ラブ&ピースとは、散々尖り続けた人が限りを思うときの、言わば、双六上がりのスローガンのようなもので、その、自身の青い尖りに対する少々の免罪と、羞恥と、欺瞞と、顕示と、誇りとが綯い交ぜになった複層的な余熱を帯びた吐露であろうかと思ったりする。 ロッカーたちの養老院には、いたるところにこのスローガンが掲げられているのかも知れない。
若い男がいた。彼はこの青い日々、風呂なし四畳半で陰惨なたぎりを宿しながら、権威と言う巨大で不可解なものへの理不尽と鬱懐と怒りの言葉たちをノートに走り書きし、それを音符に乗せて世間に問い続けた。
幸い、と言うべきか。彼には才能があった。彼の言葉とビートは同じく青い鬱懐を宿した人々の心を撃ち抜いた。
時が流れた。橋の下にたくさんの水が流れ、青かったロッカーは、もはや青くはなかったが、年齢を重ねてもなお、彼が作るビートは人々の心を揺さぶり続けた。
春が深まったある日の事だ。薫風に誘い出されるように、タバコの煙が霧のように巡るスタジオから飛び出し、晩春の街を歩いた。彼が見る景色はいつもサングラスごしの光度が落ちた世界だった。そうしなければ、街をゆく人々はすぐに彼だと気づき、彼はロッカーにならなければならなかった。
ふと、住宅の生け垣に目を遣ると、そこに薔薇が幾輪も咲いている。彼はサングラスごしにそれを見るのは惜しい気がして、サングラスを外した。
色を取り戻した鮮烈な赤い薔薇たち、花弁が幾重にも巻き、外側の数枚がやや黒みをおびた紅に染まり、白い筋が入った茎には鋭い棘が見てとれた。
不意に彼は気付く。長い年月のうちに自分はもう尖りの側にいない事を。権威の側になってしまったことを。
それからは全てが色褪せた。サングラスの薄暗がりより深い闇に彼の心は閉ざされた。
演じる尖りが始まってゆく、全てはビジネスとポーズになってしまった。虚しさだけが募り、過去の自分が彼を責める。
「いまさら四畳半には戻れない、家族、愛人、スタッフはオレの楽曲に生活の全てがある。欺き続けるよりほかない。尖りよりも、ラブ&ピースでいこう」
その夜、ジャグジーに浸かりながら、彼は苦しみながら唄い続けることを決心する。
リビングでは彼の妻がテレビショッピングに興じていた。
ロッカーに限らない。社会運動、著述。尖りを、反逆を、反駁を、自らの原資とし、そして権威と化したとき、その尖りは目的化する。
尖りの為の尖りを演じねばならなくなる。それだけではない、尖りの対象が存在し続けることが、自らの利益と結びつくと言う転倒が起こる。かつて、自らが理不尽だと感じたものを理不尽のままに保存せねば、自らの原資構造が崩壊する。
苦悩しながら、サングラスの奥底で目を潤ませながらステージを務めるロッカーは誠実である。
自己矛盾に心を痛めながら、世の理不尽を問い続ける社会運動家は誠実である。
糾弾されるべきは、開き直った人々である。弱い人々の救済を訴えながら、その言説で利を得、したり顔で、これは正当な対価であると言い切る人、再生回数のくびきに操られ、人を傷つけてなお、自らの利に身を沈める輩。きれいごと、の一言を免罪符にする下郎。
彼らはサングラスを付けずとも、一生涯、薔薇の真の美しさを知ることはない。
ジャグジーもテレビショッピングも悪くはない。悪いのは、開き直って利に身を落とすことなのだ。
南無