□ 東川崎蛭子神社
徳川 光圀公御像並頌徳碑
の次に訪れたのは
神戸市中央区東川崎町7-4-12
にあります
東川崎蛭子神社
蛭子神社 と書かれてますね
狛犬も発見
創建年代は不明
承安年間(1171~1174年)に平清盛公によって行われた
大輪田泊の大改築の時に勧請された
7弁天7恵比寿のうちの1つが祀られたのが
東川崎蛭子神社だと言われています
航海安全・商売繁盛の神さまとして
地元の方々より厚い崇敬を受けてきた東川崎蛭子神社は
かつては広大な境内を誇り「えべっさん」で有名な
JR兵庫駅近くの柳原蛭子神社よりも賑わっていたそうです
しかし第2次世界大戦中の1943年(昭和18年)には
軍需産業の一大拠点だった川崎造船所の
生産量増強に向けた拡張工事の為に
現在の場所へと移転を強いられました
東川崎蛭子神社で有名なのが「東川崎恵比須太鼓」です
神戸市中央区東川崎町7-4-11に
東川崎児童館 があります
次は西出鎮守稲荷神社 へ
の次に訪れたのは
神戸市中央区東川崎町7-4-12
にあります
東川崎蛭子神社
蛭子神社 と書かれてますね
狛犬も発見
創建年代は不明
承安年間(1171~1174年)に平清盛公によって行われた
大輪田泊の大改築の時に勧請された
7弁天7恵比寿のうちの1つが祀られたのが
東川崎蛭子神社だと言われています
航海安全・商売繁盛の神さまとして
地元の方々より厚い崇敬を受けてきた東川崎蛭子神社は
かつては広大な境内を誇り「えべっさん」で有名な
JR兵庫駅近くの柳原蛭子神社よりも賑わっていたそうです
しかし第2次世界大戦中の1943年(昭和18年)には
軍需産業の一大拠点だった川崎造船所の
生産量増強に向けた拡張工事の為に
現在の場所へと移転を強いられました
東川崎蛭子神社で有名なのが「東川崎恵比須太鼓」です
神戸市中央区東川崎町7-4-11に
東川崎児童館 があります
次は西出鎮守稲荷神社 へ
□ 楠木正成公墓碑
楠本稲荷神社
に引き続き
神戸市中央区多聞通3-1-1
にあります
湊川神社
次は こちら
史蹟 楠木正成公墓碑
案内板には こう書かれてありました
此の墓碑は延元元年(1336年) 5月25日
御殉節せられて後 150年余を経た
元禄5年(1692年) 12月21日
徳川 光圀公によって建立せられたものである
碑面の8文字 「鳴呼忠臣楠子之墓」は
光圀公筆にして 碑陰に明の遺朱舜水の撰文を彫す
こちらは別角度からです
次は徳川 光圀公御像並頌徳碑 へ
に引き続き
神戸市中央区多聞通3-1-1
にあります
湊川神社
次は こちら
史蹟 楠木正成公墓碑
案内板には こう書かれてありました
此の墓碑は延元元年(1336年) 5月25日
御殉節せられて後 150年余を経た
元禄5年(1692年) 12月21日
徳川 光圀公によって建立せられたものである
碑面の8文字 「鳴呼忠臣楠子之墓」は
光圀公筆にして 碑陰に明の遺朱舜水の撰文を彫す
こちらは別角度からです
次は徳川 光圀公御像並頌徳碑 へ
□ 親子さざれ石
楠木正成公 戦歿地
に引き続き
神戸市中央区多聞通3-1-1
にあります
湊川神社
次は 親子さざれ石
近くの案内板にはこう書かれてありました
親子さざれ石
君が代は 千代に八千代に さざれ石の
厳となりて 苔のむすまで
「さざれ石」は 国歌「君が代」に詠はれて有名です
「細石」と書く通り 細かい石を表はしますが
この細かい石が石灰岩から溶解した強い粘着液で接合固化し
永い堆積中の圧力等で固結融合した礫岩を「石灰角礫岩」と呼び
これが一般的に「さざれ石」と言はれるものです
国歌「君が代」には 万世一系の天皇様を戴くわが国が
そのもとに国民が絆で固く結び合ひ 次第に大きな厳となり
苔のむすまで発展して已まない尊い期待と祈りが込められてゐると言へませう
ここに御奉納戴いたさざれ石は
京都府舞鶴市岡田由里の砕石山露頭のもので
このあたりの地層は 志高群層と総称され
2億4千年前に隆起して出来た地形と言はれます
この地より採取された二塊のさざれ石を
このやうに納めましたところ
その姿が まるで楠木正茂公(大楠公)が
桜井の駅でわが子正行公(小楠公)を前に諭される御姿に想はれ
「親子さざれ石」と名付けました
“青葉茂れる桜井の”の唱歌とともに
これまで多くの日本人に感動を与へて来た太平記の名場面です
正成公は わが子正行公に 自分の死後も帝のために忠誠を励み
決して一族の栄達を望んではならないと諭され 河内の国へ返されます
正成公が 身命を賭して貫かれた「忠誠」の精神は
その子正行公に受け継がれ さらに3世50余年にも亘つて一族一門に継承され
その精神はやがて 幕末を経て明治維新に至る大きな原動力となつてゆきます
そして 今も私共の心の支へとなつてゐるのです
次は湊川神社 菊水天満神社 へ
に引き続き
神戸市中央区多聞通3-1-1
にあります
湊川神社
次は 親子さざれ石
近くの案内板にはこう書かれてありました
親子さざれ石
君が代は 千代に八千代に さざれ石の
厳となりて 苔のむすまで
「さざれ石」は 国歌「君が代」に詠はれて有名です
「細石」と書く通り 細かい石を表はしますが
この細かい石が石灰岩から溶解した強い粘着液で接合固化し
永い堆積中の圧力等で固結融合した礫岩を「石灰角礫岩」と呼び
これが一般的に「さざれ石」と言はれるものです
国歌「君が代」には 万世一系の天皇様を戴くわが国が
そのもとに国民が絆で固く結び合ひ 次第に大きな厳となり
苔のむすまで発展して已まない尊い期待と祈りが込められてゐると言へませう
ここに御奉納戴いたさざれ石は
京都府舞鶴市岡田由里の砕石山露頭のもので
このあたりの地層は 志高群層と総称され
2億4千年前に隆起して出来た地形と言はれます
この地より採取された二塊のさざれ石を
このやうに納めましたところ
その姿が まるで楠木正茂公(大楠公)が
桜井の駅でわが子正行公(小楠公)を前に諭される御姿に想はれ
「親子さざれ石」と名付けました
“青葉茂れる桜井の”の唱歌とともに
これまで多くの日本人に感動を与へて来た太平記の名場面です
正成公は わが子正行公に 自分の死後も帝のために忠誠を励み
決して一族の栄達を望んではならないと諭され 河内の国へ返されます
正成公が 身命を賭して貫かれた「忠誠」の精神は
その子正行公に受け継がれ さらに3世50余年にも亘つて一族一門に継承され
その精神はやがて 幕末を経て明治維新に至る大きな原動力となつてゆきます
そして 今も私共の心の支へとなつてゐるのです
次は湊川神社 菊水天満神社 へ















