2045年。世界は荒廃しており、一部層を除いた人々の多くはスラム街で暮らさないといけない状況に陥っていた。そういう人々の慰めは現実逃避し「オアシス」という名のヴァーチャル世界に入り浸る事。今オアシスでは創始者ハリデーの遺言が公表され、ゲーム内に隠された3つの鍵を手に入れた勝者にはオアシスの所有権と5000億ドル、及びハリデーの遺産が授与される事が発表されているが、ゲームクリアの道は遠い…。

「映画史上の最高傑作」と宣伝されていた『ジュラッティック・パーク』(93)を観て呆れた俺は、長い間スピルヴァーグ作品を劇場で観る事はなくなり、今頃になって追っ駆けて旧作を観てる有様。本作はアーネスト・クラインの小説『ゲーム・ウォーズ』の映画化で、ゲームクリアに命を懸ける若者たちと、それを阻止しようとするオアシス運営会社との闘いを描くヴァーチャルアクション劇。日本アニメの大ファンだというダン・シェリダン、英国人女優オリヴィア・クックのW主演。豪州人俳優ベン・メンデルソーン、森崎ウィンらが共演。日本公開でも25億円興収を上げてヒットした。

 スラム街の住人ウェイド(ダン・シェリダン)は、オアシス内で「パーシヴァル」と名乗り日々鍵を入手すべく奮闘。しかし運営会社『101』の社長ソレント(ベン・メンデルゾーン)が送り込んだ、ゲームクリアを阻止する「シクサーズ」もオアシス内に存在する。ウェイドはハリデー記念館の映像でのハリデーの発言をヒントに試練をクリアして第一の鍵をゲット。ソレントは現実世界でもウェイドを抹消せんと非常手段に出る。窮地に陥ったウェイドの援軍に現れたのは「アルテミズ」こと、現実世界ではレジスタンスのサマンサ(オリヴィア・クック)他名うてのプレイヤーたち…。

 ヴァーチャル世界と現実世界とで、抑圧された人々の代弁者である主人公たちと権力者たちの代弁者である運営会社との闘いの背景には「社会的には非力なオタク対拝金主義者」の構図も見え、一般社会では白眼視されがちなオタクが世界を救う勧善懲悪劇に仕上がっている。ヴァーチャルゲームに1mmも興味のない俺には何だか分からない戦争ゲームが繰り広げられていく訳だが、随所に挿入される70年代後半から80年代前半にかけてのヒット曲使用や往年の映画ネタ、ガンダムまで登場する原作者の日本贔屓(キャスティングも同様)のお蔭で、疎外感味わう事無く観る事は出来た。

 

作品評価★★★

(やっぱり二次元よりも現実の方がリアルなんて珍しくも無い結論の為にこれだけの労力を必要とした…と考えると醒めてくるが、それがスピルヴァーグなんだな…。『ツイステッド・シスター』を聴いたのはリアルタイムヒットの時以来多分42年ぶり)

 

付録コラム~9歳の映画監督登場

 先日俳優・工藤堅太郎が85歳で映画監督デビューを考えており、実現したら最高齢監督デビュー記録としてギネスブックに載るという話題を紹介したが、何と9歳の映画監督デビューというニュースが。これもギネスブックに認定されるんではないかしらん。

 話題の主は近頃TVタレントとして売れっ子の永尾柚乃。監督のみならず脚本、編集、主演の四役を務めるというから、益々驚きである(ちなみに撮影中は8歳だったとか)。尤もプロデューサーとして自身も映画監督経験がある俳優の斎藤工が付いており、実質的には彼が全てに渡ってフォローしたという可能性もあるけど、それでも自分の9歳の頃と考れば驚異的なスーパー少女という事になるだろう。

 出演者の顔触れを見ると人気芸人が多く出演しており、アドリブ的な演技で監督の演出的な負担を少なくした…というプランだったと思われる。映画タイトルは『リタ』。来年公開予定って劇場で公開されるんでせうか。

 もし劇場公開されたとして俺が観にいったとするなら、劇場に居合わせた人々は俺の事を見て「こいつロリコンかも」と思われる可能性は多分200%(笑)。ちょっとハードルは高いな。それから普通に気になったんだけれど、袖乃ちゃんの監督作品発表があったのはさる15日、フランスであったとの事。学校は休んでいるのか?

 永尾柚乃という女の子に関しては、何か達者にトークするコだなという印象しかなくて、タレントとしては優秀なんだろうけど「女優」としての評価は未知数。ただ小さい頃から芸能仕事を沢山入れると普通の子供感覚が無くなって、将来苦労する事も考えられる。芦田愛菜は子役時代超売れっ子になったが、さるアンケートの「もうTVで見たくない女性タレント」の3位に娘が入っているのに親がショックを受け、芸能活動を休養させた。別にあせって稼がせる必要はないんだし、今の時期の芸能活動は程々にした方がいいという考え方もあるが…。ウーン、どうなんでしょう。

 

 

 

 故・遠藤ミチロウと共に『ザ・スターリン』を作った男イヌイ・ジュン(ドラマー兼画家兼建築家)の著書を読むのは二度目だ。前著『中央線は今日もまっすぐか?オレと遠藤ミチロウのザ・スターリン生活40年』はザ・スターリン全盛時代の想い出を綴った想定内の内容だったが、その固定観念から本書『PUNK! 反逆の向こう側でザ・スターリンたちはなにを歌ったのか?』(株式会社シンコーミュージック・エンターテイメント・刊)を読むとちょっと驚く。

 本書はズバリ『パンク・ロックとは何か」を理論分析しようとする試みである。未だパンク・ロックの現役ミュージシャンが文章でそれを行う事例は、少なくても日本では初めてではないのか。前著を呼んだ限りでは著者はそんな事を試みるタイプの人には思えなかったし、そういう意味では意外性のある本ではあった。

 本書は著者によるパンク・ロック論と、パンク・ロックに関わりがある人(田口トモロヲ、大友良英、映像作家の赤羽貞明、戸川純)各々との対談によって構成されている。前者ではまずパンク・ロックが発祥したと思われる米国の60年代から端を発し、それがロンドンに飛び火した状況、更に日本にまで伝わって発生した80年代前後の我が国のパンク・ロックシーン(ザ・スターリンの結成は1980年)に話が及ぶ。

 この内の日本編については俺の知っている事ばかりで特に感想は無いのだが(若い人には「勉強」になるかも)、著者のあらゆる文献を紐解いて持論を語ろうとする姿勢には感服。『セックス・ピストルズ』の誕生が自然発生では無く「仕掛け」だったのも有名な話だが、パンク・ロック=反抗、反体制という漠然たるイメージを作ったのは『ザ・クラッシュ』だったという指摘には、確かに言われてみるとそんなモンかな…と思った。

 そもそもNYパンクには「反体制」のイメージは希薄で、文学少年少女崩れがペンの代わりに楽器を持ったりマイクに向かって唄い出したのが発端…というのが著者の主張。楽器の演奏技術など二の次というコンセプトから、著者が「NYパンクの終焉」として評価しているのが、ブライアン・イーノがプロヂューサーを担当した、NYのアンダーグラウンドシーンで活動していたバンドを集めたオムニバス盤『ノー・ニューヨーク』(78)。制約の一切無い演奏は既成のロックに対する「アンチ」としての「パンク・ロック」であると。

 

 その一方でザ・クラッシュから連なる、パンク・ロックのメッセージ性という固定観念的な考えを著者は、他者の文章(今年亡くなった、一時期インディーズバンド『突然段ボール』のメンバーだった事もある、モーリー・ロバートソンなど)を引用しつつ厳しく批判。

 著者がザ・スターリン時代遠藤ミチロウと確認していたのは、ぶっちゃけて言えば「こんな世の中なんて糞」という事。ロックのメッセージ性なんて欺瞞と偽善だらけ。勿論社会変革の為のバンド同士の横の繋がりなどもっての他。他者とのコミュニケーションを完全拒否し俗悪なステージを演出する事で、ザ・スターリンは「根暗」というだけで全人格が否定された、80年代前半という時代で存在を示す事が出来た…著者にはそんな自負がある。

 所が時代が流れるとそんな社会を完全拒否したり、毛穴から血が出る様な詞を書いたりしていたパンク・ロッカーたちが、良識派文化人の如く振る舞っているのが、著者には我慢できない。その象徴として著者が繰り返し批判しているのが元祖NYパンクの女王パティ・スミス、『トーキング・ヘッズ』で一世風靡したデヴィッド・バーン、そして著者としては複雑な思いがあるだろうが、90年代後半以降のソロミュージシャンとしての遠藤ミチロウである。

 この内俺はトーキング・ヘッズの事を「パンク・ロック」と思った事は一度もないので、ノーコメントと言うしかないのだが、美術展絡みで広島を訪れ被爆者と語らい反戦メッセージを朗読し、メディアから手放しで絶賛されるパティ・スミスのやってる事ってまるで「吉永小百合」みたいだな…と俺も思う(年齢も殆ど違わない)。

 遠藤ミチロウは95年の神戸淡路大震災以来8月6日の原爆投下の日必ず広島でライブを実施。東日本大震災での原発事故を経て生まれ故郷の復興プロジェクト『プロジェクトFUKUSHIMA!』発起人となり、一時的ではあるが坂本龍一とも交流した。更にはそのプロジェクトで盆踊りを行う事も発案。ザ・スターリン時代は他者とのコミュニケーションを完全拒否していた遠藤ミチロウが…である。

 パンク・ロックは何も社会貢献の為にやっていたんじゃない、いい人ぶりやがってこの野郎!と、永久革命ならぬ永久パンクロッカーを自認する著者は叫びたい訳である。そのザ・スターリン時代と変わらぬ持続性には敬意を称したい気持ちはあるが、敢えて言わせてもらうと、シド・ビシャスみたいに若い内にくたばってしまえばパンク・ロッカーを貫けれるのかもしれないけど、加齢すれば諸々の事が必然的に付いてきて「こんなくだらない世の中なんてなくなってしまえ」なんて言ってられなくなる事情もあるだろう。

 遠藤ミチロウを愛するあまり、著者はソロ活動になってからのミチロウの「いい人キャラ」はある目的の為の偽装だったのではないかと発言しているけど、俺は素から「いい人」になっていたんだと思う…。

 

 俺は「パンク・ロック命」の人間ではない。ロックは唄いたい奴が唄いたい事を唄えばいいと単純に考えていて、政治批判も人類平和もOK。もっと言えば真剣に「高市早苗はいい女 彼女こそ日本の救世主」と唄うロッカーがいても、存在は一応認める。

 でも今の日常を反映した詞やノイズ感覚を表現するロックが、この国には少な過ぎる。それが俺にとっての「パンク・ロック」だ。

 その意味で言えば、この曲が俺にとってのパンク・ロックの原点。1975年夏休みNHKラジオ第一でこの曲がライブ演奏された時の放送を『アナーキー』の仲野茂も聴いていて、ロックに興味を持ったきっかけになったという。

 

 戸崎慎介(葉山良二)は将来を嘱望された医師だったが、急患を救えなかった事から医師を辞め貧民街に住みブラブラしていた。ある日妹の佐紀子が恋人・梶原と一緒にいる所を梓組組員と思われるチンピラたちに襲われ佐紀子が凌辱される。慎介は警察に訴えたが組長の梓が市会議員である事もあり、証拠が無いと体よくあしらわれた。梶原も冷たく佐紀子の下から去る。やりきれぬ慎介は幼馴染の加代子(南田洋子)と再会…。

『狂った果実』(56)で衝撃的な監督デビューをした中平康だが、その後は日活会社側の要請に応え、特定のジャンルに捉われず様々な作品を撮っている。それが再評価を遅らせる原因にもなったのだが、取り敢えず売れっ子監督だった事は間違いない。本作は船山馨の小説『殺意の影』を橋本忍と中平が共同で脚色した作品。貧民窟がある街を舞台に青年医師がある決意を固める…。主に助演で日活に膨大な作品を遺した葉山良二の主演作品。共演は南田洋子と劇団民藝の創立者で映画出演にも積極的だった宇野重吉。同じく劇団民藝の滝沢修、吉行和子など名脇役もこぞって出演している。

 加代子は競輪に狂った父の借金のカタに妾に売られたという。買ったのが梓と聞いて更なる怒りを募らす慎介。ブラブラしていた彼に貧民窟の住人相手に診療所をやっている笠間(宇野重吉)がウチで働かないかと言ってきて、慎介は笠間の助手になる。梓は貧民窟を潰して高級な団地&ショッピングセンターを建てる市の計画を担当。その為には暴力も辞さない行動を組員に指示。住民たちはそもそも無許可で住んでいる為真っ向から反対できず暴力の餌食となる。頼みの綱は自分の土地で診療所をやっている笠間。穏便に梓と交渉しようとする笠間だが、彼も半殺しの目に遭う…。

 中平監督としては珍しい社会派風作品だが、実は本作の封切日1か月前に日米安全保障条約が自民党によって強行採決されており、そういう安保を巡る社会情勢の中から立ち上がった企画だと思われる。権力を得たヤクザが我が物顔に弱者を蹂躙。主人公も妹を傷物にされても何の反撃も出来ず地団駄踏んでいた所に、梓が通っている加代子宅に一人でいる瞬間があると知り、恨み晴らさんと乗り込んでいく…と終盤になっていきなりテイストはサスペンスモードに切り替わる。でもその転換に無理はないし、最後に主人公が正義を舐めんなよと悪党に吐く台詞も説得力が。拾い物の快作。

 

作品評価★★★★

(ラストのシチュエーションが『仁義なき戦い』に酷似しているのには驚いた。まさか深作がパクったという事は考えられないが…。社会派モードになっているのは橋本忍が関わっている部分も大きそうだ。劇中の映画館では『狂った果実』を上映中)

 

付録コラム~嵯峨善兵

 日活作品には数多くの新劇俳優が助演で出演、作品の成功に貢献した。本作にも宇野、滝沢の劇団民藝の重鎮以外にも佐野浅夫、下条正巳、梅野泰靖、三崎千恵子、庄司永建といった劇団民藝所属俳優が出演。何れもTVドラマ全盛時代になるとお茶の間でもお馴染みになった面々である。

 嵯峨善兵も当時劇団民藝に所属しており、本作ではお人好しそうな貧民の一人を演じた。異様に長い顔と恰幅のいい体格が特徴で後年TVドラマでも活躍。宇野より年長で戦前から俳優として活動しており、東宝所属俳優だったが東宝争議で東宝を辞め、山本薩夫と独立プロを作り山本作品『真空地帯』(52)『太陽のない街』(54)ではプロデューサーも務めているから、なかなかの「大物映画人」と言っていいのではないか。

 日活アクション映画では片言の日本語を操る中国系ギャング役を得意とした。その一方で60年代中期以降は人のいいオヤジ役も数多く演じ、西郷輝彦主演『星のフラメンコ』(66)では作曲家・浜口庫之助をモデルにした役に扮している。70年代になると盟友・山本薩夫作品に政治家やら軍人やら右翼やらの「大物」役で欠かせぬキャストになった。

 TVドラマでは勘定奉行などと組んで悪さを働く時代劇の豪商役が当たり役に。『木枯し紋次郎』1972年版第5話『童唄を雨に流せ』でも悪事を働く商人役で「お前さんは堅気を斬るドスは持ってないそうじゃないか」と紋次郎にうそぶいたが、騙して悪事を手伝わせた藤岡重慶には通用せず、彼に叩き斬られてしまったのであった。

 俺が加齢したせいもあるんだろうが、こういう出てるだけで独特の存在感を漂わす脇役俳優は殆どいなくなったな…。

 

 

 嘉永2年(1849年)京都。街はずれの村では漢方医・玄斎(内藤剛志)と蘭方医・大倉太吉(佐々木蔵之介)が意地を張り合っていた。どんな病気でも「葛根湯」を処方する玄斎に呆れている太吉。太吉が医学の参考にする為死んでいた犬を解剖したのを、玄斎が飼い主に奴が殺したんだとチクり大騒動になる一幕も。ある日太吉の診療所に柄の悪いやくざ者が現れる。街の呉服屋の娘・峰の診察をして欲しいとの依頼で…。

 京都府立医科大学が去年創立150年を迎えた。その記念に大学OBである故・大森一樹監督が長年温めていた企画を記念作品として映画化しようとの話が持ち上がり、それが実現。大森作品の助監督出身で『独立少年合唱団』(00)で劇場映画デビューした緒方明の、12年ぶりの監督作品。井筒和幸監督と組んでピンク映画の脚本を書き、メジャー系の作品も多く書いた西岡琢也にとっても久方(8年ぶり)の映画脚本になった。大森の傑作『ヒポクラテスたち』(80)の時代劇版風に宣伝されているけど、実は稲垣浩が60年に監督した東宝映画『ふんどし医者』(未見)が原案になっているとか。

 診察に赴いた太吉。やくざ者は峰の兄の極道息子・新左(藤原季節)であった。治療の甲斐あって病が癒えた峰。新座は博奕場でのいざこざからやくざ者に腹を刺され重傷を負う。血だらけで飯屋に飛び込んできた新左を居合わせた太吉がその場で手術をする事に。数か月後峰が新左を伴い診療所を訪れる。新座は命の恩人である太吉に敬服し、自分も心を改め蘭学医になりたいから弟子にして欲しいと言う。太吉は迷ったが決意の硬さに根負けし弟子入りを認める。新左は本格的に蘭学を学びたいからと長崎に旅立っていった。それから15年経った幕末の時世。村では疫病が流行して…。

 まだ世間的には西洋医学に懐疑的だった時代を背景に「医は仁術なり」を地で行く様な蘭方医と、それを取り巻く家族や周囲の人をユーモラスに描いている。刺青入れたやくざが実は妹想いの心根の優しい男で、犬猿の仲であった漢方医の息子と自分の娘が結婚して親戚付き合いする事になったりとか、裏切り者を匿っていると主人公に難癖付けてきた新選組隊士が疫病死者の棺桶を運ばせられたりと、シチュエーション的には観客を愉しませる工夫が見られるのだが『ヒポクラテスたち』みたいな青春グラフティ的な趣が皆無なので、爽快感に欠ける感じは否めず。普通のいい話って印象。

 

作品評価★★★

(TVドラマで事件捜査ばかりしている内藤剛志が久々に映画出演したのは、彼が『ヒポクラテスたち』にも出演していた縁絡みであろうか。佐々木の妻役でこれも久々に真木よう子を見たが、以前と全く別人になっていた。池脇千鶴みたいだ?)

 

付録コラム~何事も笑いにするのが芸人

 最近は笑うに笑えないうんざりする様な事ばかりが続いているが、笑いを生む事を矜恃とするはずの芸人までが笑えない騒動を起こしてしまうのだから、困った物である。それが今話題沸騰の「サバンナ高橋苛め事件」だ。

 発端はネット配信番組で某芸人(良く知らない人物なので「某」と書く)が極めて誰か特定し易い表現で「TV番組である先輩芸人に苛められた過去」を告白。ネットが大騒ぎする中、サバンナ八木がそれは相方の事だとSNSで証言し謝罪。次いで高橋も謝罪し某芸人も高橋と和解した上で証言を「撤回」…という流れ。芸人同士の間で起こった事だが全く笑える要素が無い。

 昔「キムタク」のラジオ番組に送られてきたリスナーからの葉書で「学校でクラスメートから弄られるのが辛い」というのがあり、キムタクは「嫌な思いをしているという時点でそれは苛め」と明解に答えていた。高橋がいかに「愛ある弄り」の積りであったとしても、某芸人が「いじめられていたという表現は完全に不適切だった」などと後で訂正したと言った所で、20年も前の話でも未だに忘れられない程厭な思いをしたのだから「苛め認定」である。ただそれを事実上公にする以上、そんな生々しい話も「笑い」に転化させるのが芸人たる腕の見せ所だろう。結果的にそれが出来なかったとしたらただの「告発」に過ぎない。

 そういう腕がない人間は公には発言せず、芸人仲間の呑み会での愚痴に留めていくのがヨロシ。そうしないと取り返しのつかない事に発展しかねない。いくら当事者間で解決したとはいえ、サバンナ高橋の仕事がこの件で減るのは避けられないし、某芸人も「先輩を売る様な奴」として評価は駄々下がりになった。誰も得はしないのだ。

 個人的には「サバンナ高橋」は地頭がいいし(立命館大卒)、大物芸能人や先輩芸人に取り入るには長けてるなあと思ったけど、好感度を持った事は一度もなかった。

  

 

 

 5月9日米国フロリダ州タンパで行われたWWEのPLE(特番)『バッククラッシュ』で、PLEでは初となる日本女子レスラー同士の闘いが実現。去年後半辺りから徐々に悪化していったイヨ・スカイとASUKAの関係。今年に入ると益々険悪化。ASUKAが度々イヨの試合に乱入、それが原因でイヨが敗北を喫する事もあった。堪忍袋の緒が切れたイヨはASUKAとのシングル決着戦を要求。その試合は日本でもネット配信生中継されるという事で、俺も朝の7時から観戦した。

 二人の闘いは「名勝負」と言っていいのかどうかは分からないが、確かにこの二人にしか出来ない試合であった。飛び技を得意とするイヨとキックと関節技を得意とする二人の攻防は、普通のWWE女子の試合みたいに観客へのアピールで場を盛り上げる様な箇所は少なく、二人が密着して闘う場面が多かった。そんな日本の女子プロレスとも通常のWWEとも違う闘いをWWEの観客にどう感じたのかは分からないけど、一部ファンが一縷の望みを賭けたセイン・カイリの登場もなく(日本語で「セインは正義」と書いたボードを掲げているファンがいた)、ギミックも乱入もない試合はイヨの十八番技「ムーンサルトプレス」が炸裂しイヨの勝利に。

 

 2026年5月9日『バッククラッシュ』イヨ・スカイ対ASUKA戦

 

 3カウント後立ち上がったASUKAが泣き顔になり、因縁は水に流してイヨと抱擁。これで両者は和解しASUKAがベビーフェイス転向しタッグチーム結成…かと思ったけど「アングル」を演じたにしてはASUKAの泣きがガチ過ぎるのが気にかかった。

 自慢する訳ではないけど、長年プロレスを観てきた人間の違和感は的を得ているケースが少なくない。今回も正にそれで試合終了後、ASUKAと因縁の抗争を凝り広げていたライバルレスラーなどがASUKAへの惜別と取れる画像をSNSに投稿。『バッククラッシュ』がASUKAのWWE最終試合になる公算が強くなった。

 振り返ってみれば、今年の年一度の大試合『レッスルマニア』で行われると大方が予想していたイヨ対ASUKA戦が行われなかった事情も良く判る。多分ASUKA&カイリ・セインの『カブキウォリアーズ』のWWEからの「消滅」はレッスルマニア前に決まっていたと思われる。そしてイヨ対ASUKAの「最終章」的な闘いを盛り上げるべく、レッスルマニアを挟んだアングルが考えられたのだろう。それに至る流れの中でレッスルマニア直後のWWEの看板番組『RAW』で、イヨ&リア・リプリーとのタッグ戦でイヨにフォールを取られたカイリをASUKAが「お前は使えない」と罵倒するシーンがあり(『RAW』放送数日後にカイリの退団が明らかに)、一対一で闘う伏線になっていたのだ。一連のアングルは、WWEを去っていくASUKAに添った物であったのだ。

 そんな流れを踏まえ一昨日日本配信された『RAW』で試合に備え控室で待機しているイヨの前にASUKAが現れ、笑顔で「試合頑張ってね」と励ましイヨと再度抱擁を交わすシーンが。抱擁後ASUKAはこれから旅に出る…という風に控室を出て行った。これでWWEはファンに向けてもASUKAの退団(長期離脱?)を知らしめた事になる。

 

 イヨ・スカイ&ASUKA 別れ

 

 一部報道によるとASUKAはセミリタイヤするとも言われている。確かに年齢的に長期ロードに出る事はもう体力的に難しいのかも。ASUKAが「華名」名で日本で闘っていた頃、どインディーズ団体所属だったイヨ(当時は「紫雷イオ」)をスカウトしてユニット『トリプルテイルズ』を結成。その後一旦袂を分かった物の二人はWWEで再会、イヨが『スターダム』所属時代先輩だったカイリ・セインともWWEで合流、ヒールユニットで共に闘った。

 そして2026年5月3人は各々別の道を歩む事に。そしてイヨ・スカイだけがWWEに残った…。