ゆぞの妄想日記 -2ページ目

ゆぞの妄想日記

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最近、世の中に起こっている様々な出来事を見て、終末が近いと感じることが多くなっているように思います。地震、疫病、飢饉などなど。このような、しるしは果たして神によるものなのか。聖書には次のように書かれています。

マタイ16-1
パリサイ人と人とが近寄ってきて、イエスを試み、天からのしるしを見せてもらいたいと言った。
イエスは彼らに言われた。「あなたがたは夕方になると、空がまっかだから晴れだ。と言い、また明け方には空が曇ってまっかだから、今日は荒れだと言う。あなたがたは空の模様を見分けることを知りながら、時のしるしを見分ける事ができないのか。邪悪で不義なる時代は、しるしを求める。しかしヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう。」

とあります。ヨナのしるしというのは、復活のことです。今のこの邪悪で不義なる時代に天から与えられる最初のしるしは復活なのです。ですので今見せられているこれらのしるしは、この世を裏から動かしている欺きの蛇が、偽物の救世主を出現させるために見せているものです。これはたしかに終末のしるしです。偽物の救世主の出現は聖書に預言されていることだからです。しかしこれは天からくるものではなく地からくる欺きのしるしなのです。

テサロニケ第一の手紙4-16
すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲につつまれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互いに慰め合いなさい。


まさしく文字どおり、このよみがえりが天から与えられるしるしであり、地上に神の裁きがくだされる前の予兆です。


地上への天からのさばきの前には、必ず天から逃れの場所が与えられます。この事はソドムの町が滅ぼされる時にも約束されています。

創世記18- 23
「まことにあなたは正しい者を、悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。たとい、あの町に五十人の正しい者があっても、あなたはなお、その所を滅ぼし、その中にいる五十人の正しい者のためにこれをゆるされないのですか。正しい者と悪い者とを同じようにすることも、あなたは決してなさらないでしょう。全地をさばく者は広義を行うべきではありませんか。」
主は言われた、「もしソドムで町の中に五十人の正しい者があったら、その人々のためにその所をすべて許そう。」 

さらなる交渉の末にもし一人でも正しい者がいたらこれを滅ぼさないという約束までしてもらえたのですが、結局のところソドムの町には義人は一人もおらず、天からのさばきにより滅ぼされてしまいました。しかし義人であったロトには逃れの場所が用意されていました。

この逃れの場所はいつの時代にも必ず用意されているものです。

しかしまず、さばきは神の家から来るとも書かれています。

ペテロ第一の手紙4-17
さばきが神の家から始められる時がきた。それが、わたしたちからまず始められるとしたら、神の福音に従わない人々の行く末は、どんなであろうか。

矛盾しているように思われるかもしれませんが、そうではありませんね。神の家をまずさばくのはこの世だからです。

ルカ22-31
シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。

ヨブが試されたように、弟子たちが試されたように、必ずこの世がわたしたちを試す悩みの時が来ます。そして最後まで、主キリストを待ち続けた者には勝利が約束されています。この世を選んで獣の刻印をしるされた者は、地上に取り残されてしまいます。選民思想だ!なんて良く言われますが、実際のところは最後にどちらかを選択するのはわたしたち一人一人なのです。血肉による戦いではなく霊による戦いであるというのはまさにこの事を指しているように思います。この重要な選択を誤らせようと強い欺きの力が働いています。最後まで警戒を怠るべきではありません。主と会うのは空中である、と言うのを忘れなければ騙されようがないとも思えますが。

信じる者は救われる、もっと言うならば最後まで信じ続けた者が勝利を得る、のであります。

さて、神を選んだ人たちが地上から取り除かれるならば、長子権を持っていたはじめの選民であるユダヤ人たちはどうなるのでしょうか?

黙示録1-7
見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。しかり、アァメン。

とあるように、彼らはキリストを否定した罪ゆえに地上で主を仰ぎみることになりますが、そこで罪を悔い改めるならば、これは異邦人に与えられた恵みの大きさゆえに、主イエスキリストの犠牲の大きさゆえに、許されて生きることになります。これはまさにユダヤ人たちが荒野で青銅のへびをつくって、仰ぎみることで生きたのと一緒であり、この事に対するひな型でもあります。(民数記)
そして遅く産まれたゆえにヤコブから寵愛をうけたヨセフと彼を罠にはめた兄たちの話とその結末も、ユダヤ人と異邦人に対応するひな型になっていると思われます。(創世記)
そう思いながら読むと彼らの和解はめちゃ感動します。

ユダヤ人も、地上と御国とを繋ぐための祭司となるために備えられたものです。彼らは嗣業を受け継ぐとあるのもその為ではないでしょうか。


詩篇141-10
わたしを守って
彼らがわたしのために設けたわなと
悪を行う者のわなとを
のがれさせてください。
わたしがのがれると同時に
悪しき者をおのれの網に陥らせてください。


そして聖書預言は、偽救世主を本物であるかのように見せる為に利用されていますが、これが神様に許されているのは、この世の支配者から聖書のみ言葉を守り、わたしたちに対する警告の言葉を取り除かれないようするためです。

彼らはすべての人間を騙すために聖書を利用しているつもりですが、実は逆に神様に利用されているだけです。最後には騙すために自分で用意した罠に自らがハマることになります。

また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。

とあるように最後の最後に彼らは自分たちの敗北を知ることになります。

黙示録17-17
神は、御言葉が成就する時まで、彼らの心の中に、御旨を行い、思いをひとつにし、彼らの支配権を獣に与える思いを持つようにされたからである。

思いを持つようにされた、とあります。これは神が直接、彼らの心を動かしたのではなく、聖書によって彼らを動かしているのです。

こう考えると、聖書の凄まじさというのが良く分かります。世界をこのように動かしてしまうのと同時にそれは救われるための警告の言葉でもある。このような本は聖書の他にはひとつもありません。まさしく神のみことばです。みことばのひとつも軽んじるべきではありません。警告の言葉を聞き逃さないように、すべて自分に対する警告である、と思いながら聖書は読むべきだと思います。怠け者ではなく、勤勉なありのようにみ言葉を蓄えて備えていようではありませんか。




おわり