『もし、〇〇したら、〇〇する(できる)』とは、どこまで本気なのだろう | No Rice,No Life! 佐藤琢也公式ブログサイト

No Rice,No Life! 佐藤琢也公式ブログサイト

企業論、人財論、労働論、マーケティング論、プロモーション論。
時事問題、関心事、個人的な日常など、徒然なるままに綴ります。

『もし、〇〇したら、〇〇する(できる)』というような言葉、表現がある。

 

たとえば、こういうケースはありがちだろうけれど、個人的にはどうも穿った見方をしてしまう。

 

●時間があったら、やる(できる)
●予算が得られたら、やる(できる)
●決裁権のあるポジションに就いたら、やる(できる)


いや、その人の人格そのものやその人の全てを否定しているのではない。あくまでも、その言葉について、という意味で。

 

ようするに『条件付き』とは、どこか他者へのアピール感、中途半端感が漂う気がするのだ。意識だけは高い、的な。もし本気ならば、できる範囲で、できることから始められるからな。

 

 

本気じゃないという認識は、一つのスタート

 

時として、人は『自らの熱情はそこに向けられている』と、錯覚したいものだと思う。ゆえに、『ん?本気じゃないな』という認識は大事なんじゃないかと。

 

ようするに『本気じゃない=悪』ではなく、誰かから責めを受けるものでもなく、それもまたスタートラインというか。

 

もちろん、その先は自由だ。仕切り直し的にあらためて本気になるのも良いだろうし、違う何かだっていいわけで。

 

まったくの余談だが、熊本地震発生後、多くの人がSNS上で震災関連事をアップしている。

 

TLには、連日、その多くが並び、多くの人が胸を痛めている様子が窺い知れるが、中にはどうも穿った見方をしてしまうものもある。

 

被災者の方々へのその思いとは、他者へのアピールなんじゃ的な。オレ(ワタシ)っていいヤツでしょ的な。明らかなこうすべき論、強要論は、さすがにどうかと思うよね。

 

さ、明日も頑張ろう。全速力で。