おはようございます、シッキーです。
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さて、最近は色々と考えることが多く、相変わらずやることも多くてバタバタしております。実行が多くなると思考も乱暴になりがちなので、こういう状態が長く続くのはあまりいい兆候ではありません。
昨日ふと思ったんですが、人間、感動や刺激からインスピレーションを受けることがありますよね。たとえば海外でダイナミックな自然に身を置いたり、異文化の人達と触れ合ったり……
新しい体験というのは人生に新しい風を送り込んでくれるような気がするものですが、僕にとってそういう出来事は、ほとんど無意味(物創りの上では)なのだと改めて思いました。海外に自分探しの旅に出掛けたり、自分を励ますかのように必死に充実感を演出したりしようとしている人達に共感できない理由は、おそらくこういうところにあるのでしょう。
新鮮な体験というのは人に影響を与えますが、僕にとってそれはインスピレーションに直結するものではありません。たとえば、未知なるものに触れれば、既存のアイデアや構想をブラッシュアップするきっかけやヒントにはなるでしょう。しかしそれは決して無から何かを得たわけではなく、“変化のきっかけ”を与えられたに過ぎません。
この“変化のきっかけ”というのは厄介で、自分にない何かを外部から与えられるため、まるで無から何かを得たような、いわゆる「インスピレーションが働いた」ような錯覚に陥ります。そして麻薬のようにこれが習慣化してしまうと、やがては本来自分が持っていたオリジナリティや個性といったものが失われていく。自分で何かを生み出す力がどんどん鈍っていってしまいます。
新しい体験というのは、人間の感性を生かしもすれば殺しもする危険な(とりわけ物を創る人間には)現象を生むのかもしれないと、そんなことを考えておりました。
僕はアーティストあるいはクリエイターとして名乗るのはあまり好きではないのですが、物を創るということで人生を歩んできましたし、おそらく死ぬまでそうでしょう。そういう生き方をする上で、無意識的にか意識的にか、絶対に守り抜くべき自分の聖域というものがあったように思います。それは、およそ三歳~小学校低学年頃の感性や感覚です。
ちょうどこの頃の子供というのは、人格が形成される時期です。思春期とはまた違った形で多感な時期であり、自我や欲求や知恵といった、人間らしいパワーが内側から溢れる時期でもあります。
この年頃はとても感受性が豊かで、外部からの刺激をあっという間に自分のものとし、そして新しい形で吐き出そうとします。一つのインプットから十のアウトプットができるのは、既成概念や先入観などにまったくとらわれることなく、まさに無から有を生み出す根拠のないパワーがあったからでしょう。
長い人生、歳をとればとっただけ人生経験は増えていきます。
しかし、僕の人生にとって本当に大切なものは、幼少期に既に与えられていました。
子供の機転や器用さ、発想力や自由奔放さには素晴らしいものがあります。
それはきっと、誰もが持って生まれた才能なのだと思います。
僕の場合、幼い頃から物創りが好きだったため、無意識のうちに物を生み出す習慣が身につき、無意識のうちにその才能を磨いてきただけに過ぎません。
あとは、その才能をどうやって守っていくか。
物を創る人間として歩む以上、これこそが絶対に守らなければならない財産なのでしょう。
人生のかなり早い時期からそれを自覚していたお陰で、新しい体験が起こっても僕にとってそれは必ずしも関心の対象とはなりません。不用意に感動しようとするのは、ある意味で大人のあざとさです。自分で自分を理想の自分へと導くのは、ありのままの自分を否定するという事。だから僕は、人並には感動しません。鈍感というわけではなく、大人になって知恵がついたからでもなく、ただ当時のまま。子供の頃から何も変わっていないだけ。やりたいことだけをやって、やりたくないことはやらない。無理に「楽しい!」「凄い!」と、思い込もうとしない。ただ直感に従う。シンプルな話です。
社会生活を送る上ではどうしてもやりたくない事だってやらなければなりませんが、そんなわけで物を創る上では徹底してわがままを貫いています。
それは僕にとって、子供の頃の感性を失わないようにするための唯一の防衛策なのかもしれません。
では、よい一日を。