1963年三重県出身の大橋くみ子は大学4年生になっていてイラストレーターの仕事は東京でしか出来ず見つけなければ故郷へ帰らなくてはならないと真剣に思っていました。
 
夏頃から新聞の求人欄から書類を送ったり面接に行けど何処も決まらず途方に暮れていました。
 
株式会社ヴァンヂャケットの服大好きの同級生の男の子が偉い人を知っているという事で、12月に入り服のデザイン画を抱えて本社受付を尋ねました、しかし同級生の彼が知っている偉い人は会ってくれませんでした。
 
同級生は引き下がらず受付嬢にどなたかに絵を見て貰えないと帰れないと粘ってくれ、あまりにもしつこいので根負けした受付嬢は企画室に連絡してくれて通して貰える事になりました。
 
そこで当時企画部長であった石津祥介に絵を見て貰えて、その場で「MEN'S CLUB」のイラストの仕事をいただけたのでした。
 
その時の石津祥介のアドバイスは『男の服のデザインは女性には向いていないから、きみはイラストレーターになりなさい』でした。
 
翌1964年3月1日発行の「MEN'S CLUB」に「アイビー集合!」と題して3ページのイラストが載りました。
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デパートの男性靴売り場やVANコーナー、街のVANショップのウインドウに両開きのページを広げた「MEN'S CLUB」が飾られ、その時の感想は「びっくり、ひと事みたい」でした。
 
そして「MEN'S CLUB」が発売されて数日たった頃、運命の扉を開く連絡が入ったのでした。
それは電報で『アルバイトアリ デンワマツ ヘイボンシュッパン シミズ』という内容でした。
 
平凡出版に電話を掛けると編集局長清水達夫が絵を見たいという事を言ってくれました。
訪ねると持ってきた絵を気にいってくれて、小説を読み挿絵を描いて一週間に一度持って来て下さいとの指示がありました。
 
何週目だったか「MEN'S CLUB」に載ったイラストの上の方に「平凡パンチ」とある印刷物を見せられ、日本初の本格的男性週刊誌の表紙を描いて貰うという事になったと言われました。
 
既に清水達夫は1961年1月には「WEEKLY平凡パンチ」の誌名を特許庁に商標登録出願していました。
 
そして、男性週刊誌なので男のような名前にしたほうが良いという事で「大橋歩」というペンネームがつきました。
 
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「平凡パンチ」1964年5月11日号の創刊号から1971年12月27日号の390号までの表紙を担当しました。
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「HEIBONパンチDELUXE」1号(1965)~27号(1970)  「平凡パンチ女性版」1号(1966)~4号(1970)
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故郷の三重県立美術館で2009年「平凡パンチからアルネまで」と題し「大橋歩展」が開催されました。
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