なりすましが現れた途端、烈火のごとく怒り出す。

「卑劣だ」「最低だ」「許されない」と、激しい言葉で非難する。

だがその姿は、あまりにも 自己矛盾が露骨すぎる。


なぜならその人物は――

過去から現在に至るまで、なりすましを“常用”し、誹謗中傷を繰り返してきた側だからだ。


これは被害者ではない。

これは“自分が使っていた凶器で、自分が切られた”だけの話である。



■「被害者のふり」をした瞬間、すべての正当性は消滅する

なりすましを使ってきた者が、

自分がなりすまされた瞬間だけ“被害者”を名乗る。


これは通用しない。

他人の人格を盗んで攻撃してきた者が

自分の人格が盗まれたと騒ぐ

その上で「卑劣だ」「許せない」と憤る


この構図は、もはや怒りですらない。

厚顔無恥の極致であり、倫理の完全な崩壊である。



■「怒っている」こと自体が、罪の証明になっている

本来、なりすましを一切していない人間が

なりすましに遭えば、怒る正当性はある。

しかし、

なりすましを“武器として使ってきた人間”が怒る権利は存在しない。

それは抗議ではなく、

過去の自分に対する“逆ギレ”にすぎない。

怒りが大きければ大きいほど、

次の事実だけがはっきりする。


「それだけ自分は、同じことを他人にしてきたという自覚がある」



■これは「被害」ではない。「因果の回収」である

なりすましを使って人を傷つけ、

誹謗中傷で人の評判を壊してきた者が、

同じ手口で自分が扱われた。

これは不運でも事故でもない。


これは因果応報であり、自業自得であり、

自分の行いが、そっくりそのまま返ってきただけの話である。


それを「被害」と呼ぶのは、

加害の歴史を意図的に消し去る、悪質なすり替えだ。



■最も強く非難されるべき点は、ここである

問題の本質は「なりすまされた」ことではない。

問題の核心は、“自分はやってきた側なのに、やられた瞬間に正義を装った”ことだ。


これは単なる矛盾ではなく、

責任から逃げ

過去を消し

立場だけをすり替え

感情だけで被害者に化ける


極めて悪質な自己正当化である。



結論:怒る資格がない人間ほど、怒り声が大きい

断言する

なりすましを日常的に使ってきた誹謗中傷者が、

なりすまされたことに激怒するのは、

「被害」ではなく「報い」である。


それを棚に上げて、

被害者のふりをし、

道徳を語り、

正義を叫ぶ資格は――

一片たりとも存在しない。


怒りがあるのは理解できる。

だがその怒りの矛先は、本来こうあるべきだ。


「なりすましを使ってきた過去の自分自身」へ向けるべきだ。


それをせず、他人へ向けている限り、

この人物は 被害者ではなく、最後まで“加害者のまま”である。