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あなたが面している天地万物は何でもかんでも、神が自らを表現しているものにほかならない。だからちょうど今、あなたは神の顔を見る潮時の只中にいるよ。早い話が、世俗の立場から見れば、あなたは神の顔を今にも見る間際に立っている。


あなたの神性はあなたの実相そのものだ。なのにあなたはそれを認識していない。だからあなたの神性は常にそれ自身をあなたに認識させようと働きかけている。



あなたの神性はあなたより大きいので、あなたがそれを受け入れようとしなくても、四六時中あなたを押し、あなたを最適な立場に立たせ続けている。


ゆえにあなたはいつも真理をもっと鮮明に認識する間際に立っている。



言い換えれば、あなたはいつも発見への入口に立っている。骨を惜しんでいると思い込んでいてもだ。また力こぶを入れていると思い込んでいてもだ。あなたはいつも本当の現実をさらに鮮明に認識しようとするところに立っている。目先にあるらしい事柄が喜ばしくても悲しくてもだ。また心地よくてもよくなくてもだ。どのように見えてもだ。


問題というものを大切にしたり、しがみついたりしてはならない。苦痛がこんなにあるのは、あなたの神性によるプレッシャーが増加している結果だ。それを理解したまえ。


次のことを心に留めておけ。



あなたのことは自分のエゴではない。あなたは自分のエゴと同一ではない。



自分のエゴとは、想定というものでできた塊だ。この想定集は外見上整っている、しかも定義できるように見えるけど、エゴは虚偽の塊だ。なのにあなたはあの塊を自分のアイデンティティとして採用している。しかしあれは一から十まで架空だ。



仮想にすぎないのだ。



あなたのことは自分が仮想しているもの(・・・・・・・・)じゃない。あなたのことは仮想する能力をもつもの(・・・・・・・・・・・)なのだ。



さて、エゴは罪を犯している。実在しないのに実在すると主張するという罪だ。だからしょっぱなから有罪だ。



あなたは罪悪感にふけってしまうと、その罪悪感から解放される根拠が見当たらなくなる。




あなたが座っている席には、人格と呼ばれるちっぽけなものがいるように見えても、本当はそうではない。そこにはエゴと呼ばれる、取るに足りないのに横柄なものもない。



そこに座っているものは、生命の運動として存在している神だけだ。




神という助けの源を当てにすることができる。そして自分が潔白だと、知性的にも合理的にも主張することができる。そして、罪悪感を正当化するどんな妄想からも出られる。





あなた方は一人残らず、今、青天白日なのだ。




感情や反応に駆られないでその答えを認識しているところでは、その答えは火を見るより明らかになるのだ。そこにいる自分は有罪になるのではなく、解放されるということに気づく。