目を覚ますと、雨は降っていなかった。 30歳になって4日目の朝は、昨日の疲労を引きずって始まった。ベッドから身体を起こそうとして、全身に重りが吊るされている様な倦怠感と動かす箇所の全ての筋肉に走る痛みに気づき、思わずうめき声を上げた。いくら定期的にそれなりの運動をしているとはいえ、もう一晩の睡眠では回復することが出来ない身体であることを実感する。30歳を超えたことのある人なら、一度は経験している感覚だろう。
身体を引きずるようにして、洗面台までたどり着くと無理やり身体を屈めて顔を洗った。タオルで顔を拭きながら、冷蔵庫から野菜ジュースを取り出した。赤茶色をした濃厚な液体が、グラスを満たしていくのを見ながら、会社までの長い道のりを考えた。最寄りの駅までの5分間の歩き、2分間の電車、駅の真上にあるオフィス。いつもなら、むしろ気分がよくなる通勤条件であっても、このような身体の状態では憂鬱になってしまう。
野菜ジュースを喉に流し込み、時計を見た。始業時間まではあと25分あった。いつも、着替えや髭剃り、頭髪のセットなどで20分は費やしてしまう。四肢を動かす度に、予想外の箇所にまで筋肉痛が出ていることに気づきながら、クローゼットの中から、身につける衣類を出した。一度、大きくゆっくりと呼吸をした。そして、タオルを手にシャワールームに入った。
筋肉痛における乳酸の存在とその分解方法について語る学生時代の友人の熱い言葉を思い出しながら、身体にかかる熱い湯を味わった。身体の疲労感や痛みが何となく軽くなるまでずっと立っていた。
「お前は、営業をしたことが無いからな。お客さんは大江戸線の列車じゃないんだよ。逃しても数分後には次が来るってな訳にはいかないんだよ。社内業務には客がいないと思ってるんだろ。社会人のマナーがなってないよな。実はブラジル育ちなんだろ。」、尊敬しているが、容赦なく辛辣な小言を連発する上司の声が頭の中で聞こえる。結局、始業時間までの25分の大半はシャワールームの中にて費やされていた。比較的痛みの少ない左手に、2冊のビジネス書とA4サイズのノートパソコンの入った鞄を持ち、紐の結ばれたままの黒い革靴に無理やり足を突っ込んで、外に出た。
雨は降っていないものの、肌に触れる空気の湿度の高さを感じる。上司が着ていた、網目のような夏用のスーツが一瞬頭に浮かんだが、徒歩5分の行程と数万円の投資の費用対効果に疑問を感じ、道路の日陰の部分を探すことを考えた。自宅から駅までは小さな商店街を通る道のりとなる。新宿区とはいえ、区のはずれに位置するこの町では、やや遅めの朝日を遮る高層ビルなどは建てられておらず、やや曇りとはいえ比較的明るい日差しが道路をくまなく照らしていた。成す術も無く、道のずっと先の方に視線を向けながら、特に何も注意を払わないまま道の右端を歩いていた。
彼女を見たのはそんなときだった。
視線の右端に近付いていたのが、時々立ち寄る花屋だったことに半分気づき始めた、その瞬間に店の置くから誰かが飛び出ててきた。店の端においてある背の高い棚が丁度ついたてのようになっていて、その向こうは全く見えていなかった。ぶつかりそうになるも慌てて立ち止まり、身を後ろに反らした。何にもぶつからなかったのを感じて、反射神経は、まだ20代だったのかもしれないとふと思った。
視線と注意が目の前の人物に向いた。向こうの視線もこちらに向いていて、お互いのそれが合った。向こうは二重だった。二重の女性だった。驚いて大きく見開いたような目の表情が残像のようになり、柔らかく細まった。微笑んでいる彼女の顔と焦点が合う前におはようございます、という声が聞こえてきた。今までに一度も見たことが無い顔だった。会ったことがないということではなくて、女性を見てそこまではっとしてしまったことが無かった。彼女は綺麗だった。絶対的に綺麗だった。なぜそうなのか、自分の意識が自然にその認知の元となる要素を探しだすことも無く、ただ彼女をみつめてしまった。
「すいません、大丈夫でしたか。」と彼女は尋ねた。言葉が出てこず、口を開きかけながら頷いた。1秒半くらい後で「大丈夫です。」と声が出てきた。そして、経験上、あとで思い出すたびに何度でも後悔することを神経感覚で認識していながらも、彼女から目を離し、足取りを元に戻して駅へ向かって歩き始めた。
通常であれば、出会った女性の顔の特徴は、次に会うときに見分けはつくものの、別れてから30分後には思い出せなくなる。そして、可愛らしい、知的、ショートカットなどその女性がどうであったかという自分の頭の中での言葉による表現のみがしばらく記憶に残る。しかし、今朝の彼女の眩しい笑顔は、まさに脳裏に焼きついてしまったように、目を閉じるといつまでも瞼の向こう側に映っていた。そして、その朗らかな声は耳元でずっと響いていた。勿論、自分の中で意識していて忘れないようにしていたことも事実だと思う。でも、このときは、珍しく自分の努力が現実の効果に結びついていた。
通勤時間は、一瞬だった。オフィスに着く前に、もう何年も同僚以外の人間と朝の挨拶を交わしていなかったことに気づいた。
身体を引きずるようにして、洗面台までたどり着くと無理やり身体を屈めて顔を洗った。タオルで顔を拭きながら、冷蔵庫から野菜ジュースを取り出した。赤茶色をした濃厚な液体が、グラスを満たしていくのを見ながら、会社までの長い道のりを考えた。最寄りの駅までの5分間の歩き、2分間の電車、駅の真上にあるオフィス。いつもなら、むしろ気分がよくなる通勤条件であっても、このような身体の状態では憂鬱になってしまう。
野菜ジュースを喉に流し込み、時計を見た。始業時間まではあと25分あった。いつも、着替えや髭剃り、頭髪のセットなどで20分は費やしてしまう。四肢を動かす度に、予想外の箇所にまで筋肉痛が出ていることに気づきながら、クローゼットの中から、身につける衣類を出した。一度、大きくゆっくりと呼吸をした。そして、タオルを手にシャワールームに入った。
筋肉痛における乳酸の存在とその分解方法について語る学生時代の友人の熱い言葉を思い出しながら、身体にかかる熱い湯を味わった。身体の疲労感や痛みが何となく軽くなるまでずっと立っていた。
「お前は、営業をしたことが無いからな。お客さんは大江戸線の列車じゃないんだよ。逃しても数分後には次が来るってな訳にはいかないんだよ。社内業務には客がいないと思ってるんだろ。社会人のマナーがなってないよな。実はブラジル育ちなんだろ。」、尊敬しているが、容赦なく辛辣な小言を連発する上司の声が頭の中で聞こえる。結局、始業時間までの25分の大半はシャワールームの中にて費やされていた。比較的痛みの少ない左手に、2冊のビジネス書とA4サイズのノートパソコンの入った鞄を持ち、紐の結ばれたままの黒い革靴に無理やり足を突っ込んで、外に出た。
雨は降っていないものの、肌に触れる空気の湿度の高さを感じる。上司が着ていた、網目のような夏用のスーツが一瞬頭に浮かんだが、徒歩5分の行程と数万円の投資の費用対効果に疑問を感じ、道路の日陰の部分を探すことを考えた。自宅から駅までは小さな商店街を通る道のりとなる。新宿区とはいえ、区のはずれに位置するこの町では、やや遅めの朝日を遮る高層ビルなどは建てられておらず、やや曇りとはいえ比較的明るい日差しが道路をくまなく照らしていた。成す術も無く、道のずっと先の方に視線を向けながら、特に何も注意を払わないまま道の右端を歩いていた。
彼女を見たのはそんなときだった。
視線の右端に近付いていたのが、時々立ち寄る花屋だったことに半分気づき始めた、その瞬間に店の置くから誰かが飛び出ててきた。店の端においてある背の高い棚が丁度ついたてのようになっていて、その向こうは全く見えていなかった。ぶつかりそうになるも慌てて立ち止まり、身を後ろに反らした。何にもぶつからなかったのを感じて、反射神経は、まだ20代だったのかもしれないとふと思った。
視線と注意が目の前の人物に向いた。向こうの視線もこちらに向いていて、お互いのそれが合った。向こうは二重だった。二重の女性だった。驚いて大きく見開いたような目の表情が残像のようになり、柔らかく細まった。微笑んでいる彼女の顔と焦点が合う前におはようございます、という声が聞こえてきた。今までに一度も見たことが無い顔だった。会ったことがないということではなくて、女性を見てそこまではっとしてしまったことが無かった。彼女は綺麗だった。絶対的に綺麗だった。なぜそうなのか、自分の意識が自然にその認知の元となる要素を探しだすことも無く、ただ彼女をみつめてしまった。
「すいません、大丈夫でしたか。」と彼女は尋ねた。言葉が出てこず、口を開きかけながら頷いた。1秒半くらい後で「大丈夫です。」と声が出てきた。そして、経験上、あとで思い出すたびに何度でも後悔することを神経感覚で認識していながらも、彼女から目を離し、足取りを元に戻して駅へ向かって歩き始めた。
通常であれば、出会った女性の顔の特徴は、次に会うときに見分けはつくものの、別れてから30分後には思い出せなくなる。そして、可愛らしい、知的、ショートカットなどその女性がどうであったかという自分の頭の中での言葉による表現のみがしばらく記憶に残る。しかし、今朝の彼女の眩しい笑顔は、まさに脳裏に焼きついてしまったように、目を閉じるといつまでも瞼の向こう側に映っていた。そして、その朗らかな声は耳元でずっと響いていた。勿論、自分の中で意識していて忘れないようにしていたことも事実だと思う。でも、このときは、珍しく自分の努力が現実の効果に結びついていた。
通勤時間は、一瞬だった。オフィスに着く前に、もう何年も同僚以外の人間と朝の挨拶を交わしていなかったことに気づいた。