イラストレーターのヤギヤスオ(八木康夫)が今年4月に亡くなった。八木氏と言えば仕事的には細野晴臣や『JAGATARA』『ボ・ガンボス』などのアルバムジャケットを手掛けた事で有名だが、フランク・ザッパの研究家という顔もあった。フランク・ザッパは『マザーズ』名義も含めて130枚以上のアルバム音源が発表されている。その殆どを聴いた事がある日本人は八木氏だけではないかな…と思う。音楽好きでも凝り性が希薄な俺にとっては、畏敬すべき音楽マニアの大家であった。

 81年に発売されたザッパのアルバム『ユー・アー・ホワット・ユー・イズ』の、発売当時の邦題は『我こそつまるところ己れなり』。命名したのは勿論八木氏である。禅問答じみた邦題のセンスがザッパの音楽を的確に表現しており言い得て妙と思ったのは、俺だけではないはず。

 80年代に突入寸前のフランク・ザッパは絶好調で、ディランをおちょくった事で有名な『シーク・ヤプティ』と、三部作『ジョーのガレージ』を79年に発表。80年はアルバムを発表する事はなかったが、81年は本作の前に4枚のアルバムを発表と超多作。おまけに本アルバムは2枚組の大作なのだ。

 何でそんなに多くのアルバムが作れるのかと言えば、録り溜めておいたライヴ音源を加工及びオーバーダビングを施してニューアルバムとして発表するケースが多いからで、本アルバムの曲も元ネタは、78~80年までのツアーで「新曲」として披露されたライヴ音源なのだ。

 

 タイトル曲の『我こそつまるところ己れなり』は、白人の真似をしようとする黒人を皮肉った曲で、ライヴではその歌をわざわざ黒人のバッキングメンバーに唄わせていたというから、かなり強烈な毒があると言えるだろう。

 

 アルバム冒頭を飾る『ティーン・エイジ・ウィンド』は、奇妙なリズムと妙に懐かしくも聴こえるヴォーカルが合わさり、そこに割り込む何者かのヴォイスをも重ねられるという、ザッパならではの複合音楽。

 

 A面最後の曲『災いを呼ぶ履物第三楽章のテーマ』は、80年春のツアーライヴの音源に、スティーヴ・ヴァイがオーバーダビングした本アルバム唯一のインスト曲。後にギターヒーローとなるスティーヴ・ヴァイの変幻自在なギターがザッパサウンドをバックに飛翔する。

 

 

 B面最後の曲『突出した頭』は78年のツアーで既に披露されており、本アルバムでは最も古い曲になる。間奏のザッパ自身による変態チックなギターソロが短いながらも強烈。リスナーをからかっている様なヴォーカル&コーラス、喋り声が混ざって混沌とした音楽。

 楽曲の所々の挿入される声はザッパの愛娘(当時13歳)との事。1曲1曲取り上げてもアルバム全体のイメージを伝える事はなかなか難しいのだが、高度な演奏技術を参加メンバーに要求して(強要?)、変幻自在にオンリーワンな音楽を作り上げていくザッパのイマジネーションは普通に凄い。

 歌詞に関しては日本人に伝わりにくいのだが、ザッパはともかく型にハマった生き方しかできない人間が嫌いらしく、本アルバムでもヤッピーや未だにマリファナ・ハイになっている「デッド・ヘッズ」などを槍玉に挙げて毒を吐いている。その反骨精神は生涯変わる事はなかった。

 現在本アルバムはタイトルが原題に変更されて、収録曲も原題に添ったタイトルになっているけど、アナログ時代の邦題の方がザッパらしくていいね。その曲名も八木氏が付けたのかな?

 で、アルバムは『徴兵命令です』という曲で終わるのであった。

 

 

 

 80年代に入りロックに限らず様々なジャンルの音楽を聴くようになってからは、米国や英国でどんなバンドが流行っているかなんて皆目分からなくなっていったが、そんな俺でも米国の『ニルヴァーナ』と『レッド・ホット・チリ・ペッパーズ』ぐらいは一応何となく知っていた。特にレッド・ホット・チリ・ペッパーズは「レッチリ」と略され用語として定着している感じ。来日公演も頻繁に行っており、07年と去年は東京ドームワンマンライヴ…って、バリバリのビッグメジャーじゃん。おみそれいたしました…。

 レッチリが結成されたのは83年。翌年1stアルバムを英国のパンク・バンド『ギャング・オブ・フォー』のアンディ・ギルのプロデュースで発表。2ndアルバムのプロデューサーがPファンクの帝王ジョージ・クリストン。それだけでレッチリの音楽性が大方予想できるが…。メンバーの脱退や死亡があり、ニューメンバーを加えてレコーディングした4rdアルバム『母乳』(84)が全米チャート・インし人気もメジャー級になった。

 それに続いて91年に発売されたのが、さっき聴いた『ブラッド・シュガー・セックス・マジック』。プロデューサーにヒップ・ホップ系の仕事で名を上げた(その後超大物に)リック・ルービンが就任。この時のレッチリのメンバーはアンソニー・キーディス(ヴォーカル)、フリー(ベース)、ジョン・フルシアンテ(ギター)、チャド・スミス(ドラムス)という面子。

 

 トラック1『パワー・オブ・イコーリティ』は直訳すれば「平等な権力」。政治家の主張する平等なんて所詮白人至上主義だろ? そんな権力には納得しない、俺は言いたい事を言うしやりたい事をやる…という戦闘的な詞で、「ロックに政治を持ち込むな」とか主張する輩からすると、レッチリは全否定という事になってしまうが…。『パブリック・エナミ―』の『ファイト・ザ・パワー』を連想してしまうラップ・ロック。

 

切れ目なくトラック2『イフ・ユー・ハフ・トゥ・アスク』へ。直訳すると「もし質問があるなら」。ファンキーぽいリズムやコーラスもかなり黒人のファンク・ミュージックの影響を受けている感じ。後半から登場するギターソロもPファンクぽい。ラップはやや諦観ぽいが…。シングル・カットされたがヒットせず。

 トラック3『ブレーキング・ザ・ガール』の歌詞は、ホントの兄妹の様に育った女のコに手を出して心身共に傷つけ、後悔に駆られる懺悔の歌。一転してアコースティックギターを使用、切々と唄い上げるヴォーカル。メロトロンが導入され随分雰囲気の異なる曲。米国では最高位15位、英国でも小ヒットしたシングル曲。

 トラック4『ファンキー・モンクス』は直訳すれば「おかしな僧侶」。この世に聖人君子なんていない、道端(ストリート)にいる君を俺流のやり方で愛したい それが君に受け入れられるのか…という様な詞で、奇麗ごとではない愛について唄っている。イントロの凝ったギター。重いリズムセクションが印象的だ。間奏のギターソロもインパクトあり。

 トラック5『サック・マイ・キッス』はタイトルからして卑猥ソングと判る。「俺のキスを吸い上げてくれ」とか「俺のスタンガン」とか露骨な比喩がいっぱい、ドラッグ体験も堂々と唄い込まれており、米国では放送禁止にならなかったのだろうか。

 トラック6『アイ・クド・ハヴ・ライド』は直訳すると「俺は嘘をついていたかもしれない」。当時アンソニーは故シネイド・オコナ―と付き合っていたが、つい他の女と関係を持ってしまい、シドニーは当然激怒して彼の下を去ってしまった。今更後悔しても先に立たず…そんな心情を素直に綴っている。アコースティックギターを主軸にした演奏に途中からエレキギターが入ってきて、それがまんまアンソニーの感情の如く。

 トラック7『メロウシップ・スリンキー・イン・Bメジャー』は前曲のウェットな雰囲気をブッ飛ばす様なラップロックスタイル。あまり意味もなく思いついたワードをラップしているみたいだ。コーラスも入ったりしてノリはいい。

 トラック8『ライチャス & ウィッキド』は「正義と不道徳」という様な意味。どうやら反戦ソングらしい。ミディアムテンポで唄われるラウド系のナンバー。飛び跳ねる様なベースのフレーズが厭でも印象に残るね。

 トラック9『ギヴ・イット・アウェイ』はシングルカットされ米国ではパッとしなかったが、英国ではかなりのヒットになった。直訳すると「皆くれちまいな」となる。エロチックなワードもあるが、基本的には自由平等、差別や格差がない世界を目指そうぜというメッセージソング。グラミー賞も獲得したメンバーもお気に入りのソングで、ライヴでは常にアンコール用に演奏されてきたという。

 

 トラック10『ブラッド・シュガー・セックス・マジック』は、タイトル通りのSEX讃歌。イントロのヘッドの部分のギターの弦を弾く音から始まるヘビーなロック。歌詞がヤバいのでわざと聴き取りにくく唄っている様だ。

 トラック11『アンダー・ザ・ブリッジ』は全米2位まで上がった大ヒット曲。アンソニーがドラッグ中毒にハマり、そこから抜け出そうとして禁断症状に苦しめられた時の孤独感を唄っている。イントロの孤独感を匂わすギターのアルペジオ、嘘の感じられないヴォーカル。淡々とした演奏にコーラスなどが加わって大合唱になっていく下りが感動的である。

 

 トラック12『ネイキッド・イン・ザ・レイン』は自然回帰をテーマにした曲で「裸で雨の中に飛び出そう」と訴える。歌詞中に児童文学の主人公「ドリトル先生」も登場。景気のいいドラミングが前面に出たミキシング。ベースもソロを取って聴かせます。

 トラック13『アパッチ・ローズ・ピーコック』の歌詞に「ニューオーリンズ」が登場。カッティングのキレが良いギターに、土地柄故にホーン・セクションが加わるというアレンジで、ハミング風なコーラスも面白い。

 トラック14『グリーティング・ソング』は畳みかけ風なラウドロックで、演奏力も高いしライヴで演ったら盛り上がりそうな曲だが、アンソニーはリック・ルービンに無理やりやれと言われてレコーディングした曲で気にいっていないとか。

 トラック15『マイ・ラヴリー・マン』は、アンソニーとフリーの親友でレッチリの初代ギタリストだったヒレル・スロヴァクの事を唄っている。ドラッグ中毒で死んだ彼の死に即してアンソニーはドラッグを断つ決心をしたという。ストレートな追悼ソングなのだが、演奏だけを聴いているとそんなウェットな歌詞だとは思わないだろう。「ロバータ・フラックを聴きながら」という一節があるけれど『やさしく愛して』とかだろうか。

 

 トラック16『サー・サイコ・セクシー』を直訳すると「イカれたセクシー先生」って感じか。タイトル通り下ネタ満載ソングでゴツゴツした演奏に、トラック3に続きエンディングにメロトロンが加わった8分以上にも渡る曲。

 アルバム最後の曲『ゼイアー・レッド・ホット』は伝説のデルタブルースマン、ロバート・ジョンソンのカバー。これもドロドロな下ネタソングだが、屋外で録音されチャド・スミスは素手でドラムを叩いたという。スタジオに詰めての作業に飽きて遊びで屋外で演奏してみたら、悪くなかったのでアルバム収録になった…という感じかな? 異常にリズムを早くしてブルースではなく、サイコビリーぽい演奏。

 

 初めてレッチリのアルバムを集中して聴いてみたんだけど、ファンクやラップミュージックなど黒人音楽への憧憬がありつつも、気持ちはパンクロックという感じで、ストレートに世の中に違和感を叩きつけるメッセージ風ソングもあれば下ネタに特化した猥歌、はたまた過去を悔やむ自己吐露ソングまで歌詞世界は等身大ぽくもかなり幅広い。

 単に悪ぶってるだけのバンドとは違って演奏力は高いし(特にベーシストは図抜けたテクがある)、確かに人気が出ておかしくないバンド。これを聴いて俺も大ファンになった…とまではいかないけれど、レッチリは90年代という時代の要求とシンクロしたバンド…という事は理解できた。

 大ヒットした本アルバムによってレッド・ホット・チリ・ペッパーズは世界的スケールのバンドとなり、21世紀に向けて驀進ロードを歩む事になるのであった…。

 

 

 1967年。大阪のラジオ局で流れた『ザ・フォ―ク・クルセダーズ』の『帰って来たヨッパライ』にリクエストが殺到。これはフォ―ク・クルセダーズ解散記念に制作した自主制作アルバムの中の1曲だった。東芝からの要請で加藤和彦は北山修と新メンバー、端田宣彦とで一年間限定でフォ―ク・クルセダーズの活動を継続し『帰って来たヨッパライ』は記録を塗り替える大ヒット。2枚目のシングル『イムジン河』が発売禁止になるトラブルもありつつ、予定どおり68年末で解散…。

 

 09年に急逝した通称「トノバン」こと加藤和彦。自身の音楽活動のみならず他ミュージシャンへの楽曲提供&プロデュース&アレンジャー、映画音楽家や美食家としての発言などと活動は多岐に渡り、日本の音楽界に大きな足跡を残した人であった。本作はそんな加藤和彦の足跡を今一度検証しようとの目的で製作されたドキュメンタリー。加藤のアマチュア時代からの長い付き合いになった北山修、『サディスティック・ミカ・バンド』のメンバー、アルバムのプロデュース&アレンジャーを担当してもらった泉谷しげるなど、加藤と深い関りがあった人達へのインタビュー(既に故人となっている人も含む)に、様々な所から集めたライブ映像を加えて構成。

 ソロアーティイストになった加藤は、最初のアルバム『児雷也』を二枚組にする構想があったが、レコード会社側から拒否され通常アルバムに。一方で作曲家としての才能を認められて他の人への楽曲提供を開始、北山との連名で71年『あの素晴らしい愛をもう一度』がヒット。吉田拓郎&泉谷のアレンジャーとしてフォ―クブームにも貢献。ロンドンを頻繁に訪れる内グラム・ロックブームに触発されロックバンドを構想、メンバーをスカウトし妻のミカをフロントに据えた『サディスティック・ミカ・バンド』を結成し72年レコードデビュー。1stアルバムが英国の有名音楽誌に取り上げられた事で英国進出プランが練られ、2ndアルバム『黒船』制作に突入…。

 

 加藤本人のインタビューシーンは一回に止め、北山を始めとする音楽仲間&音楽業界関係者のみならず、一流シェフや高級ホテルの経営者までコメントしているのが加藤和彦らしい。音楽絡みのエピソードは確かに興味深くはあったが、俺みたいな長年音楽を聴いてきた人間には想定外の物ではない。ただ最初の妻・ミカとの訣別が、二番目の妻・安井かずみとの出会いに直結したという下りは、生前は表に出す事がなかった加藤の人間臭さが感じられた。秘蔵映像部分はマジに貴重で、特にミカ・バンドのデビューシングル『サイクリング・ブギ』レコーディングの生中継(『11PM』の映像)や、ミカ・バンドの『BBC』での演奏が拝めたのが良かった。

 

作品評価★★★

(加藤最寄りの人と後発のミュージシャンが集って『あの素晴らしい愛をもう一度』の再レコーディングで〆というのは、悪くはないけどちょっとあざといと思ったな。元ミカ・バンドだった高中正義がミカ・バンドの曲『さようなら』にギター演奏を被せる追悼映像の方が、俺の心に響く)

 

 

 付録コラム~映画以降の加藤和彦について

 

 今回の作品では加藤のソロ活動の代表作「ヨーロッパ三部作」(79~81年)のエピソードの後、各人の追悼コメントに直結する構成になっていて、他のブログでも指摘されている様に、加藤和彦を良く知らない若者が観たら、ヨーロッパ三部作が加藤の遺作だと取られかねない可能性も確かにある。

 加藤は三部作以降もソロアルバムを4枚制作。ただ売り上げ的には三部作時代より落ち込んでおり、あまりそういう事を気にしない様に思える彼でも、自分がリスナーに受け入られていないのでは…と落ち込む事もあったのかもしれない。94年にはグッド・パートナーだった作詞家・安井かずみが他界。加藤は三回結婚しているが、やはり安井かずみがベスト・パートナーだった様に思える。加藤は安井の死去以降ソロアルバムを制作する事は無かった。

 ただ安井の親友だった加賀まりこは、エッセーで安井と加藤の結婚生活に対し「何でも一流でないとダメって生活してて窮屈にならないのかしら」と疑問を呈しており、加藤の人間性を敏感に指摘していた様にも思えた。

 加藤はサディスティック・ミカ・バンドを89年と06年に再結成。89年は桐島かれんをヴォーカルに据えてアルバムを発表したが、当時の時流に寄り添った音作りはやや没個性的で、正直あまりいい出来とは思えなかった。木村カエラをヴォーカルに迎えた06年のアルバムは未聴なので何とも言えないが、コンサート開催まで密着した映画『Sadistic Mica Band』(07年公開。監修は『パッチギ!』の音楽を加藤が担当した縁で、井筒カントクが務めた)は封切で観た。

 02年には端田宣彦の代わりに『ジ・アルフィー』の坂崎幸之助が参加して『ザ・フォ―ク・クルセダーズ』を再結成し、スタジオアルバムと「新結成解散コンサート」と称したライヴ&アルバムを発表。加藤もリラックスして愉しんで演っており、ミカ・バンド再結成の時みたいな音楽的なプレッシャーも無さそうに感じた。以降も坂崎とのデュオや元ミカ・バンドの小原礼らとのバンド活動があったらしく、劇伴の仕事も含め音楽活動は晩年まで普通にこなしていた様に、表面的には映ったのだが。

 音楽活動以外では、TBSの討論番組『ここがヘンだよ日本人』(98~02年)に加藤が出演しているのを見た事があった。在留外国人から見た日本に対する違和感をテーマに討論するという一応の企画趣旨があったが、実際の内容は暴言が飛び交う、今で言う「炎上商法」を売りにしている様な通俗番組で、加藤はカオス狙いなスタジオの雰囲気にかなり苛立っていた様に感じられた。「一流」である事をモット―としている彼には、どう見てもふさわしくない番組ではあった。制作者側に何かの義理とかでもあって、オファーを受けたのであろうか。

 映画『Sadistic Mica Band』で加藤はインタビュアーに、サディスティック・ミカ・バンドは如何に素晴らしいバンドであるかを自画自賛的に語り、76年に解散した理由を聞こうとしたインタビュアーを遮り何も言わせなかった。勿論その時自死するとは露程にも思わなかったけど、他者に対しては弱みみたいな物を絶対見せない彼の物腰に、ちょっとヤバくないかと感じたのは事実。

 中野翠は映画を観ても何で加藤和彦が死を選んだのか全く分からなかった…と書いていた。多分彼女も『帰って来たヨッパライ』と『あの素晴らしい愛をもう一度』ぐらいでしか加藤和彦の事を知らないからそう思ったのだろう。やはり『トノバン 音楽家加藤和彦とその時代』は、加藤の死ぬ間際までの軌跡を描ききる構成にした方がベターだったのでは…と思えてくる。

 

 

 

 東京の大学病院の救急救命医・白石咲和子(吉永小百合)は運び込まれてきた重体患者の治療に大わらわ。その後運び込まれた女のコが放置されているのを見兼ねた事務員・野呂は思わず治療行為をしてしまった。後日会議で野呂が追求されるのを見た咲和子は野呂を庇いその責任を負って大学病院を退職、父(田中泯)が一人暮らししている故郷・金沢に帰る。新しい勤務先は往診専門の「まほろば診療所」。事故で足が不自由な所長・仙川(西田敏行)の下で働く…。

 

 もう映画に出演して65年近くになる吉永小百合。俺が子供の頃はTVのホームドラマなどにも出演していたが、女優としては近年映画のみに専念。TVドラマはもう30年以上出演していないのだから「最後の映画女優」という事になるのか。本作は現役医師である南杏子の同名小説の映画化。自主映画出身で『八日目の蝉』(11)『ソロモンの偽証』(15)などの成島出が監督を務め、山田洋次の助監督時代吉永主演作の脚本を山田監督と共同執筆した事もある平松恵美子が脚本を執筆。西田敏行、田中泯といったベテラン俳優に吉永の息子年齢の松坂桃季、孫!年齢の広瀬すずなどの共演。東映社長でもあった岡田裕介プロデューサーの遺作。

 

 往診するのはガン末期だったり、本来入院する所を本人の希望で自宅療養している患者ばかり。若い看護師・星野真世と一軒一軒診察して回る咲和子。何人かの患者は自分の希望通り死ぬ間際まで家族と暮らしを共にして逝った。突然高級車で診療所にやって来た野呂。心酔する咲和子とまた一緒に働きたくて病院を辞めてきたという。仙川は快くスタッフとして迎え入れる。咲和子が金沢に帰って来て初めての正月。白石宅に集まって皆でおせち料理を食べている時、足元がおぼつかなくなっていた父が屋外で転倒して足を骨折。以来リハビリを繰り返してもちゃんと歩ける様にならず。末期がんの少女・萌の切なる願いを聞いた咲和子たち…。

 

 もしかしたら原作の問題なのかもしれないが、治療に反する行為を安直に感動に結び付けようとする演出に違和感を覚えた。患者の家族の希望もあるとはいえ、医療に携わる者が患者の命を縮める行為に積極的に加担するのは間違っていると言わざるを得ない。ヒロインの、父親に対する愛情も本作のテーマだが、ならば既に体調も崩している父をずっと一人暮らしさせていたヒロインの生き方は何だったのか。それが作品内で許されているとしたら即ち、「だってヒロインが吉永小百合だから」という以外解答を見出せない。東映作品に限って言えば、小百合主演映画は監督が阪本順治だろうと成島出だろうと同じトーンになってしまうのも問題。

 

作品評価★

(本作唯一の見所は、『山口さんちのツトムくん』でお馴染み、みなみらんぼうの顔を久々に拝めた事か。幻の名曲『ウイスキーの小瓶』をまた聴きたくなった。東映の吉永主演作の製作は、亡くなった岡田プロデューサーの小百合に対するラブレターみたいな物だったのでは)

 

 

付録コラム~榎美沙子の記憶

 桐野夏生の新作『オパールの炎』(中央公論新社・刊)は70年代前半に話題を呼んだ『中ピ連』の主導者・榎美沙子をモデルにしている。久々に聞いたその名前から彼女がマスコミの寵児となった時代が脳裏に蘇る。

 中ピ連は避妊が男側の意向のみで行われる状況に対し、不幸な形での妊娠が起きない様にピルを解禁せよとの目的で結成された団体で、当時一部で盛り上がっていた「ウーマン・リブ運動」の動きに連なる物であった。榎美沙子はクールな容貌の、ショートヘアが似合うインテリ美女で積極的にTV出演をこなし、ワイドショーの討論コーナーなどで男が女性差別している社会構造を批判…などと書くと、TV局側もさぞかしそういう運動に理解があったんだな…と若い人は思うかもしれないが、それは違う。

 あくまでもワイドショー番組を盛り上げる趣向として、榎美沙子にタレント的な価値を見出しオファーを集中させたのであり、大体『浮気は男の甲斐性? 徹底討論』なんて中ピ連本来の活動主旨とははずれている。それでも彼女が出演を拒まなかったのは、TV出演で名前を売る事で、中ピ連の活動の世間に対するアピールに繋がるのでは…という考えがあったと推測される。

 ところがTVで散々男批判を続けたが故に、榎美沙子は浮気をしても開き直っている夫を懲らしめたい、世間の妻の代弁者を担う役割を負わせられてしまい、その行為が社会(男性優位社会)の敵と判断され榎美沙子のTV出演は激滅(スター歌手の地位をいい事に女を弄ぶ某演歌歌手を弾劾すべく、中ピ連が大晦日の紅白歌合戦の会場に乗り込むという噂も、榎美沙子のTV出演を敬遠する理由になったのかも)。

 75年末には中ピ連は解散し、榎美沙子は起死回生を狙って『日本女性党』を結成し参議院選挙に臨むが、自らは出馬せず選挙戦は惨敗。以降榎美沙子の名前はマスコミから消え、TV出演当初から存在をカミングアウトしていた夫とは協議離婚。92年頃に『週刊新潮』のインタビューを受けた事があるらしいが、それ以降の消息は杳として分からない。

 桐野夏生は榎美沙子を現在の[#MeToo運動」の先駆者として捉え、彼女を社会的に葬り去ったマスメディアなどに対する批判的な気持ちをこめて『オパールの炎』を執筆したと発言しているが、現在の目線から彼女をどう評価するのかについては、意見の分かれる所であろう。ただ既に「一般人」になった蓮舫に対するバッシングが一向に収まらないのを見るにつれ、世間や体制に積極的に異を唱える女を排除、或いは葬り去ろうとする男優位社会的な趨勢は、あれから半世紀近く経ってもさして変わってないんだな…という事だけは判った。

 

 日本ジャズ界の代表的なテナー・サックス奏者として知られる峰厚介。60年代前半にアルト・サックス奏者としてジャズ界にデビューするが、ジョン・コルトレーンに心酔するあまりテナー・サックスに転向。70年代前半は外国ミュージシャンとの共演も多数こなし、78年に本田竹広らとフュージョングループ『ネイティヴ・サン』を結成して人気を得る。ネイティヴ・サン脱退後はまたジャズのフィールドに戻り、現在も現役として活動。

 その峰厚介が90年代からメンバーに加わっているのが、渋谷毅(ピアノ&キーボード)率いる『渋谷毅オーケストラ』で、『山下洋輔+1』で活躍していたアルト・サックス奏者の林栄一も、遅れて渋谷毅オーケストラに参加。このグループもメンバーの死去によるチェンジがありながら、息の長い活動を続けている。

 さっき聴いた『ランデヴー』は、その三人が集って録音されたアルバムなのだ。

 

 トラック1『ロスト・イン・ザ・スターズ』はブロードウェイ・ミュージカルの作曲家クルト・ワイスが同名ミュージカルの為に書いた曲で、『星空に消えて』の邦題で知られる。落ち着いたピアノの伴奏に支えられて峰のテナーが咽び泣く。林のアルトがそれに寄り添う様に伴奏ぽく入ってきて、やがて彼もソロを取る…という塩梅。心優しい演奏。

 

 トラック2『エレン・デビッド』は、ベーシストのチャーリー・ヘイデンがピアニストのキース・ジャレットとのデュオアルバムで演奏している。峰と林のデュオ演奏。自己主張しつつも微妙に融合しているサックスの調べ…。

 トラック3『フォー・ユー』はピアノをバックにまず林がソロを取り、それに峰が伴奏を付ける。胸に染み入るソロに魅惑されるが、中途でちょっとだけ入る渋谷のピアノ独奏も隠し味的な魅力になっている。

 トラック4『オレオ』はサックス奏者ソニー・ロリンズが54年に発表した曲で、多くのミュージシャンが取り上げた名曲。峰と林のハードな面を強調した絡み合い。その表現力が光るデュオ演奏。

 

 トラック5は峰のオリジナルな3曲をメドレー形式で、渋谷のピアノとのデュオで演奏するバラードナンバー。渋谷との意気があった演奏はやはり安定感がある。渋谷のここでも渋谷のソロピアノが聴かせ所。

 

 トラック6『マイ・シップ』もクルト・ワイスが1941年のミュージカル『レディ・イン・ザ・ダーク』の為に作った曲で、多くのミュージシャンが取り上げたスタンダートナンバーでもある。季節柄としては、夏の熱い夜に聴く様な曲ではないと思うけど…。

 トラック7『カイ』の林の軽快なアルトが愉しめる渋谷とのデュオ演奏。もっとハードにブロウできそうな所を、敢えて抑えて演奏している感じが大人っぽい? 渋谷のソロも軽快なメロディーを奏で、最後の頃になって漸く峰も演奏に加わる。

 トラック8『マイ・オールド・ドリーム』は渋谷のオリジナルと思われる。技巧を感じさせる峰&林のソロ、渋谷も生き生きとしたソロを披露し、それに峰&林が加わって三位一体な演奏になっていくのだ。

 トラック9『ミスター・モンスター』では峰&林がユニゾン風に合わせて同じメロディーを吹くパートがイイね。そして峰&林&渋谷が各々ソロを披露していくという流れへ、そしてまた冒頭のテーマへと戻っていく。

 最後の曲『ラブ・ミー』は渋谷のピアノのみによるソロナンバー。明朗なメロディーを淡々と弾いていく彼の真骨頂なピアノが堪能できる。〆を彼一人に託すという構成も気が利いているなと思ってしまう。

 

 

 リズム隊が存在しない事でかなり制限があるトリオ演奏だが、長年演奏を共にしている間柄だけあってお互いのエゴは全く感じられない、チームワークの良さが本アルバムの売りであろう。もっと燃え滾る様な演奏が聴きたかったという不満もあるかもしれないけど、これはこれで「大人のジャズ」「円熟味のあるジャズ」として成立していると思う…とか何とか、俺自身も加齢を重ねた上での感想である事は相違ないのだが、これはこれでいいだろう。三人の今の演奏も聴いてみたいが。