薩摩藩のリーダー、島津久光は「どう現実を捉え、どう行動したか?」 | No Rice,No Life! 佐藤琢也公式ブログサイト

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時事問題、関心事、個人的な日常など、徒然なるままに綴ります。

こんばんは♪


今夜は天体ショー、
「オリオン座流星群」がもっとも見やすい日ですね♪



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       「あなたは「流れ星」を見ることができましたか?」



ボクは少しだけ夜空を見上げてましたが、
月が明るすぎるのか?まったく見ることができませんでした(汗)


ということは・・・

願いが叶わないのか・・・ナ(涙)



さてさて・・・

西郷さんの「願い」とは、何だったんだろうか?
それはどこまで「達成」できたのだろうか?


と、「逆説の日本史(井沢元彦さん)」を読み終えて
そう感じていました。



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  「英国艦隊に惨敗して雄藩薩摩は覚醒した/小学館」



さて、本の冒頭から・・・

「薩摩藩主(茂久)の父」として君臨する「島津久光」と
家臣「西郷隆盛」の関係がよく分かるハナシから展開されていきます。


そして・・・


薩摩藩のリーダーである「島津久光」が
目まぐるしく移り変わる現実を「どう捉え、どう行動したか?」

と、続いていくのですが・・・


「ものスゴいスピードで移りゆく時代」の中では、
とくにリーダー次第で、その後が大きすぎるほど変わる。

と、「現代との共通点」を感じていました。



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           「どうなる西郷さん」



では、少し大筋をご紹介しますね。


まず、西郷さんが「左遷先の奄美大島」から復帰するシーン。


このときの西郷さんは、表向きは死んだことにされて、
奄美大島へ左遷させられていたんですね。


(月照逃亡事件への関与から/菊池源吾と言う名前で島役人を務める)



「なぜ?西郷ドンが左遷?」といえば・・・
安政の大獄以降、幕府に目を付けられていたことと

「久光の亡き父、島津斉興のイヤガラセ」によるもの。


なので・・・

久光と西郷さんの仲は悪く
一生、薩摩中央政権には戻れるハズがない立場だったんです。




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       「西郷なんて・・・いらないのダ!!」


でも・・・
ご存知のように・・・


西郷さんは中央政権に復帰したワケですが、
その手助けをしてくれたのは、大久保利通。


「大殿様のご意向を叶えるためには、
 かの者(西郷隆盛)を召し返されることです。」


と、朝廷をはじめ、天璋院篤姫や近衛家の人々、
または、他の藩の幹部たちとも交流があって人望も厚い、
「西郷隆盛 復帰論」を口説き続けたのです。



そういう背景のもと、
ようやく「島津久光」と「西郷隆盛」の因縁の会談が実現しました。



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         「西郷さん、とりあえず穏便に(汗)」



ところがココで・・・
「ひとモンチャク」あります。


「今度、上洛するつもりだ。
 亡き兄上(島津斉彬)のご遺志を果たすことでもある。
 よろしく手助けを頼むぞ。」


と、言った島津久光に対し・・・


「御前ニハ 恐レナガラ 地ゴロ」

=(斉彬様と比べて、あなた様の見識は、まさに田舎者)


と、西郷さんは直球を投げ返してしまったんです。



さんざん苦心して・・・
久光との会談まで漕ぎつけた大久保利通は・・・
トホホですよね。



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  「先輩、それを言っちゃあ・・・お終いでごわす。」
  「いくらなんでも、ヤリ過ぎでごわす。」

   きっと、こんな感じだったのでは(汗)



では・・・
西郷が放ったセリフは「ただの反発だったのか?」


というと・・・そうではなく・・・


大久保をはじめ、藩内のみんなが
「内心思っていること」を代弁したまで。


でも、薩摩藩は「国父である久光」を担がないと・・・
亡き藩主「島津斉彬の遺志」(=日本改革)に動きだせないワケです。



では・・・
島津久光が見ている「現実」と「上洛計画」はマッチしていたのか?


というと・・・
それは「ミスマッチ」だったんですね。



というのは・・・


久光が目指す「兄、斉彬が立てた上洛計画」は
桜田門外の変で「大老、井伊直助」が暗殺される前のことでした。


そしてまた、
坂下門外の変(老中 安藤信正襲撃事件)の前のことです。


つまり、「幕府の権威」が、まだあったときのこと。


それプラス・・・
朝廷にも各藩にも「斉彬の支持者」がいて「上洛待望論」もあった。


そういう背景です。



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 「朝廷と幕府、そして諸藩が協力しよう!という公武合体論者」




それに対して・・・


久光には、朝廷や各藩から人望も知名度もない。
また、幕府の権威も地に落ちている。



つまり・・・


リーダー「島津久光」の捉えている現実は
「いま」のモノではなく「ちょっと前」のことだったんです。



なので・・・


「斉彬の計画をそのまま実行しよう」とする久光に対し・・・


「ホント、あなた様は田舎者で無能だ。」
・・・と、西郷さんはビシっと言い放ったのです。



では、結局のところ・・・
「久光が望む上洛計画はどうなったか?」


といえば・・・
大久保が押しきり、実行に移されました。


西郷さんも・・・
大久保の説得に折れて、久光の上洛の手助けをすることに。



でも・・・
やっぱり・・・

現実を間違って捉えている「久光の計画」はムリがあったんですね。


というのは・・・


西郷さんは先発隊として下関にある
「白石正一郎宅」に滞在していたんですけど・・・

こんなハナシを聞かされるのです。



「えっ!?
 朝廷をバックに幕府を改革して、日本を立て直そうだって?」


「なんでまた、そんな時代錯誤なことを・・・」


「志士たちは、だれもそんなことを期待しちゃいないよ!」


「だって、斉彬の弟(久光)が、兄の遺志を継ぐとは
 倒幕に踏み切ることじゃないの!?」


「みんな・・・、薩摩が立つなら!倒幕あるのみ!
 と、京に集まっているよ!」


・・・と。


つまり・・・


久光と志士たちの間には大きすぎるギャップがあることが

分かったんです。



いやぁ~、コレは大変です。


みんな「幕府を倒すぞ!」と、「その気」になっているんですからね。


たとえば・・・


「薩摩が立つなら!」と、坂本龍馬は土佐藩を脱藩しました。


また・・・


土佐勤皇党のリーダー、武市半平太は
「土佐藩を自由に動かせるように!」
と、藩の保守派の筆頭、吉田東洋を暗殺してしまっています。



さらに・・・


清河八郎は、久光の上洛に合わせて
佐幕派の筆頭「関白九条尚忠」や京都所司代「酒井忠義」を
葬る計画を立てています。


これには討幕派の薩摩藩士、
「有田新七」が同志を連れて参加することになっていて
薩摩藩邸近くの「寺田屋」にゾクゾクと集結しています。


(坂本龍馬が危うくヤラレそうになった、あの寺田屋です。)



こんな感じて、みんな「ヤル気マンマン!」だけど・・・


肝心の久光は・・・
「幕府を倒すんじゃなくて、幕府と協力するんだ!」
という立ち位置。



いやいや、ホントに大変なことです。


なので、それを知った西郷さんは・・・


「カレらの計画は、時期早々でごわす!」
「やっても失敗するだけでごわす!」


と、急いで京へ向かい、
同じ薩摩藩の討幕派たちにも「動かぬように!」
と、説得を試みたのでした。



いっぽう・・・


京へ向かう途中の久光には、「西郷隆盛が、独断で京へ向かった!」
という報告が入ります。


これには・・・


「オレの指示をムシして、了解もなく京へ向かっただとぉ?」
「なにごとゾぉ!!」


と、怒り出し、西郷さんを罪人扱いして薩摩へ戻してしまったのです。


(その後は、徳之島への遠島処分)



でも・・・

西郷さんが京へ向かった理由は「討幕派を鎮めるため」であって、
独断となったのは「一刻も早く行かないと間に合わない!」

と、考えたから。


つまり・・・
久光の意に沿うことであり、それをフォローする行動でもあります。



げんに・・・このあと・・・


久光は寺田屋に集まっている「討幕派の薩摩藩士」に使者を送って
暴挙をやめさせようとしていますからね。


ようは・・・
西郷さんさんがしたことも、久光がしたことも同じなんです。


違うのは・・・
「無断」か「了解を得たか」。それだけ。



では、京にいる薩摩藩士たちは、久光の言うことを聞いたのか?


というと・・・


「これだけみんなヤル気なのに、なにを言ってんの?」
「流れを読めば、ヤルに決まってるでしょ!」


と、猛反発します。



その結果・・・


「久光様の命令を聞けないだと!?」
「それは、けしからん!反発するヤツは叩き斬ってヤル!」


と、薩摩藩という身内同士で殺し合う惨劇、
「寺田屋事件」が起こってしまったのでした。



おまけに・・・


「薩摩藩の討幕派」は、
「長州藩の討幕派」、久坂玄瑞と手を組んでいたため・・・
「薩長同盟」までブチ壊してしまったのでした。




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「ホントは、このときに薩長同盟は実現できていたんですけどね」




島津久光という「薩摩藩のリーダー」は
「いま、世の中で何が起こっているか?」を見誤りました。


そしてまた・・・

藩という「組織の向かうべき道」を
ハッキリと示すこともできませんでした。


そのため・・・

藩士たちも「それぞれの考え」や「それぞれの解釈」によって
バラバラとなってしまった。



そう考えると・・・


世の中が、ものスゴいスピードで流れている現代も・・・

リーダーが「どう現実を捉え、考え、行動するか?」
それ次第で「その後」は大きすぎるほど変わる。


と、感じることができます。



たとえば・・・


人々の情報の取り方は
「テレビや新聞、雑誌やラジオ」の4大マスメディアから
「インターネットやSNS」へと急速に移行しています。


また・・・


「広告が効かない時代になっている、と感じているか?」
という各社の広告宣伝部に対する質問には、

「71%」が「イエス」と答えています。


(戦略PRについての意識調査:ネットエイジアより)



そして・・・


テレビCMが放送された後の「インバウンドの数」も
毎年、右肩下がりに。。。


(インバウンド=
 消費者がサンプルや資料請求のために掛けてくる電話の件数)



さらに・・・


お店も・・・企業そのものも・・・
消費者が発信する情報や口コミなどによって
あらゆる角度から評価されています。



このような「大きな変化」を挙げると、まだまだキリがありませんが、
幕末から明治に至ったときと同じような「大変革」が起こっていることは
たしかなことです。



そう考えると・・・
歴史から学べることは、たくさんありますね。



さてさて・・・


最終的には西南戦争に発展し「もうここいらでよか」

と、その生涯を閉じられた西郷さんは、

道理に沿った生き方であったからこそ

驕ることなく、常に民衆のことを考えた政治を実現できたのでしょうね。


でも・・・

「勝てば官軍、負ければ賊軍」」の当時の世界では、

チカラによって負けてしまいましたが。。。



ただ、いまはそうじゃない。


「勝てば官軍」は通用せず・・・

「道理」を大切にしないと、ビジネスをはじめ、

あらゆることでなかなかウマくいかない「世の中」、


そういう意味でいえば・・・

西郷さんの「願い」は叶いつつあるのかもしれませんね。