Twitterで、ファッション誌に載っていたとされる写真の一部が話題になっています。

標準的な体型の女性を「ぽっちゃり」と言い、色々とコメントが書かれています。

近年では、女優やモデルよりもSNSの普及により一般の人と自分を比較することが多くなったとされています。
テレビに出ているタレントやモデルよりも隣のあの子・インスタで見たあの人が自分との比較対象なのです。

一方、SNS上では、「良い自分」や「求められている自分」を演出します。
ある種のキャラなのでしょう。

つまり、「良いもの」を表現し続けるSNSにおいて、それらを比較対象とすることは、明らかに物事のハードルが上がっていると言えます。

今までの美容やファッションの比較が
モデルや女優という手に届かないものだったのに対し、今では自分と同じ土俵にいる人、すなわち手に届く可能性があるものになっていったわけです。

SNS上での「良いもの」を「標準」となり、
少なくともそのボーダーに届くように努力するわけです。

  SNS上での最高点が次第に普通なものとして捉えられることに加えて、ファッション誌やメディアもまた別の視点から携わっていることに気をつけねばなりません。
  彼らは、購買意欲をそそるために、あえて高いハードルを用意します。
痩せなければ、これが可愛さだ!と、ステレオ型に突きつける。
ステレオ型の利点は、こうなるにはこうする、と方向性が決まることだ。
メディアはそれを利用する。スポンサーのために。

しかしながら、一般の人もそのメディアになりかねない。
ある種のメイクを「量産的」とすることで、自分のアイデンティティを守ろうとするこの姿勢や、多くのフォロワーを味方につけ、ファッション論なるものを唱える。
今では、企業案件なども多くメディアと同一視してもなんら問題ない人もいる。

このやり方は、やがて限界を迎える。
ファッション自体は、自己の価値観を表すものであり、個性であるからだ。
それが画一的になった時、それ自身の存在について立ち止まると思うし、そうすべきであるからだ。

現在では、その価値観が価値観自体を否定している。

自分からの否定があらゆるハードルを上げ続けていることに気づかねばならない。