今朝はメイラックスなし。


最高気温が37℃になるらしいので、今日の外出は早めに!と思い、10時に自転車こいでドラッグストアまで行ってきましたうちわ2


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昨日の夜、ちょっと久しぶりにお母さんに電話しました。


この前実家に寄った時に、

「雑貨屋さんのイベントに参加することになったから、気が向いたらいってみてね」

と、チラシをわたしておいたのですが、まぁどうせいかないだろうな~と思いつつ、一応聞いてみたら予想通り行かなかったそうです。


暑くて駅からお店まで歩く気がしなかったんだそう汗


そんなことだろーと思った~


でもお母さん、自分の好きな韓国スターの屋外イベントには、暑くてもはるばる行くらしい。


別にいいんだけど、相変わらず私がやってることにはあんまり興味ないんだな~と思いましたガーン


ダンナのおかあさんは、私が雑貨屋さんに出展するって話したら、興味を持っていろいろ質問してくれたり、「もうすぐだね」「楽しみだね」って言ってくれて、イベントが始まったらすぐに行ってくれました。


だけどこれは、「私のことを大事に思ってるレベル」の違いではなくて、単に性格の違いなんだろーと思う。


うちのお母さんは、私がすごく調子が悪い時やわかりやすく助けを求めた時には、受け止めてくれるけど、だいたい元気でやってる時には、私がどんなことをしてるかにはあまり興味がないような感じです。


昔からそうだったんだけど、昨日お風呂に入りながら気付いたことがありました。


母親の反応が薄いと、子供はなんとかいい反応を引き出そうと、あれやこれやと努力して、向上心が宇宙の果てまで伸びていくんじゃないかってこと。


私の報酬系は、小学生のころに100点をとった時のお母さんの「すごいね~」という喜ぶ顔に始まってる。

みんなそうなのかもしれないけど・・・


小学生の時、

「テストでいい点とったらおこづかいあげるっていう親がいるけど、おかあさんはお金のためだけにがんばる子になってほしくないからそういうのはしない」

ってお母さんが言ってました。


その時、私は別におこづかいほしくなかったし、何しろ私にとって一番の報酬はお母さんの喜ぶ顔だったから、いい点とっておこづかいもらおうとは思わなかった。


でも、今思えば、お金のためにがんばる人間になったって別にいいし、むしろそっちの方が社会で生きていきやすかったんじゃないかという気がする。


誰かに喜んでもらうためにがんばるというのは、とても苦しい面があると思う。


だって、その「誰か」がうちのお母さんみたいに反応薄い人だったり、褒め言葉を使わない人だったりしたら、いくらがんばっても思うような報酬は得られない、ということになる。


私はそういう自分の報酬系回路のあやうさに気づいてなくて、これでもか、これでもか、と上を目指してがんばってたのかも。


でもほしい報酬はなかなか得られないので、どこまでいっても、満たされない。


たぶん、小学校、中学校、高校あたりまでは、いい成績をとればお母さんの喜ぶ顔が見れたので、満たされてたと思う。


でも進路を決める時、お母さんは条件だけ提示して「あとは先生と相談して決めて。お母さんは大学のことわからないから」というような感じで、私がどんなことをやりたいかとかゆっくり聞くということをしなかった。


「あんたはしっかりしてたから、大丈夫だと思った」

と、後から聞きました。


私が自分のためにがんばれる人間だったら、大丈夫だったと思うけど、残念ながらお母さんの喜ぶ顔のためにがんばる人間になっていたので、結局うつ病になった。


お母さんだけじゃない。

教授の喜ぶ顔のためにもがんばってたと思う。


「ひとの喜ぶ顔が見たい」という動機で何かをすることは素敵なことでもあるけれど、喜ぶ顔が見られなくても平気でいられるという心構えも同時に持っていないと苦しくなっていく気がする。


これからは、自分自身が幸せだと心から感じられるような生き方をしていきたい。


そしてお母さんは私のことを大事に思ってるけど、ドライで自分の趣味に生きる人なのだということを忘れないでおこうと思う(笑)