もう、絶望的だった。



日本、シンガポールへの搬送は諦めた。
日本領事館、病院の助けを借り、
ジャカルタの国立循環器センターへ転院することになった。



ここでも私は独り苦しんでいた。

人一人の命が私一人にかかっているようで、私には荷が重すぎた。

そして、
それを吐き出す場がないことが
更に私を追い詰めた。


寝ながら起きて、
起きながら寝て・・
そんな風に
日に日に弱っていく彼の側に
ぼんやりとついていた。


全て放り出して、
逃げ出したいと何度も思ったが
見殺しにするようで
それはできなかった。




そんな時だった

JJC(ジャカルタ ジャパン クラブ)の
登録医師、メンバーの方々に出会った


彼らによって、
私は確実に救われた。



母国語である日本語で
不安・恐怖
思ったこと
感じたこと
を何も考えずに話せる喜び


そして
同じ日本人としての感性
掛けてくれる言葉、お話、心遣い
そして手が届く距離に、
側に、いてくださったこと
すべてが
私に安心を与えてくれた


また、
病院やドクターとのやり取りも格段にスムーズになり、
病気の原因や経過、
彼が ” マルファン症候群 ” という
先天性遺伝子疾患を持っていたことなど、

今まで良くわからなかった部分もきちんと理解できた。



この方達は、
見ず知らずの、
日本人ってだけの私に本当によくしてくれた。

皆さんご家庭もあり、
それぞれ忙しいのにも関わらず、
私を一日一人にしないよう、
いつも誰かしらが来て下さって、
寄り添ってくださっていた。


彼らのお陰で、
あの時、私がどれだけ救われたか・・
簡単に言葉にはできない。








毎日、病院のエントランスに繋がる
大きな階段に座り、
彼の回復を祈った。




だけど

転院後、
10日ほどで彼は亡くなった。




彼は元気な頃、口が達者だった。
喧嘩になれば、お互い引かないので
酷い言い合いになっていたけど、

日に日に弱っていき、
人格が変わってしまったように見えた。
何かしらの
脳への影響があったのかもしれない。

彼と最後に話した時
それはまるで
小さな子供のようだった。

それが辛かった。


そして、尿毒症も併発していた。
彼の細い身体、顔が
酷いむくみのせいで、
すべて変わっていった。



彼の死後、遺体は
死体安置室へ運ばれた。


このとき最後のお別れに、
彼に触れた

この時の感触を
今も私は忘れる事ができない




バリでは何かの風習で
遺体を家の中に入れるのを嫌う人が多いらしい。

ジャカルタからバリへは飛行機移動となり、
その上、屋外に遺体を置いておいたのでは、
遺体は猛スピードで傷むのはわかりきっていた。

そのため、
彼の遺体は亡くなった数時間後
荼毘に付された。



彼が亡くなっておよそ12時間後
私はもう、日本行きの飛行機に乗っていた。

彼の遺骨と共に。