬治療で進めること、取り敢えず飲んで様子見することから始まった。
当時コロナウイルスが流行り始めた時期で、入学式もオリエンテーションも何も無かったけど、
また新たな1歩を踏み出した。
ここから先の話は、またいつか。