私は29歳で現在うつ病で闘病中の患者です。
前回の投稿で(投稿についてリンクをつける方法があるのでしょうが分かりません。申し訳ありません)私のパーソナリティの形成について話しましたが、それについて詳しく語ってみようと思います。
私は中高大と陸上競技部に所属していましたが、ここでの経験が自分の人格形成に大きな影響を与えました。今回は中学時代編についてフォーカスして書こうと思います。
地元の公立中学校に入学した私は入学後、どの部活に入部するか悩んでいました。部活体験を友達と色々回って1番楽しい催し(簡単な体力測定だったと思います)をしていた陸上部に友達と入部することにしました。
当時の私の陸上の能力は中の上といったところでした。といっても小学校卒業したての当時は走力しか指標がなく、私はクラスでやや足が速い方だったと認識しています。確か小学校六年生で50m8.0秒でした。当時の基準で7秒台が足が速いとされてたと記憶しています。
話は戻って陸上部に入部して驚いたのはその部員の多さでした。
中学に入ってすぐ入部して辞める人もいる中ですが、私の同級生の男子の部員数は私が入部して直ぐは40名ほどいました。学年で男子は100名程度だったので、2.5人に1人は陸上部でした。
陸上部にここまで入部が集中したのには2つの理由があります。
1つ目は強力な顧問がいることで陸上部は活動が盛んで
、歴代の運動神経がいい先輩達はみんな陸上部に入部し好成績を残していたからです。
2つ目は私の小学校ではバスケットボールが盛んで、イケイケで運動神経がいい同級生はみんな参加していましたが、中学校にはバスケ部がなかったので行き場を失った同級生はその運動神経を活動が盛んな陸上部で活かすことになっていたためです。
このような理由から私の中学では陸上部が最も人数が多く、所属しているメンバーの運動神経も優れている構図でした。
多くの中学ではフィジカルエリートはサッカー部や野球部に集まるでしょうが、私の中学校ではサッカー部、野球部の部員は10人に満たず、陸上部に集中しているのが現状でした。表現が悪いですが、スクールカーストも陸上部に属するものが最上位になっており、一般の学校と一線を画した構図でした。
さて、そんな陸上部ですが、まず最初に自分の種目の選択を強いられました。入部してすぐに短距離、跳躍種目、投擲種目、長距離と大まかに希望を出してそこから細かく絞っていく流れでした。
当時自分の意見を特に持っていなかった私は周りの友達がそうするからという理由で短距離を選びました。
その後さらに短距離として練習する中で自分の短距離選手としての才能のなさを痛感し、短距離は短距離でもハードル種目を専門にすることとしました。
ハードルという専門性が出てきて単純な走力以外にも努力次第で上にいけると感じたためです。
このハードルとの出会いが後の自分の在り方に大きな影響を与えました。
陸上部での活動は他の部活と一線を画すものでした。
平日は毎日始業前に朝練があり、放課後も毎日19時くらいまで練習がありました。他の部活より練習時間が長い為、学校を出るのはいつも最後でした。
テスト期間中の放課後の練習は禁じられていたので、朝練で放課後にするようなハードなメインメニューをこなしていました。
テスト前にハードなメニューで嘔吐してから時間に臨む生徒もしばしば見かけました。
それくらい練習を大切にしていました。
1年生として陸上部に入部して驚いたのは上記の練習のハードさだけでなく、むしろ練習外の活動でした。
特徴的なのは練習日誌です。
3人でペアを組み、1つのノートに日替わりでその日の出来事、感じたことを記し、翌日それを顧問の先生が全員分印刷して配るというシステムでした。
特に下級生は上級生が何を考えて練習しているかなどを感じ取ることができて非常に有効なコミュニケーションツールだったと当時思っていました。
絶対的な存在である顧問の先生が印象に残った練習日誌について線を引いたり、囲ったりするのですが、それを目当てにみんな必死に練習日誌を綴り、A4のノート3ページ毎日書く人まで現れました。
特徴的だったのは練習日誌だけではありません。平日は遅くまで練習するので何も出来ませんが、休日は午前に練習して、昼食を摂らずにそのまま学校の周辺を掃除していました。友達と競り合うようにタバコの吸い殻を100個ほど平気で集めていました。今思えば半ばマインドコントロールのように良き行いをするように指導を受けていたので、掃除やその他の活動は一切苦ではありませんでした。
陸上部での活動で象徴的なのはトイレ掃除です。
便器を磨くと心も磨かれるというのが顧問のモットーで私たちも実践していました。
なんと練習後に素手素足でトイレに入り、便器を磨いていました。これが当たり前だと思って当時はやっていました。この活動に注目したテレビ局から取材を受けたりもしました。
この他にも夏休みは練習後に学童保育や老人ホームでのボランティアに積極的に参加し、鬼のような顧問の先生から真面目な人格形成を促され、奉仕の精神を徹底的に養ってもらいました。
部活動以外のことばかり触れましたが、練習時間は軍隊のように厳しく、毎日地獄のような鍛錬を積まされていました。
私が1年生のころの3年生は団体で大阪優勝するほどでした。
そしてそんなこんなで私は2年生になります。
ここからは選手としての話にフォーカスしていきます。
2年生になった私は相変わらず身体能力は中の上で、厳しいトレーニングをしているのにも関わらずなかなか伸び悩んでいました。
当時の学校でする体力テストもB判定でした。周りの運動神経のいい仲間はA判定だったと記憶しています。
かなり前に触れましたが、私はハードルを専門としていました。110mの間に10台のハードルを置いてそれを駆け抜けるタイムを競います。
ハードルとハードルの間は9.14mに設定されており、その間を3歩で駆け抜けるのが理想とされています。
しかし走力がない人間は3歩で走るのが難しく4歩、5歩になってしまいます。
私はなんとか3歩で走れるように無理やり大股で走る訓練をしていました。
その結果もあってか5台目くらいまでは3歩で走れるようになり、2年生の秋に迎えた大阪大会では準決勝に進出しました。
ちょうどその頃私の周りでは廊下の天井をジャンプして触れるかというのが流行っていました。
当時はギリギリ触れたら凄いというような仲間内の評価で、私も例に漏れず挑戦して、触れるか触れないかというところでした。
私はこの天井タッチに異様に魅せられ、周りが飽きてからも続け、結局春まで天井を触る努力を続けました。
結果、私は2年生の秋には指先でギリギリ触れていたのが、3年生の春には手のひら全体で触れるようになっていました。
このことは陸上部での活動に影響を与えました。
ハードル間を3歩で走るのが理想とされていましたが、それが余裕で10台こなせるようになりました。
走り高跳びも専門としている選手より跳べるようになりました。
中でも三段跳びという競技(ホップステップジャンプと3回跳びます)で圧倒的な記録を出せるようになりました。
この時体力テストは余裕でA判定でした。
地獄のような練習を真面目にこなし、それ以外でも天井を触る努力を続けたのが実を結びました。
圧倒的な記録を出したのもあり、私はハードルから三段跳びへ種目を変更しました。最後の大阪大会予選の1ヶ月前のことです。
迎えた大阪大会の予選ですが、南大阪大会で大会新記録を樹立して大阪大会に進みました。
当時の記録は12m53cmでした。
そして大阪大会に進むのですが、この時に私の調子の良さを象徴する出来事が起きます。
前述した天井を触れるかジャンプするといういうブームは未だに私の中で続いており、ある日身体能力が最大限に高められたときに、昼休みサッカーをして体のコンディションも最高にあったまっているときに天井に目掛けてジャンプすると、天井を手のひらが襲い、巨大な穴を開けてしまいました。
私はこの時、なんとも言えない高揚感でした。
とりあえず天井に穴が開いたことは先生には絶対黙っておくようにクラスメイトに指示しましたが、放課後校内放送で呼び出され、教頭先生からとんでもないほど叱られました。
ただ私は天井をぶち破った満足感でいっぱいでした。
そんなこんなでコンディションが最高の私は初めて2ヶ月で三段跳びの大阪大会決勝の舞台に立ちました。
終始イケイケな展開で結局大阪2番になり、表彰台と近畿大会出場権を手にしました。
学校対抗でも大阪優勝し、歴代最高得点だったそうです(1位8点、2位7点、8位1点という計算です。)。
ここでは割愛しますが、冬には駅伝で大阪優勝して全国大会にも出ています。
その後近畿大会でも4位に私は入賞して学校対抗でも3位になりました。
非常に長くなりましたが、何が言いたかったかと言うと私は人格形成期にエリート集団の中でも優れた成績を残し、自惚れていました。それ故に失敗した時の挫折に耐えられなく、心のダメージが大きかったため、うつ病となりました。
結局人間は失敗を繰り返した雑草魂の人間の方が強いです。
皆さんも大いに失敗してください。それがその後に必ず、皆さんの力になります。
今回は成功続きだったある意味私の失敗談を書かせて頂きました。
読みにくい文章を最後まで読んで頂きありがとうございました。
