当たり前すぎるけれど、本質が大事である。何事もその理解、精通度という類と行動クオリティは比例するわけで。
さて、そこを見失わないようにしたいものだが、とはいえ、難しかったりもするのだよね。
たとえば、人が苛立ちを覚える時。それはもう感情にものを言わせている場合も多そうだ。
『自分の言うこと(指示)に相手が従わない』だとか。『改善方法を話したのに、なぜ、できない?』という風に。
ここにはもっともらしい言葉、理屈、正論が登場しそうだが、ようするに面白くないのだろう。コイツ、オレ(ワタシ)をナメてんのか的に。なので、苛立つ的な。(単なるパワープレイでもあるのだが)
上司は部下のあらゆるクオリティを高め、生産力を上げること。与えられた使命の一つである
上司の役割とは、たとえば作業工程の単なる管理者ではない。本質論をベースにその工程がなぜ必要なのかを教え、あるいは、工程のカスタマイズ、従来以外のアプローチを共に見出したりするわけで。
なので、本質から外れることに対し『やり方も教えているのに、なぜ、できない?』とは、おかしな言い草なわけだ。前述の指示通りにやらないため苛立つ。オレ(ワタシ)をナメてんのか的なわけで。
ようするに、その本質の理解度を相手の中で高めようと努力しないゆえの副産物なだけである。(そもそも、上司自身がその本質を理解できていないパターンもありそうだが)
やや余談的だが、『なぜ?』とは相手を責める言葉なのだよね。たいがいは。『言ったのに、教えたのに、こう指示したのに』が、それに続くわけだが。
もし、本当に相手の真意を知り、聞き、建設的なものにしたいと思うのなら『何ができない障害になっているのか?』という類で聞かないと、得てして分からないものである。また、改善方法も見出せないものだ。(ま、その人の心の声が聞く言葉に表れているわけだけどな)
ふむ。そう思うと、苛立った時、怒りたくなった時、『はて、自分はどれほど本質的か?』と、一呼吸置くことも必要だよね。感情の赴くままじゃなくて。
いや、感情と都合に支配される我々には難関なのかもだけれど。(それでも気を付けるだけマシだと思うわけで)
さ、明日も頑張ろう。無駄に苛立たず、全速力で。