「言葉に出来ない感情って、あるじゃない?」
唐突に、彼女はそんなことを言う。
ベットの上で上体だけを起こし――しかしその長い髪はベットにまで届いている――本を読む姿は、まるで絵画の一部を切り取ったかのように美しかった。
「ねぇ、そうでしょう?」
どうやらそれは僕への問いかけだったようだ。何度も注意しているが、人に話しかけるときは相手の目を…いや、せめて相手のいる方向を向くくらいはして欲しい。
「ん、そうだな…いや、そんなもんか?ごめん、よくわからない」
そう、とだけ小さく呟いて、彼女は頁をめくる。
それ以上言葉を発する様子もなかったので、僕は林檎を剥く作業を再開した。
そんな折、柔らかい風がカーテンを揺らした。
長い長い冬が終わり、久々に開いた病室の窓。そこから微かな春の匂いを感じ取り、僕の心は自然と弾んだ。
「人に伝えるのって、難しいと思うの。そういうの」
真っ赤な耳の兎が一羽出来上がった辺りで、彼女は再び口を開いた。
相変わらず話の流れというものを考えてくれないので、会話を成立させるのが難しい。
「えっと、さっきの続きか?言葉にならない感情…だっけ?」
「出来ない、よ」
そういうと彼女は本を閉じ、僕に目を遣った。
「そんなに変わらないじゃないか、同じようなものだろ?」
「いいえ。一見些細に感じるけれど、その二つには大きな差が生じるわ」
そんなことを言われても、説明されなきゃわからない。一体何が違うって言うんだ?
「ニュアンスよ」
説明されてもわからなかった。
「む、今ちょっと馬鹿にしたでしょう?いい、『ニュアンスが違う』とは『些細な差異が存在する』ことを意味するの。『ササイなサイ』、口にしてみると不思議な響きね。韻を踏むというのはとても素敵な表現だと思うの。余韻。そう、韻を踏むことで清らかな余韻が言葉に生まれるの。それに言葉の魅力ってそれだけじゃなくて――」
ああ、また始まった。一人語りモードだ。目的も原因も関係なく、こうなると話があちこちに飛んで帰ってこなくなる。
このままでは埒が明かないので、彼女の口に林檎の兎を放り込んだ。
突然のことに目を白黒させながら、それでも彼女は少々大きい林檎に悪戦苦闘していたが、やがて口の中の兎が消えると、彼女は「もう一つ」と別の兎を指差した。
「はいはい」
要望に応えて、先程まで僕が剥いていたそれを彼女の口へと運ぶ。
小さな口を一杯に広げる様子は、親鳥に餌をねだる雛のようで可愛らしかった。
「つまりね、ニュアンスの違いなのよ」
その後残りの兎を全て食べ終えた頃(僕も食べたかったのに)、彼女は再び口を開いた。
「例えば、貴方は林檎を食べました。その時貴方は何を思う?」
「生憎、林檎は全部食べられたところだよ」
「例え話をしているのよ、私は」
皮肉が軽く流されてしまった。畜生、僕の林檎を返せ。
しかし、例え話か。例え話なんて、その場その時になってみないとわからない。つまり、例え話なんてものそのものが不毛なのだ。
だから僕は、例え話が嫌いだ。
「そうだなぁ…甘いな。とか、美味しいな。とかだろうな」
でもそんな反論をすれば、小言を言われるのは目に見えているので、僕は仕方なく無難な回答を口にするしかないのだった。
「無難な回答ね。つまらない」
どうせ文句を言われるのだったら、思いの丈をぶつけてやればよかった。後悔。
「では、その甘さや美味しさを言葉にして私に伝えて頂戴。口にしたときの歯ごたえを、飲み込んだときの感触を」
「…ああ、なるほど。これは難しいな。それがお前の言う『言葉に出来ない感情』ってやつか」
「いいえ、それは違うわ」
じゃあこの会話は何だったんだ。本当に不毛じゃないか。
「私は『例え話』だと言ったはずよ。だからこれは、飽くまでも例えの話。甘さや美味しさなんて、感情そのものではないでしょう?」
「この話を感情に置き換えて考えなさい」と、そういうことか。
そんな細かいこと、一々指摘しなくてもいいのに。
「こんなにも晴れやかな気持ちなのに、こんなにも苦しい思いなのに、それを言葉にしようとすると止まってしまう。いえ、終わってしまう」
そう、終わりなのよ。
言葉とは、終わり。
そんな意味不明な言葉を、彼女は紡ぎ続ける。
「感情っていうのはね、言葉にしようとした時点で終わりなの。だって、言葉で表すことなんてできないんだもの。今この時、この場所にある林檎の味を伝えようとしたところで、私の食べてしまった林檎を貴方に食べさせてあげることはできないでしょう?」
その例えはよくわからない。
「でも、三切れ食べた時点で残りの一つを僕に渡すことは出来たはずだ」
全部一人で食べやがって。誰が剥いてやったと思ってるんだ。
「いいえ、それは出来ないわ。もしかしたら最後の一切れだけ、他の部分と違って悪くなっているかもしれないじゃない」
「下らない例え話だ」
「在り得たかもしれない可能性の話よ」
人差し指を唇に当て、小さく微笑む。
「だから、仮に最後の一切れを貴方にあげたとして、私はその味を知ることは出来ない。計り知ることは出来てもね」
「それこそ些細な差異だ」
「そう、些細な差異よ。だけどそれが大きな差を生じる」
ぴっ、と人差し指を僕に向け、続ける。
「あなたはその林檎を甘いと感じるかもしれない。だけどね、私はそれを酸っぱいと感じたの」
「じゃあ僕も酸っぱいと思うはずだ」
「いいえ、貴方の林檎は甘かったのよ」
何を言っているんだ、こいつは。わけがわからない。
「簡単なことよ。林檎の味は同じだった」
「さっきは違うかもしれないって言ったじゃないか」
「それは例え話よ」
やれやれといった風に、掌を上に向ける。ものすごく馬鹿にされている気分だ。
「単にね、私は貴方よりも『甘い林檎』を好む傾向にあるの。だから、貴方が甘いと思った林檎でも、私にとっては酸っぱかった。たったそれだけ。だけどね」
ああ、そうか。そういうことなのか。
「同じ林檎を食べたとしても、個人によって感想は変わる。それを相手に伝えようとして、伝わるわけがないでしょう?」
僕の感じた甘さを、
彼女の感じたすっぱさを、
僕は、彼女は、感じなかったのだから。
「自分の感情を言葉に出来たところで、相手にはそれが伝わらないの。相手が自分でない限り」
そういえば、こんな話がある。
とある小説家が、自身の作品を題材に作られた試験問題を試しに受けたらしい。自分の作った作品なのだから、全問正解して当然――の、はずだった。
しかし現実には、その小説家の正答率は平均的なものだったらしい。
何故か。
簡単だ。
彼は小説を書いた人であって、問題を作った人ではないのだから。
「ある人の考えを拝借すれば、人が思いを言葉に記すことが出来るのはその六割足らずで、そこから人が意味を読み取ることが出来るのは更にその六割。つまり、最終的には三割程度しか相手には自分の思いは伝わらないらしいの」
たったの30%。
それだけしか、相手には伝わらない。
「だからね。今の私の思いを、感情を、言葉にすることなんて出来ないの。言葉にしてしまった時点で、それは感情ではなく言葉なのだから」
では、そんな言葉を紡ぐ彼女は、心の中では何を思っているのだろうか。
もちろん、それを計る術は僕には無かった。
「…ん、待てよ。趣旨が違ってるぞ。確か僕らは『言葉に出来ない感情』について語ってたはずだ」
それが今では『感情は言葉に出来ない』ということを語っている。
そう伝えると、彼女は少し目を見開いた後、今日一番の笑顔を咲かせた。
「あら本当。言葉の順番を入れ替えただけなのに、全く違うものになってしまったわね」
くすくすと、本当に楽しそうに笑う彼女は、まるで絵本の世界のお姫様のように美しかった。
「上手く物事を伝えられなかったから、話の軸は入れ替わってしまったけれど…そのお陰で、とても面白いことに気付けたわ」
物事は、全て予定調和にはならない。
回り道もすれば、行き止まりもある。今日みたいに、全然違う目的地に辿り着いてしまうこともあるだろう。
だけど、それでいいんだ。
それこそが、楽しいんだ。
「貴方の林檎のお陰で、とても楽しい時間が過ごせたわ」
優しげな微笑みを浮かべ、彼女は言う。
「とても甘い林檎だったわ、ありがとう」
僕は思わず口に出そうになった疑問を、なんとか喉のところで飲み込んだ。
だって、それを言ったところで返ってくる言葉がわかってしまったから。
きっと彼女は「それは例え話よ」とでも言うのだろう。
言葉にしても伝わらないことがあるのに、言葉にしなくても伝わってしまった。
そんな矛盾に、僕は頬がにやけるのを抑えることが出来なかったのだった。
唐突に、彼女はそんなことを言う。
ベットの上で上体だけを起こし――しかしその長い髪はベットにまで届いている――本を読む姿は、まるで絵画の一部を切り取ったかのように美しかった。
「ねぇ、そうでしょう?」
どうやらそれは僕への問いかけだったようだ。何度も注意しているが、人に話しかけるときは相手の目を…いや、せめて相手のいる方向を向くくらいはして欲しい。
「ん、そうだな…いや、そんなもんか?ごめん、よくわからない」
そう、とだけ小さく呟いて、彼女は頁をめくる。
それ以上言葉を発する様子もなかったので、僕は林檎を剥く作業を再開した。
そんな折、柔らかい風がカーテンを揺らした。
長い長い冬が終わり、久々に開いた病室の窓。そこから微かな春の匂いを感じ取り、僕の心は自然と弾んだ。
「人に伝えるのって、難しいと思うの。そういうの」
真っ赤な耳の兎が一羽出来上がった辺りで、彼女は再び口を開いた。
相変わらず話の流れというものを考えてくれないので、会話を成立させるのが難しい。
「えっと、さっきの続きか?言葉にならない感情…だっけ?」
「出来ない、よ」
そういうと彼女は本を閉じ、僕に目を遣った。
「そんなに変わらないじゃないか、同じようなものだろ?」
「いいえ。一見些細に感じるけれど、その二つには大きな差が生じるわ」
そんなことを言われても、説明されなきゃわからない。一体何が違うって言うんだ?
「ニュアンスよ」
説明されてもわからなかった。
「む、今ちょっと馬鹿にしたでしょう?いい、『ニュアンスが違う』とは『些細な差異が存在する』ことを意味するの。『ササイなサイ』、口にしてみると不思議な響きね。韻を踏むというのはとても素敵な表現だと思うの。余韻。そう、韻を踏むことで清らかな余韻が言葉に生まれるの。それに言葉の魅力ってそれだけじゃなくて――」
ああ、また始まった。一人語りモードだ。目的も原因も関係なく、こうなると話があちこちに飛んで帰ってこなくなる。
このままでは埒が明かないので、彼女の口に林檎の兎を放り込んだ。
突然のことに目を白黒させながら、それでも彼女は少々大きい林檎に悪戦苦闘していたが、やがて口の中の兎が消えると、彼女は「もう一つ」と別の兎を指差した。
「はいはい」
要望に応えて、先程まで僕が剥いていたそれを彼女の口へと運ぶ。
小さな口を一杯に広げる様子は、親鳥に餌をねだる雛のようで可愛らしかった。
「つまりね、ニュアンスの違いなのよ」
その後残りの兎を全て食べ終えた頃(僕も食べたかったのに)、彼女は再び口を開いた。
「例えば、貴方は林檎を食べました。その時貴方は何を思う?」
「生憎、林檎は全部食べられたところだよ」
「例え話をしているのよ、私は」
皮肉が軽く流されてしまった。畜生、僕の林檎を返せ。
しかし、例え話か。例え話なんて、その場その時になってみないとわからない。つまり、例え話なんてものそのものが不毛なのだ。
だから僕は、例え話が嫌いだ。
「そうだなぁ…甘いな。とか、美味しいな。とかだろうな」
でもそんな反論をすれば、小言を言われるのは目に見えているので、僕は仕方なく無難な回答を口にするしかないのだった。
「無難な回答ね。つまらない」
どうせ文句を言われるのだったら、思いの丈をぶつけてやればよかった。後悔。
「では、その甘さや美味しさを言葉にして私に伝えて頂戴。口にしたときの歯ごたえを、飲み込んだときの感触を」
「…ああ、なるほど。これは難しいな。それがお前の言う『言葉に出来ない感情』ってやつか」
「いいえ、それは違うわ」
じゃあこの会話は何だったんだ。本当に不毛じゃないか。
「私は『例え話』だと言ったはずよ。だからこれは、飽くまでも例えの話。甘さや美味しさなんて、感情そのものではないでしょう?」
「この話を感情に置き換えて考えなさい」と、そういうことか。
そんな細かいこと、一々指摘しなくてもいいのに。
「こんなにも晴れやかな気持ちなのに、こんなにも苦しい思いなのに、それを言葉にしようとすると止まってしまう。いえ、終わってしまう」
そう、終わりなのよ。
言葉とは、終わり。
そんな意味不明な言葉を、彼女は紡ぎ続ける。
「感情っていうのはね、言葉にしようとした時点で終わりなの。だって、言葉で表すことなんてできないんだもの。今この時、この場所にある林檎の味を伝えようとしたところで、私の食べてしまった林檎を貴方に食べさせてあげることはできないでしょう?」
その例えはよくわからない。
「でも、三切れ食べた時点で残りの一つを僕に渡すことは出来たはずだ」
全部一人で食べやがって。誰が剥いてやったと思ってるんだ。
「いいえ、それは出来ないわ。もしかしたら最後の一切れだけ、他の部分と違って悪くなっているかもしれないじゃない」
「下らない例え話だ」
「在り得たかもしれない可能性の話よ」
人差し指を唇に当て、小さく微笑む。
「だから、仮に最後の一切れを貴方にあげたとして、私はその味を知ることは出来ない。計り知ることは出来てもね」
「それこそ些細な差異だ」
「そう、些細な差異よ。だけどそれが大きな差を生じる」
ぴっ、と人差し指を僕に向け、続ける。
「あなたはその林檎を甘いと感じるかもしれない。だけどね、私はそれを酸っぱいと感じたの」
「じゃあ僕も酸っぱいと思うはずだ」
「いいえ、貴方の林檎は甘かったのよ」
何を言っているんだ、こいつは。わけがわからない。
「簡単なことよ。林檎の味は同じだった」
「さっきは違うかもしれないって言ったじゃないか」
「それは例え話よ」
やれやれといった風に、掌を上に向ける。ものすごく馬鹿にされている気分だ。
「単にね、私は貴方よりも『甘い林檎』を好む傾向にあるの。だから、貴方が甘いと思った林檎でも、私にとっては酸っぱかった。たったそれだけ。だけどね」
ああ、そうか。そういうことなのか。
「同じ林檎を食べたとしても、個人によって感想は変わる。それを相手に伝えようとして、伝わるわけがないでしょう?」
僕の感じた甘さを、
彼女の感じたすっぱさを、
僕は、彼女は、感じなかったのだから。
「自分の感情を言葉に出来たところで、相手にはそれが伝わらないの。相手が自分でない限り」
そういえば、こんな話がある。
とある小説家が、自身の作品を題材に作られた試験問題を試しに受けたらしい。自分の作った作品なのだから、全問正解して当然――の、はずだった。
しかし現実には、その小説家の正答率は平均的なものだったらしい。
何故か。
簡単だ。
彼は小説を書いた人であって、問題を作った人ではないのだから。
「ある人の考えを拝借すれば、人が思いを言葉に記すことが出来るのはその六割足らずで、そこから人が意味を読み取ることが出来るのは更にその六割。つまり、最終的には三割程度しか相手には自分の思いは伝わらないらしいの」
たったの30%。
それだけしか、相手には伝わらない。
「だからね。今の私の思いを、感情を、言葉にすることなんて出来ないの。言葉にしてしまった時点で、それは感情ではなく言葉なのだから」
では、そんな言葉を紡ぐ彼女は、心の中では何を思っているのだろうか。
もちろん、それを計る術は僕には無かった。
「…ん、待てよ。趣旨が違ってるぞ。確か僕らは『言葉に出来ない感情』について語ってたはずだ」
それが今では『感情は言葉に出来ない』ということを語っている。
そう伝えると、彼女は少し目を見開いた後、今日一番の笑顔を咲かせた。
「あら本当。言葉の順番を入れ替えただけなのに、全く違うものになってしまったわね」
くすくすと、本当に楽しそうに笑う彼女は、まるで絵本の世界のお姫様のように美しかった。
「上手く物事を伝えられなかったから、話の軸は入れ替わってしまったけれど…そのお陰で、とても面白いことに気付けたわ」
物事は、全て予定調和にはならない。
回り道もすれば、行き止まりもある。今日みたいに、全然違う目的地に辿り着いてしまうこともあるだろう。
だけど、それでいいんだ。
それこそが、楽しいんだ。
「貴方の林檎のお陰で、とても楽しい時間が過ごせたわ」
優しげな微笑みを浮かべ、彼女は言う。
「とても甘い林檎だったわ、ありがとう」
僕は思わず口に出そうになった疑問を、なんとか喉のところで飲み込んだ。
だって、それを言ったところで返ってくる言葉がわかってしまったから。
きっと彼女は「それは例え話よ」とでも言うのだろう。
言葉にしても伝わらないことがあるのに、言葉にしなくても伝わってしまった。
そんな矛盾に、僕は頬がにやけるのを抑えることが出来なかったのだった。