息子が亡くなって6か月。
桜の咲く季節になった。
わたしは相変わらず、
息子の記憶に蓋をしている。
息子のことを思い出さない日はない。
目に入るものからすぐに息子のことが蘇る。
でも、
あの時は、と記憶に思いを込めていくと、
苦しくなってしまう。
急に涙が溢れる。
日常の生活に戻るために、蓋をする。
日に何回も蓋をする。
こんなことをしていては、
息子の記憶が無くなってしまうのでは、
と心配になる。
それはいやだ。
でも、
いまの私は心穏やかだ。
もう1人の息子が、
「人も死んだら、ただ、無になるんだと思う」
と言っていた。
あの世もなければ、
生まれ変わりもない。
無、なのだ、と。
ロウソクの火が消えたら、炎は見えなくなる。
そういう、無。
炎は消えたから、そこにない。
息子も死んだから、ここにいない。
ただ、そういうことなのだ、と。
悲観的に言うでもなく、
感情を昂ぶらせて話すでもなく、
何か考えた末に、
わたしに話をしているように感じた。
人は、生きる意味、を求めるという。
信念や哲学が
その思考となり、
その人らしさともなる。
その思考は
時として、
その人の心の支えになるという。