3ヶ月程前、高野山に行ってきた。メンバーは私を入れて3人と我が家の犬(チワワ♀)と同行者の犬(チワワ♂)。
これまでも、家が高野山真言宗という事もあってか、高野山には何回か訪れているが、今回は一身上の事情もあり、
予てから行きたいと思っていた事が実現した形である。
高野山奥の院近くの「中の橋」の駐車場で自動車を置き、奥の院入口近くの案内所にて犬の同行の可否を問い合わせた所、弘法大師が当地の地主神狩場明神の犬に導かれて高野山に訪れた故事に因んで了承を得たので、共に参拝することになった。
周知の通り、高野山奥の院には弘法大師の御廟があり、同所において入定し、今現在も衆生を救済し続けていると言う。かかる大師への信仰を入定信仰と言い、今日、真言宗(特に高野山真言宗)の信仰の大きな柱となっている。
尤もよくよく調べてみると、大師の入定信仰は弘法大師の「入定」後に直ちに形成されたものではなく、「入定」してから約1世紀程の後の10世紀前半頃から徐々に形成されてきたものらしい。その契機となったのが、真言宗の主導権を巡って高野山を争った東寺の長者観賢(853-925)による大師号宣下の一件である。
観賢は、度々、朝廷に働きかける事によって、918年、遂に空海への弘法大師号宣下を実現させ、金剛峰寺座主としして自身の高弟らとともに高野山に乗り込み、大師号の報告会を行なっている。この報告会のあたりから、弘法大師は実は亡くなって荼毘に付されたのではなく、御廟内部で窟内にて入定していると言われる様になったらしい。その後、入定信仰は観賢の流れを汲む真言宗小野流を中心に形成されてゆき、やがて、その法孫である曼荼羅寺の仁海(951-1046)の運動によって関白藤原道長の高野山参拝が実現し、以後、貴顕層の間での大師信仰が広まってゆくことになる。
皇族、摂関家などの貴顕層を中心に広まっていった大師信仰とは別に、平安時代後期頃から聖と呼ばれる勧進僧の手で今度は大師信仰が広汎な庶民階級に広められ、その一環として入定信仰も広く普及していった様である。
現在、弘法大師が入定していると言われている御廟には維那と呼ばれる役職の僧しか入ることはできない。そして、御廟内の事柄は他言無用の秘密とされ、又、歴代の維那は決してこの事に関して口にすることはないので、その内部については謎のままである。
我が家の犬を胸の辺りで抱いて、御廟に向かって合掌しつつ、勝手ながら、御廟内の様子について、生前同様に大師は禅定状態にあるのか、或いは大師の等身大の木像を安置していうのか、或いは何もない、言わば、メッカのカーバの内部の様に、ただただ空間のみがあるのか、若しくは五輪塔の様な墓塔があるのか、色々想像していたが、その時、同行者の一人が「やはり、この辺りには何か神聖なものがいる為か、犬が全く吼えないね。」と言ったの耳にして、そう言えば、普段、気に喰わないことがあると、すぐに吼える我が家の犬が此処奥の院では全く吼えていない事に気がついた。
入定信仰において言われる通りに弘法大師が御廟内で禅定状態にあるのかどうかは私には分らない。ただ、私は犬の方を見て、犬は犬なりにこの高野山奥の院という歴史的に形成されてきた神聖空間に何かしら霊的なものを感じているのかなと思いつつ、御廟周辺の霊気を満喫させていただいた。
