はじめに
この記事は半ば成り行きで書いています。思ったことを書いています。下書きもありません。しかし、言いたいことがあります。
あなたが学校教育で培った「読解力と創造力」に期待します。
「古い・役に立たない」のは何か
よく、「数学は役に立たない」や「国語の漢文は不要」と言われています。
また、「現代の教育システムは校則など社会に即さないものも多い」という人もいます。
これらを総称して「学校は古い」と言われているのだと思います。
つまり、学校の古さというのは、
1)教科
2)学校のシステム・構造
の2つに分類されます。なるほど、確かに三角関数は使わないし、古文も使わない。四則演算と1945年に終戦したことくらい覚えていればよいし、学校だって、オンデマンドにすれば「不登校」という概念もなくなるし、いじめもない。
それは、もっともです。
「必要ない」のか
実務的な意味では確かに不要なところがあります。それは事実です。
しかし、私が生徒のころ、校長先生がこういうことを言っていました。(これしか覚えてませんが)
「すぐ役に立つものはすぐに役立たなくなる。不変なものを学ぼう」と。
教科に関して言えば、例えば、グーグルの使い方を覚えたところで、仕様が変更されれば終わりです。
簿記やFPなどの実務的なことを勉強しようとしても、基礎となる部分は数学などです。
そして、私は思います。学習指導要領(法的根拠のあるカリキュラム作成手順書)では、
例えば数学では「数理的な技能を身に着ける」だとか、社会歴史では「国土の文化を知る」などと書いてあります。
(正確な文ではありません)
したがって、役に立たないということを言っているのは、教員がその趣旨を生徒に共有できなかったか、その生徒が役立てようとしていないだけなのです。
ここで言いたいのは、「三角関数を日常で使え」という意味ではなく、数学科という全体の教科及び数学という学問が本来持つべき性質を十分に役立てよということです。
国語に関しても、言葉の変化というものを十分に感じ取れば、「けり」だとか「ぬ」だとか「はべり」がどうとかはあまり関係ありません。
現代でいう「エモい」だとか「ヤバイ」という言葉の意味の変化のように、日本語がどう変化したのかということが重要なのです。
話はそれますが、私の友人に、いつも黄色いパーカーを着た人がいます。
その友人がつらいときに、電話で相談をしてきました。
その時私は「過去を振り返って、次活かせばいい」と言いました。
すると友人は「同じ出来事なんて起きない。歴史をさかのぼっても無駄だ」と言いました。
私ははっとしました。同じ日は来ない。それなのになぜ私たちはこれほどまでに過去を知りたいのか、と。
歴史を学ぶ意味は、1600年に関ヶ原合戦があったと知るためでもないし、2008年にリーマンショックがあったと知るためでもありません。(近現代は常識の範囲で覚えておいてもいいかもしれませんが)
つまり、歴史は二度めの同じ場面に備えるためのものではありません。
歴史は、類似したもの、あるいは似たような経路をたどっているとき、その先に何が起きるのかを予測するものです。
争いの原因は何だったのか。解決するためにはどうしたらよいのか。
それらは、歴史の中で大きなくくりとして、抽象化されて後世に伝えられるのです。
そして、「調べればよいじゃないか」という意見の人もいます。
確かに、グーグルがあれば調べることができて、英語はもちろん、ロシア語やドイツ語、1ガロン(石油の単位)は何Lかも教えてくれます。
しかし、元から知識がある人(好奇心)には勝てませんし、うわべだけの知識では意味がありません。
また、「調べる」という行為について、こういうたとえがあります。
「いくら調べられるからと言って、スマホを片手に50音表をもって文字を打ったり、マニュアル片手に車を運転していたらどうだろう。
不便だし危険だと思わないか」と。
調べることは良いことです。しかし、何でもとなると、「その場しのぎ」になってしまいます。
それは不便だし、情報を比較したり現実を見ることに注意力を割きにくいのでギャップが生まれやすいということです。
また、最後にですが、実務的な教育指導をしている「専門学校」や「工業・農産高校等」が「5科目ができない出来損ないが行く場所」として認知されていることも多いので、そこが社会ニーズと現実で実務を教えている学校教育に対する批判と矛盾しているのは謎です。
「学校のシステム」についての疑問
全日制の学校や髪形の校則については、疑問が生じるのも無理はありません。
8時間以上の強制共同のためにいじめが発生することは知られています。
また、行き過ぎた指導や過度な校則がむしろ、不利な状況を生んでしまうことも懸念しなければなりません。
しかし、急速な改革は不可能です。
なぜなら、学校は子どもたちを相手とした役所だからです。
学校は「教育行政」として機能します。
行政というのは、法律に基づいて何かを行うことです。区役所等も、様々な法律に基づいて住民票を管理したり、区長を決めたりします。
「先生」というのは、一般の区役所と違い、特殊な過程を経てなっていますし、行政機関としての認識はあまりないでしょう。
けれども、学校は確実に行政機関であり、「お役所」なのです。
部活動は基本「任意」なものであるし、残業代も出ません。
(調整金というもので、固定代がありますが、現状とはかけ離れたものです)
なぜなら、教員は公務員であり、いわゆる「先生」の仕事は「児童生徒の教育をつかさどる」なので、それ以上でも以下でもないからです。
また、学校間の距離は規則で定めらていますし、校庭の大きさも、図書室がすべての学校においてあるのも、すべて法律によって定められています。
さらには大学で通信教育が行えるのも法律によるものです。「なぜですか?」と聞かれたら「法律で決められているからです」というのがまっとうな答えでしょう。
けれども、それは変われない理由にはなりません。現にコロナ渦ではレポートやタブレット端末によるオンライン授業が行われました。
これらは例えば、集団になじめない子などには十分提供される形の教育方法でしょうし、そうあるべきです。
極論的に「すべてをオンラインに!」というのがありますが、集団生活は必要なことです。
また、家庭の貧困問題や、コロナ渦で問題となった、生徒の妊娠問題などをはじめとする家庭での十分な教育や指導が行き届いていないばかりに発生した問題には対応しきれません。
現在の通学型でも、このような問題が発生しています。
箸の持ち方も指導してほしいという保護者もいますから、学校が単に「点数の場」と化してはいけません。
(保護者・家庭はそもそも教育の第一義的存在なので、学校だけに教育を押し付けるのはよくありませんというのは承知してください)
通信制という仕組みも現在では普及しています。
私は高校生の時に全日制(3年半年)と通信制(残りの半年間)両方利用しました。
通信制はオンデマンド(オンライン)と似ていますが、校舎や教員が存在しているのはもちろん、時折「スクーリング」として、校舎に行き対面授業をすることもあります。
しかし、通信制は「本人のやる気」に左右されやすく落ちこぼれが生まれやすい環境です。
また、コロナ渦での問題が常態化してしまいます。
義務教育ではない高校や大学ではそれでよいかもしれませんし、異様に高い高校の進学率(高校が大学の予備校と化している現状)が平常に戻るかもしれません。
少なくとも義務教育では通信制は難しいと考えます。スクーリングの回数を増やすや登校義務日というものを設ければ十分対応可能かもしれませんが、制度や理解(それこそ通信制は問題児が行くところというような認識の改善)が促されなければ無理なようです。
全員が同じカリキュラムを受ける形式についても、中学校で「教科選択制」が導入された時期もありましたが本来の趣旨から逸脱したため廃止されました。本来は自分に合った技能を身に着ける(不要と思われる時間を有意義に使う)という趣旨でしたが
中学生ですから周りに流されたり職業観や将来設計が未完であり(15歳程度なのですから当たり前です)十分機能しなかったと思われます。
まとめ
教科については、学問としての本質を学ぶことで自身の人生設計や社会人の基礎をはぐくむとともに学校システムの改善と市民の理解を十分に得て(つまり現状を知るということ)改革を進める必要があります。
ご意見、ご感想お待ちしてます。
それでは次回のブログでお会いしましょう。