わたしの講義はコロンビアから、再びアメリカへと向かう。
「カターシ、イカナイデ」
美女たちのすがりつく手を振りはらい、わたしはコロンビアを立つ。鼻水と涙の綯い交ぜになったものが口元をつたい、ハンカチを借りるべく後ろを振り返るが、美女たちの姿はもはやそこにはない。
美女は洋の東西を問わず繁忙を極めるのだ。イサベラ、ガブリエラ、リアナ、ミランダ、マリサ、君たちの言葉と、あの指先の温もりに嘘はなかったとわたしは信じたい、君たちとの思い出を胸に、わたしはパナマへと向かう。
パナマ―コスタリカ―ニカラグア―ホンジュラス―グアテマラ―そしてメキシコ。
文化センターの、一講師のセンチメンタルジャーニーである。路用も乏しいうえに、その経路も不案内である。道すがらのカリブ海は、その穏やかさとは裏腹に、わたしの目には波の花が霧散する冬の日本海に見えた。
メキシコとアメリカ国境には、文字通りの壁が立ちはだかる。メキシコ人のくせにやたら関西弁が達者なホセがわたしに語りかけた。
「壁な、これ、ある意味トランプタワーやで」
わたしは地元旅行代理店の密入国ツアーにうっかり参加してしまい、ガイドのホセと共に、もともとフェンタニル密輸用に掘られたトンネルの前で密入国のレクチャーを受けているのだ。
トンネルの先にはかつて世界から羨望を集めた、アメリカがある。
第一回の講義。移民国家による文化的固有性の摩滅と最大公約数文化、そして再編成と再構築。
つまり世界的普遍性を持ち得た文明としてのアメリカ文化。と言う文脈で受講生の皆様には論じた。異文化間でも消費可能な形に最適化され、分かりやすさを武器にした、市場拡張性が非常に高い「輸出商品」であり、かなり古典的ながらアドルノ的に言えば「文化産業」である以上に、大衆支配と利益極大化の装置である側面がある。と言う帰結である。
ただし最新の論考では、これに消費者の受動性の要素が指摘され、必ずしも一方的な支配構造と言う文脈で論じられない。つまり、あるところにヒーローがいました、当たり前のようにヒロインもいました、いろいろありました、でも最後は結ばれました。と言った時代設定、主人公、文脈など、映画構造の記号のみを置き換えたものを、わたしたちはその都度新しいものとして、且つ自分の意思(用意された選択肢のもと)として見ているのだ。
これを戦略的に踏襲しているのが、近年の韓国ドラマとも言える。構造、パターンは同じでも、配置を置き換えることで「新しい商品」として日本の視聴者は消費している。
二軒隣のしげるのとこの若嫁も、韓国ドラマの大ファンであるけれど、しげるがいらんこと、
「ようもまぁ、毎回おなじようなもんばっかり見るもんやな」
などと言うから、その都度口喧嘩になる。結果として、しげるのおかずが一品減るのである。
図らずも韓国ドラマが家庭内の権力構造とその苛虐性を可視化したことに、わたしは深い感慨を覚えるのである。
これは応用としてそのままマーケティングに用いることができる。
人の集団心理は、皆が持っているものを欲しがると同時に、自分しか持っていないもの、或いは希少なものを欲しがる。
そこで、同じ商品にバリエーションを与える、色、コラボ、限定、なんでもいい。この希少性に消費者は群がる。消費者は自らが自らの意思で選んでいるように感じながら、じつは巧妙なコントロール下に置かれているのである。
集団親和性の高い文化とは、このように形作られてゆく。希少性というバリエーションで、同一構造の商品を再構築する。韓国ドラマは単なる模倣ではなく、同一構造の中に、アジア的なエッセンスを混入させた。つまり、再編成したのである。
そこに、しげる宅の若嫁が見事に乗り、そしてしげるはおかずが減った。
風が吹けば桶屋が儲かる。これは完成されたロジックだと思う。
今回はアメリカ文化の原生的な多面性について論じたい。
わたしたちが日本にいて受け取るときには、アメリカ文化と言う一元的なもので語られるけれど、その範疇は非常に広く、東と西、北と南、階層、そして人種などによって種々様々なものがあり、そしてそれらには歴史やら、必然が伴うものであるから、アメリカ文化を語るうえでは、その発生段階と、文化産業として輸出される段階との二義的な論点で理解しなければならない。
あ、
いらんこと書いていて紙面と時間が尽きてしまった。この続きは第四回に譲る。テーマは「知的コストのかからない文化が、知的労力を要する文化を駆逐・浸潤する」構造について論じたい、受講生の皆さんはテキストを忘れないように。
では本日の講義は終わり。受講生の皆さんは寄り道せずに帰ってほしい。
イケメンに声をかけられても、これを黙殺できる勇気を持って下さいね。
では、またね
南無