VALISのブログ

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先天性クレージー症候群を煩う孤独な男の内的創造の記録、或は遺言

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プールナ・スワラージ......(完全な独立)

 

 

考えさせられる言葉。これはインドの急進派ネルー首相らがイギリス支配期に掲げた独立のためのスローガンである。

 

この言葉をいまの日本に当てはめてみて、この国ははたしてこの言葉に即しているのだろうか、そんなことを考えていると様々な思案が頭を駆けめぐったので、それらをいったん文章に置き換えて整理してみようと思う。こういった類は皆あまり直視したがらない事柄であるし、人から敬遠される素材のひとつでもある。しかしいつも問題が起こるたびに嫌だけれども考えさせられる事柄でもあり、決してたわい無いはなしではないと思うのだが、、、はたしてどうだろう。

 

 

 

国家の三要素とは.........主権・領域・国民(国際法上の定義)

 

沖縄の地上は18%、上空は100%米軍基地の管理領域下で、東京を中心とする首都圏上空もまた米軍の管理領域下とされる。

 

 

 

このプールナ・スワラージという言葉に即するかたちをとるとなると、自国は他国軍基地などを国内に配備しないはずである。

したがって、他国軍がこの島に駐留しているというのは、我々は他国軍に少なからず依存しているといえる。もうすこし嫌味な言い方で表現すれば、我々は他国軍に援助していただいてるというかたちにもなっている。そのおかげで私たちは各々日々安心しながら好きなことができ平和な暮らしができている。もしそうでないなら、この島は自治権と国交の自由を与えられた立派な植民地といえるだろう。

 

だが一方で、基地はいらないという声もある。不合理なことが罷りとおり、どう考えてもおかしいと思える実状がある。この声を突きつめ改善策を案じていくと、いつかは憲法改正というものにぶち当たってしまわないだろうか。なぜなら現状の憲法は、占領軍がいるという前提のもとで書かれていたわけなのだから、もし米軍が駐留していなければ、たいへん危険な結果となってしまうおそれがある。したがって自衛隊という組織はもっと重装備されていなければならないだろう。

 

だからサンフランシスコ講和条約(1951年9月8日)によって主権・独立が認められたという前提の裏側には、同日にちゃっかりと旧日米安保条約を締結しているし、それに伴い新日米安保条約および日米地位協定(共に1960年1月19日)と続いているわけだから、これらの条約があってこその平和憲法という名の平和が維持され、平和という疑似体験ができているのではないか。

 

 

こう考えてみると、米軍基地は国内にはいらない(自主路線)、自国で軍を配備しない(全裸状態)、憲法改正反対(常に米軍に依存)というばかりでは、どこか筋が通らない。中立国であるスイスでさえ自国軍を配備しているご時世なのだ。まさか米軍に撤退してもらい、自国でも軍を持たないというのなら、今までの世界史でいったい何を学んだというのだろう。そんな綺麗ごとでは国家は保てないし、すぐにどこかの国が占領してくるだろう。まさか国際連合がそう都合よく守ってくれるなどと思ってやしないだろうか、それもまた依存路線のひとつになるのだが、国連の安全保障理事会で国際問題を解決するための決議には9カ国以上の賛成が必要であり、また常任理事国は拒否権をもっているため、そのうちの1国でも反対なら議決は採択されない(=どう事が運ぶかわからない)のだ。

 

 

 

国家の三要素とは.........主権・領域・国民(国際法上の定義)

 

沖縄の地上は18%、上空は100%米軍基地の管理領域下で、東京を中心とする首都圏上空もまた米軍の管理領域下とされる。

 

 

 

そしてもし、プールナ・スワラージを目指すというのなら、そこにはナショナリズムや民族団結などある程度右傾化された勢力が高まらないとまずは起こらないであろう。歴史上で独立を求める運動が高まった時には、その背景にそういった勢力が少なからずあったようにおもえる。かといって頭を丸める必要があるというものではないし、靖国へ参拝にいく必要があるというわけでもないだろう。まだまだ具現化されていない穏やかで新しいかたちのナショナリズムというありかたもないとはいい切れまい。なにも古いスタイルをまるまる踏襲するだけが我々に課された理念であるはずがない。たとえ自国軍を配備したとしても他国を占領しに行かない選択だってある。資源が必要なら貿易すればいい。この資源不足というのが各国にとって一番大きな問題となるなのだろう。それが戦争が起きるもっともおおきな要因のひとつだろう。

 

 

べつに他国に支配されていようとどちらでも構わない、あまり関心がないというところにはプールナ・スワラージというものは存在しないし不要だ。そんな民衆なら服従すら厭わないだろうし、逆に服従している方が楽だし、駐留軍が何をしようと関心が湧かないしどうでもよいことになるだろう。おまけに民主主義国とくれば、他者への関心ごとより自分のことだけに集中していける環境が設けられているわけだから、益々自分以外の事柄への関心事が薄らいでいくだろう。そしてこの民主主義の名の上でおおきく寝そべって、各々の関心事が単一化されていく状況の中で、基地問題でも何でもかんでもが政府のなすがままの状態になっているのが今の日本の体たらくなんだと思う。これはけして民意を汲みとった結果ではない、資本家の意向と言った方が正しいだろう。民主主義である前にまず資本家にとって都合のよい資本主義国家なのだ、この国は。だからアメリカなどの資本家たちは財産を手放しかねない自国や他国の共産主義勢力の拡大を畏れていたのではなかったか。そういった国家に懐柔され、すくすくと成長を遂げたのがこの国ではなかったか。

 

そしてそんな体制ではまず何も基地問題は解決しないだろうし、これから先もずっとずっとこんな調子で駐留軍に依存していくことになるのだろう、何か大きな事件が起こらないかぎりは。もし起こったとしても、もうその頃には誰もがプールナ・スワラージなど必要としてはいないだろう。

 

なぜって、大多数の国民が好きなことができてるこのままの服従路線でも楽だからいいと思ってるだろう。

 

好きなこともちゃんと用意されて、みんなある程度満足できてる社会なら文句をいう必要がないでしょう。見えない危機の中では一人ひとりの内面にしか平和は存在しないからね。

 

 

前文でもすこし触れたが、もし米軍がこの島から撤退したらどうなるのかを勝手に想像してみると、おそらくおぞましい世界が待ち受けてるのは想像に難くない、しかし国民主権・民主主義という機能してるか否かはべつとしてこういうスタイルをひとたび取り入れた後に自国は自国で守る路を選ぶなら、民衆の意識の次元が移行し今よりもはるかに責任感の強い人間意識が形成されていかないとも限らない。だがそんなワイルドな時代をはたして誰が望んでいるかだ。今の私たちはおそらくそんなものを必要としていないだろうし、ただ目まぐるしく移ろいゆく時代の流れにどれだけ機能的に順応していくかだけが求められているだけだろう。すべては受動態だ、マテリアル世界の上で踊らされてるにすぎない。したがってインスピレーションなどのヴィジョンが上流となる河の流れはそれを遂行するにあたり時代の流れに逆行する必然性が生まれるのも否めない。しかしそれはあくまでも人間社会がつくりだした流れに対する逆流なのであり、自然界における逆流ではない。時にはそうした営みがなければ、私たちはただ河に流される空き缶のごとくなってしまうだろう。

 

 

来年はオリンピックの熱に浮かされて、そのまま憲法改正へとことが運ぶ画策がなされているのだろう。もし改正されたなら、安倍首相も祖父の岸信介の思いを受け継いでさぞかしご満悦と言ったところか。だがしかし、憲法改正がアメリカに服属するかたちをとるのであれば悪化の一途をたどる可能性は大いにあるし、岸信介の思惑とも異なるだろう。そしてもう一つ考えられるプールナ・スワラージとはこの政府から完全に独立することである。

 

 

 

 

 

※インドの独立記念日は、日本の終戦の日と日付が同じです。特に意味はないですが。