6月の22,23日に故郷の中学校の同級会に参加した。喜寿のお祝いを兼ねてということであったが、はたして、誰が祝ってくれるのか。参加者は当事者のみだ。そんなギャラリーはいない。ただ単に老人クラブの集まりだろう。わたしは千葉から400㎞、6時間かけて車で参加。遠くからの参加者は熊本や奈良からか。会場となるホテルは鄙には稀な洒落た建物、この場所は高原ロッジ風、あの数十年前のバブル景気前に建てられたものらしくここで宿泊する。まあ、いただけないのは朝食メニューの貧弱さだ。ここで追記するならば、二日目のバスを仕立てての現在の郷土の状況説明、地元廻りは良いアイデアであったことと思う。
 宴会、交歓の様子は取り立てての内容ではないが、わたしの趣味であるカラオケでは単独ではなくて、吉幾三の‘酒よ'や、千昌夫の‘北国の春'をほかの人に加勢する感じで歌う。どちらかと言えばバラード曲好きのわたし、しかし、突然、菅原洋一の‘アマン'をある女性とのデュエットで歌わされたのにはあわてた。これは初めての曲で余りにも妖しくて艶かしいのだ。
 わたしにとって、今回の帰郷は、重苦しい感慨に襲われたことだ。だれにとっても、人生行路では先行き儚いことになるものだ。117人中35人が出席した。毎回、参加者は女性が多い。この中で、中学卒業以来、3,4人ほどは60年ぶりに再会したことになる。前回の箱根湯本温泉での開催からは新たに4人が死去していた、今までで都合19人が物故している勘定になるのか。
 また、聞けば、同級生同士で結婚した夫婦が双方とも認知症が入りはじめているという噂、ほかに欠席者の中には健康を害し酸素ボンベ付きの日常生活を送るなど、出席したなかでは子供時代からひとりの利かん気の乱暴な性格の男子は、当日の会場では今にも死期を迎えそうなひ弱な物言いと風体でわたしに話かける。
 この後に、わたしは近くの町に高校時代の恩師宅を訪ねた。ある時、在京同窓会で話が盛り上がり自分史や造園デザイン論の著作を渡し読んでもらっていて高評価をいただいた。それを機に交際が続いた。後で気づいたのだが、先生の勤め先の地元の短大でわたしに話をさせようと考えていた模様だ。だが、先生は一昨年の夏に突然亡くられていたのでお線香でもあげたいと考えていた。目印の家の玄関先の大きなケヤキは切られている、残された未亡人がいるかと思っていたら不在であった。引っ越した模様で携帯電話もつながらず。この不音不測の事態に、わたしはにわかに虚しい思いにとらわれた。
 続いてその後、天気も曇天から時雨れていくなかで、わたしは鬱々としてそそくさと市内山中にあるアジサイ園に向かい、一関インターから東北自動車道路に乗り、一直線に帰葉する。夕食時に自宅に着く。

 それからわたしは閉じこもり生活が始まった。頚椎症性神経根症にも罹ったが、それにはこの時期の陽気もあるだろうが、かれこれ一か月間以上、心身が落ち込んでしまった。もやもやが続いた、そこで、わたしにとって自分のやりたいことは人生上の年譜とエッセイ作成と長年気にしていたが、その前に何かに挑戦しようという思いに至った。
 次回ではその内容になる。それは10月19日実施の漢検の【準一級】に挑むために受験勉強を始めたことにある。受検者の割合は年間で61歳以上は13%、合格率は15%だそうである。
 まあ、漢字検定はわたしの専門分野外であって、このブログ愛読者には意外に感じるかもしれない。記事にはギボウシ、他の植物、樹木医に読書ネタだらけである。しかし、無縁な分野だから、やってみるのだ。勉強期間は3ヶ月間。しかし、やる。わたしは無論、資格マニアではない。この【準一級】受検レベルは子供と相談して決めた。当然なことに年齢上、受かったとしてもいまさら実世間で就職用などと有用な資格にはならないのだが。
                    

 *** わたしの後期高齢者の老後、不定愁訴、独り言と、この記事は未完であるが、思いつき次第、今後、加筆削除に修正というか推敲を加えながら、とりあえずこの文章を書き続けることにする。つまり、更新していくことになる。***