〇 石田あき子句集『見舞籠』(5)

「昭和三十五年」より

  七月十三日薬品中毒にて谷口病院へ入院
遠花火鬱と入院第一夜


季語は、「花火(はなび)」の傍題、「遠花火(とほはなび)」で、晩夏。

石田あき子さんのこの薬品中毒がどんな薬による中毒なのか、私の手元にある資料では分かりません。あき子さんは高血圧の症状があり、この飲み薬による中毒がまず考えられますが、農薬等によるものかもしれません。

遠くで花火の音が聞こえる。
鬱の症状が出て入院した
その最初の夜に。

という句意ですね。状況をそのまま詠んでいるのだと思います。薬品中毒で、メンタルにまで影響が出たようです。鬱々した暗い気持ちの中で聞く遠花火。頭の中で花火の火が見えたとしても、情趣を感じる余裕はなかったに違いありません。

入院の一夜明けたり蜆売

季語は、「蜆(しじみ)」の傍題、「蜆売(しじみうり)」で、三春。

「蜆売」は春の季語ですが、夏でも蜆売の声がしても不自然ではありませんね。入院した日の翌日の朝に聞く蜆売の声をあき子さんがどのような気持ちで聞いたのかは微妙ですが、「まだ生きているのだ」ということを気づかせてくれる声であったことは確かなようです。

汗たれて白粥吹きぬ生き得たり

季語は、「汗(あせ)」で、三夏。

真夏の熱い時期に、汗をかきつつ、熱い白粥を口で吹いて冷ましている景。ちょっと滑稽味さえ感じる景ですが、下五は「生き得たり」。あき子さんの薬品中毒がかなり深刻なものであったことがこの句でよく分かります。同時に今生きていることの喜びが素直に伝わってきます。

吸呑の吸口さがす虫の闇

季語は、「虫(むし)」の傍題、「虫の闇(むしのやみ)」で、三秋。

「虫の闇」という秋の季語を詠んでいます。立秋を過ぎた頃の句と思われます。

「吸吞の吸口さがす」行為が、どことなく昆虫がする行為のように思われたのでしょうか? もしそうだとすると、この句にも滑稽味があるようです。

夏痩の犬と頒け合ふミルクかな

季語は、「夏痩(なつやせ)」で、三夏。

痩せたのは犬だけではなく、あき子さん自身もかなり体重を落としたはず。

生涯の休暇のごとく一夏病む

季語は、「夏」で、三夏。

薬品中毒の症状は辛かったでしょうが、今まで休むことなく働いてきたあき子さんにとって、闘病生活は「生涯の休暇」に値する貴重な時間でもあったということ。このようなポジティブな考え方のできるあき子さんは、きっと人から大事にされる存在だっただろうと推察します。

露けさや朝のラヂオに夫の聲

季語は、「露(つゆ)」の傍題、「露けし(つゆけし)」で、三秋。

露が降りるようになった秋の朝。ラジオから夫波郷の声が聞こえてくる、という景。その声を聞きながら、あき子さんも嬉しく、ちょっと誇らしい気持ちにもなったでしょう。あき子さん自身が抱いてきた夢がある程度形となったことを実感したはずです。聞き慣れたはずの夫波郷の声を新鮮な気持ちで聞いている妻あき子さんの笑顔が目に見えるようです。

旅戻る夫はまぶしや虫時雨

季語は、「虫(むし)」の傍題、「虫時雨(むししぐれ)」で、三秋。

波郷は、昭和35年の9月に、草田男、楸邨らとともに東北俳句大会に出席しています。旅とはこのことを指すのではないかと思います。

旅から帰った夫波郷は、普段の無口な彼ではなく、やや饒舌だったのではないでしょうか? 「まぶしや」は、そんな夫波郷が見せる明るさを言い表したものでしょう。「虫時雨」の季語も納得のいくところです。

旅と言っても、波郷にとっては大事な仕事のひとつ。仕事に熱の入る夫のその充実ぶりをあき子さんはずっと願っていたはずです。ただ、波郷は、昭和31年に病が再発し、それ以来化学療法を続けていることは忘れてはならない事実です。

影のごとく病離れず冬木立つ

季語は、「冬木(ふゆき)」で、三冬。

この「病」は誰の病か? まずはあき子さん自身のことと考えるのが自然ですが、「冬木立つ」という下五の表現から、夫波郷の病と考えることも可能でしょう。ここは、特定の人の病を想定するのではなく、病一般のことを指して詠んだと思いたいところです。治癒してくれそうもない病の影を嘆じつつ生き抜こうとするあき子さんの強い意志も感じられる句だと思います。

。。。。。。。。。。

汗かきて陰なき道の影となる  森器

薬局を出でて聞こゆる蝉時雨果せぬ夢に一雨を欲る


。。。。。。。。。。

ある作品や評論が、「深い」と言って、それらを称賛することがあります。

しかし、「深い」とだけ言っておいて、どうしてそれが「深い」のかについて何も言及しない人もいます。その「深さ」の理由を簡単でいいから言葉にしてくれればいいのに、と思うことが私にはよくあります。

そもそも、「深い」ことが良いことで、「浅い」ことが悪いことであるかのような判別はしない方がよいというのが、私の考え方です。

深い文章でも、その深みゆえに袋小路に入ってしまっているような文章に出会うこともありますし、浅く物事の表層を滑りながら書いて、生の跳躍に成功しているような文章に触れることもあります。

どちらかと言えば、私は後者を狙っています。浅い文章になってもいいから、読者に違和感を与え、記憶にとどめてもらうこと。それが理想です。大事なことは、答ではなく問題提議です。

「深い」と思った作品や評論について、一言加えることが答でなくてもいいわけです。その一言に首を傾げる人がいることを書き手は怖れてはいけないと思います。


拙作、拙文をお読みくださり
ありがとうございました。