昨日は午前中ダンナは図書館に行ったのですが、結局その間寝ていました
なんかものすごーく疲れきってたので、ひとりで家でのんびり過ごせたのはとてもよかったです。
そして1ヶ月ぶりの通院日で、主治医に
「ダンナの試験期間中、なるべく実家にいったり、友達と会ったりして、あんまり家にいないでストレスをためない工夫をしてたんですけど、だんだん疲れてきちゃって、ダンナに図書館に行ってもらうことにしました。」
「そしたら、家でくつろげて、休憩できました」
と話したら、
「必ず、擦り合わせどころがあるからね」
「擦り合わせようとせず、ひとりで我慢してしまうのは、ダンナさんに限らず、よくないことだからね」
と主治医がおっしゃっていました。
実は
「図書館にいこうか?」
と少し前にもダンナに提案されたのですが、
「いいよ、家のほうが勉強しやすいでしょ」
って断ってたんです。
私の周りの人は、私のことを助けようと手をさしのべてくれるのに、いつも私は
「いいよ、大丈夫」
とその手をそっとよけてしまう気がします。
ダンナの受験時代、
「生活費、少し振り込むよ」
と言ってくださった義両親にも
「奨学金があるから大丈夫です」
と答え、しまいには
「頑張ってる青年に、寄付したいだけだから、受け取って」
と言ってくださった、ダンナのご両親のお金もなかなか受け取れませんでした。
「あの人たちは、うちらが夫婦仲良く暮らして、お嫁さんが苦労しないように、援助したいって思ってるから、受け取ってあげればいいんだよ。その方が親孝行なんだって」
というダンナの言葉も、元気な頃は
「甘ったれだなーふたりでやるって決めたじゃん!」
と聞く耳もたずだった私。
研究室でも
「あかりさん、今日は実験できないなっていう日は、そう言っていいんだからね」
と準教授が気遣ってくださったのに、
いざ教授の前に出ると、背筋がぴーんと伸びて、大変なことでもがんばって、成果をみせなくては・・・とばかり考えていました。
思えば、中学生の頃、担任の先生が
「最初からそんなにとばして、疲れない?」
と心配して言ってくださったのも
全然大丈夫!疲れるわけないじゃん!って思ってました。
でも人間って疲れるんですね。
病気になってその時の先生の言葉が身に染みました。
ちょっと話がずれましたが、
「大変だったら、何か手伝うから、言ってね」
という言葉に
「うん、ありがとう」
と言うものの、よっぽどのことがない限り、頼めなかったです。
それは、責任感とか優しさとかじゃなくて、単に怖いからです
「最初はよくても、だんだん面倒になってきて、私のことうっとおしくならないかな」
という恐怖感がぬぐえない。
それくらいだったら、自分でなんとかしよう。
私がちょっと我慢すればいいことだ。
そんな風に思ってしまいます。
でも、先生が言ってた「擦り合わせ」。
ながーーい付き合いの家族なんだし、ちゃんと相手の好意も受け取って大丈夫ですよね。
(まだ少し不安が残るが・・・)