数日前 バイクで日本全国一周の旅をしていた22歳の男性がダムに身を投げてこの世を去りました。
最後の本人のツイートにADHDの診断書と見下ろしたダムへと足を踏み入れる2つの写真を残して。
数々のツイートを辿ると、この旅に出る前からすでに終わりにすることを決めていたのだと思う。
2月に診断が出た時点で決めたのだろうけど
その前から何かしらで生きづらさを感じて
同じく5年前に身を投げたバイク乗りの方が最後に選んだダムも昨年訪れており、色々と思い悩んだ末の結果だったのだろう。
その事が頭から離れず、今日一日ずーっと考えている。
あ、先に断っておくと
私も… なんて事を思っている訳ではないので。
でもなんだろ…読んでるとこの青年はきっと
自責、自罰的な考えをするタイプのADHDなのだなと言うのが分かる。
だからこそ 最後の最後まで はっきりした事はきっと誰にも伝えなかった。
それとなく サインを出しているツイートがあったけれど
それは今振り返るとわかるような事ばかりで、
あくまでフォロワーを心配させるようなものではなかった。
自分の胸にしまっておくのは苦しいが
だからといって心配してほしい訳でも、助けてほしい訳でもなかったんじゃないのかな…
という風に感じた。
その他者への気遣いがあるからこそ、周囲に迷惑をかけてしまう自分という存在が赦せなくなった
というような感じだったのかな…なんて。
もちろん 彼はそうではなかったかもしれないけど
私も 自責自罰的傾向の強い(病院で受けた心理検査の分析結果がそうなっていた)ADHDで
彼の足跡を見ていると なんとなく親和性を感じてしまったんだよね。
彼のことを当事者や非当事者が
死ぬことない とか
当事者の中じゃ恵まれてる方に見えるのに とか
この人が死ななきゃいけないなら、私なんか… みたいな 書き込みを見かけたけど
それは本人のみぞ知ることで他人がどうこう言える事じゃないよな…って。
私は自殺することが駄目なのかどうかがわからない人間なので
したいと言う人を止めた事は基本的にはない。
昔からそう。
そして 自分がそう思う場面は人生で何度もあったけれど、死にたいって人に言ったことはあったかどうかってくらいにない。
それを言う意味もわからなくて。
(言ってる人が駄目とかいう話ではなく、私自身がってこと。)
でも…
言ったら 誰かが全力で私を助けてくれるから
身内でも 他人でも
それが分かっているからこそ、言えなかったのかもしれないな…って思った。
別に助けて欲しい訳じゃないしな〜 って。
彼も そうだったのかもしれないな。
身内や、友人知人はきっと もしもあの時に…って思ったりするだろうけれど
それもきっと 彼には苦しい事だろうなって思う
自分がこの世を去るのに どうして誰かに影響を与えなきゃならないんだろって
迷惑かけたくないから死にたいのに
死ぬのも迷惑かかるって無情だなって
そんな風に きっと悩んだ時間があっただろうからね。
それが人が生まれてきて、生きてきた という事なのだとしたら 仕方ないのかもしれないけれど。
私はただ今は 彼が苦しみから開放されたのだとしたら、いいな…という事しか 言えない。
死にたいと思う人を私は 止めないし、止められない
でも
生きたいって思う人には
生きる事を頑張りたい人には
私も何かしらの形で力になれたら嬉しいなって思う今日この頃。
どんな小さな事だって、何かの大きなきっかけにつながっている事もあったりするから。
頑張りたい人を
頑張る人を
頑張れって
今は全力で応援します。