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私の少年時代をあらためて懐古しようと思う。
 1949年私が生まれたところは東京都江戸川区で父が勤めていた役所の公務員住宅であった。江戸川区など東京都東部地域は旧軍需工場などが多く集まっていた。それも中小の工場が多く、いわゆる町工場であった。
 太平洋戦争末期、米軍はそんな地帯を集中的に爆撃していった。木造工場や民家は忽ちのうち火炎に襲われたことで多くの人々は避難経路が塞がれ、ために多数の民間人が死傷することになった。

 その年の8月15日、長かった日中戦争、太平洋戦争が鈴木内閣によるポツダム宣言受諾と昭和天皇の玉音放送によって終止符が打たれ、人々はやっと平和な日常生活を取り戻すこととなったが、一方、米軍の爆撃によって工場や民家が破壊されたことで人々は食べ物を求め地方へ向かい買い出しすることになっていった。然し、この買出しは配給令に違反するということで経済警察によって没収されることに。
 この当時、政府はコメ供給統制を強めていた。然し都市住民にとって米軍による、じゅうたん爆撃によって都市部は壊滅状態であった。食料は死活問題であった。その為、国民は警察の目を逃れ、色々と手を使って主食、副食を確保してゆかねばならなかった。

 その後、経済の回復と共に食料確保も可能になっていった。その決め手となったのは1950年6月開戦の『朝鮮戦争』であった。旧ソ連、中国(中華人民共和国)の支援を受けていた朝鮮民主主義人民共和国軍は突如国境線を越えて韓国領内に侵攻、瞬く間に釜山市に迫る勢いであった。
この時点、朝鮮から米軍等は引き揚げていて軍備が乏しい韓国軍しか存在していなかった。(次回に続く)