Yahoo!ブログがサービス終了するという知らせを聞いたのはもうずいぶん前だ。

ああ、このブログもお引越ししなきゃな、と思ったものの放置し続けてきた。

このまま消えちゃってはもったいない。ようやく重い腰を上げて、こちらのAmebaブログに移行した。

 

昔の記事(といっても、2~3年前だけど)を読むと、やっぱり当時を思い出す。

座っていた窓際のPCデスク。春の香り。

 

「青春」が自分の手ではどうしようもない力で崩落してゆくのを、なんとか押しとどめようとして、もがいて、溺れそうになって。

大人になるとは、働くとは、人生とは、生きるとは。

そんな当て所もない問題のる堝にのみこまれて、彷徨っていた自分。

 

でも今だって、「あの頃は…」なんて懐かしく振り返れるような場所にいるわけじゃない。

同じ地平から、同じ風景を眺める。

ただし、この数年の日々、1日1日の生活は、おぼろげな回答を僕の中に構築していった。

それは、諦観でもあり、妥協でもあり、むしろ自由で漠然としていた感性を狭量な価値観に押し込める過程でもあった。

 

でも今僕は着実に、「青春」を終わらせつつある。

医療の進歩と共に人の平均寿命は延びた。それに比例して、僕らは「青春」にずいぶんと長居するようになった。

それは心地よい居場所なのだと思う。

でも、生きるためにはそれを自らの手で破壊しなければならなかった。

そうしないと、僕は「青春」に閉じ込められたまま死んでしまっていただろうから。

窓の中から、季節の移ろいを眺めているだけでは、結局何も変わらない。変えられない。

玄関を飛び出して、世界を縦横に駆け巡るしかないのだ。

 

多くの絶望を知った。愛は否定され、信じる者に裏切られた。何度死のうと思っただろう。音楽すら、無力だった。

人を妬み、憎んだ。どうして自分ばかり損をするのかと憤った。

たくさんの人を傷つけた。そうして自分が傷ついた。自分否定と自己嫌悪は増すばかりだった。

 

でもなんとか死なずに生き延びた。3度の春夏秋冬を越えて、今ここにいる。

生きる理由は、今もわからないままだ。

誰かに「生きていていいよ」と言われても、素直に信じられない。

明日やってくる絶望に慄く。

でも、心の奥の底の底から叫び声がするのだ。

耳をすますと聞こえてくる。

              "生きたい!"

と。

 

青春の荒波を越えて辿り着いた大地に広がるのは、ただ枯野が茫漠と広がる荒野かもしれない。

僕はそこに、一輪の花を生けよう。

 

KF

 

少し長引いた冬の終わりを知らせる、暖かな風が吹き始めた。

春。喜びの季節。息が苦しくなるまで走りたいと思う季節。木々の若々しいにおいと、子どもたちの遊ぶ声。
そして何もなくてひとり、窓辺で憂鬱になる季節。

※※※

     菜の花畠に、入日薄れ、
     見わたす山の、霞ふかし。

の言葉で始まる童謡「朧月夜」。
詩は高野辰之。
月夜というからには夜の曲かな、と思うけれど、情景はまだ明るい夕方ごろだろうか。

      春風そよふく、空を見れば、
      夕月かかりて、にほひ淡し。

宵の春風は、まだ少し冷たいだろうか。すすきの上の秋月とは違う、明るい菜の花畠の上の月。
僕は夕暮れの菜の花畠を見たことがあったろうか。

この詩に素晴らしいメロディーを与えた作曲家、岡野貞一。
3拍子という西洋音楽のリズムで書かれている。
同じ作曲家の童謡「ふるさと」は1拍目の重い3拍子だったが、この曲はアウフタクトから始まる3拍子だ。これはとてもヨーロッパらしいリズムの取り方だ。日本人は、歌い出し「なのは~な」を、1拍目からのメロディとつい聞き違えやすい。でもアウフタクトから始まる3拍子のこの浮遊感は、詩の淡い情景にぴったりだ。
西洋音楽のリズムが、日本の叙情風景にこんなにも美しく寄り添う…。


     里わの火影も、森の色も、
     田中の小路をたどる人も、
     蛙のなくねも、かねの音も、
     さながら霞める 朧月夜。

火影も、森の色も、人も…移ってゆく視線、自分の周りにあるものたちへの感動…そしてそれらは、強くそこにあるのではなくて、霞んでゆくのだ。
全ては霞みゆくということ。
僕はいつ、春の宵頃に霞みゆく風景を眺めたろう。

満開の桜も、街を行く人も、窓の向こうから僕の鼻の奥を刺す。
くしゃみが出る。
春に満ちた匂いに咳き込む。

それでも、全ては霞みゆく。

僕は本当にこの曲が大好きで、いつも心の中に思い出します。
岡野貞一先生は何を思いながら、この曲を書いたのだろう…いつか、天国で話せたらなあ、、。

※※※
先日、「朧月夜」をマリンバアンサンブルに編曲、演奏しました。よければ、きいて行ってください。











ここに一つの映像音源がある。大戦中のベルリン市内の工場に建てられた特設ステージにて、巨匠フルトヴェングラーが指揮する「ニュルンベルクのマイスタージンガー序曲」である。
 団員が全身全霊を込め、命を削るかのように弓を弾き切る。その重厚な響きに、当時の激しい銃撃戦や流れ飛んだ血しぶきを想像する。明日をも知れぬ命の危機の中、この会場を訪れた人々はどれほどの思いを募らせてこの曲を聴き入っているのだろう。その表情は、惨劇の苦難に満ちている。
 フルトヴェングラーは会場全員の意思を引き受けるように指揮棒を振る、演奏家もそれに応える、このナチスドイツの国旗が掲げられたステージで。
 
「ニュルンベルクのマイスタージンガー」はワーグナーにとっての理想国家を唱える楽劇であった。輝かしいニュルンベルクの黄金時代を彩り、新たな芸術家が誕生するドラマが展開される。芸術と生、芸術と民衆、未来と現在と過去とが結ばれて一つとなる、ワーグナーの理想の芸術世界を叙情性深く描き出した傑作である。
しかし、一見ハッピーエンドであるこの未来の芸術家誕生劇はその反面、非常に冷酷な排斥劇を含有している。ユダヤ人を髣髴とさせる人物が現れ、金銭的欲求から結婚を申し出て、主人公から詩を奪い、歌合戦の時にはうろ覚えの詩を唱え民衆から嘲笑されて失脚する。その後主人公は歌合戦を勝ち取り、高らかに民衆にこう訴える。
 
気を付けてください
我々に災いが降りかかろうとしています
ドイツ国民と帝国が偽りの外国の威力に屈してしまうと
諸侯は皆、間もなく人民を理解しなくなり
異国のガラクタをもって異国の幻影をドイツ国内に植え付けるのです
ドイツ的で真正なものは誰からも知られず
ドイツのマイスターたちの名誉の中にも
もはや息づかなくなるのです
それだから皆様に申し上げます
ドイツのマイスターたちを敬いなさいと
そうすればよい精霊を呼び寄せるでありましょう
彼らの働きを好意をもって迎えれば
たとえ神聖ローマ帝国が滅びようとも
神聖なドイツ芸術は不変のままわれわれのもとに残るでしょう!
 
「偽りの外国の威力」「異国のガラクタ、異国の幻影」とされているのは他でもないユダヤ人のことである。ワーグナーは最後、英雄の台詞によって白人至上主義、反ユダヤ主義を掲げているのである。
 
白人至上主義と反ユダヤ主義
 
白人至上主義とは、アーリア人、ゲルマン民族こそが真に神に選ばれた神聖なる人種であるとし、その他の人種は総じてこの人種にひれ伏すべき劣性人種であるとする思想のことである。そして殊にユダヤ民族は神の冒涜を行った忌避すべき人種であるとする思想が反ユダヤ主義である。反ユダヤ主義の起源は、ヨハネ福音書のイエスの言葉から反映している。
 
どうしてあなたたちに私の言葉が理解できないのか。
それは私の言葉を聞かないからである。
あなたたちは、悪魔を父に持ち、その父の望みを叶えようとしている。
彼は、真理において固まっていなかった。
なぜなら彼には真理がないからである。(ヨハネ福音書八章四三―四四)
 
この言葉を引き合いに反ユダヤ主義者はユダヤ人を悪魔の子孫と捉え、キリスト殺しの下手人になった罪を背負い、神の怒りを買った呪われた民族であると忌避した。ユダヤ人は神聖なる白人種と混血することでその汚れた血統を広げ、世を支配しようと目論んでいるという思想のもとに、後にユダヤ人全滅を謀る「近代的反ユダヤ主義」の時代へと転換してゆく。ワーグナーの生きていた時代はちょうどその過度期であった。
 
輝かしい精神世界を備えた自由で芸術的な人間に人類を生まれ変わらせるためには、ユダヤ人を殲滅し血統を途絶えさせねばならないとワーグナーは謳い、若くから反ユダヤ主義を表明し、ユダヤ人を悪とする論理を唱える数々の論文を世に発表した。それとともに、自身の作品にも色濃くその思想を取り入れていった。
その思想は後に人類歴史上もっとも残虐な殺戮へと繋がるのである。
 
ヒトラーのワーグナー崇拝
 
アードルフ・ヒトラーは少年時代、リンツの歌劇場でローエングリーンを観てすっかりワーグナーの虜となった。そのころからワーグナーの人生にのめり込み、ワーグナーの芸術を求め、ワーグナーに関して入手できるものなら何でもむさぼるように読み漁っていた。ヒトラーはワーグナーを手本や前例としてではなく、完全に自分の本質にしてしまおうとしていた。
そして、ヒトラーは後に「ナチスのバイブル」とも呼ばれる著書「わが闘争」を書き上げた。著者の終始一貫した世界観・政治観を凝縮したナチズムの真髄が詰まった書である。そこにはワーグナーの論文から引用したであろう表現や思想が多用された。ヒトラーに反ユダヤ主義を教示し、独裁政権へと誘った親元は他でもないワーグナーであった。
ヒトラーは自身の政権の弁論をする党大会を毎年ニュルンベルクで行い、この地にゆかりのマイスタージンガーやその他のワーグナーの楽曲演奏を欠かすことがなかった。軍の指令号にワーグナーの劇中の格言を用いて、軍隊パレードでもワーグナーを好んで演奏させた。
そして、ワーグナーの理想とする芸術国家を創造する為に、遂にユダヤ人全滅計画を遂行した。
 
ユダヤ人迫害
 
一九三五年、ニュルンベルク法を制定しドイツ人の血統を汚染するユダヤ人との交遊を禁じ、街にはユダヤ人お断りと書かれた看板やポスターに溢れかえった。この法制定後、ユダヤ人迫害が強化され、一九四〇年代、最大級の惨劇を生んだアウシュビッツ収容所が建てられた。
 
ドイツ国内にいたユダヤ人や遊牧民、障害者等を遠くポーランドの郊外に家畜用列車で連行し、「労働者」「人体実験の検体」「無価値」などと選別。女性や子供や老人、七割以上の人が無価値と判断され、何の記録も残さずにガス室へと移動させられた。労働者と選別されたものは、マイナス三〇度にも及ぶ野外での強制労働、食事もままならぬ劣悪な環境での生活。人体実験では生きたまま解剖、病原菌や有害物質を注射、静脈を繋いで人工のシャム双生児を作る等、囚人をモルモットと呼び、残虐で無意味な実験を繰り返したのちに死体を処分していった。
 
収容所の中には囚人オーケストラというものがあった。囚人の中で試験に受かれば楽器演奏家は強制労働を免除され、オーケストラに所属できた。仕事内容はカモフラージュのために明るい音楽を演奏し収容所に人々を出迎えること、強制労働の送迎のための音楽や、懲罰を受ける者が処刑されるまでの音楽を演奏すること。そしてガス室へ送るための音楽も演奏された。
この時には決まってあの曲が流れた。「ニュルンベルクのマイスタージンガー序曲」である。この曲は、ナチスの理想国家を掲げるプロパガンダの役目だけでなく、囚人を死へ誘う断末魔の曲としても演奏されていたのだった。
 
 ナチスの過激な殺戮行為は戦後厳しく処罰が下り、二度とこのような過ちを犯さぬようにとアウシュビッツ強制収容所は世界遺産となった。しかし、生き残った人々は激しい後遺症に悩まされ社会的立場は失われたままだった。反ユダヤ思想が完全に消滅した訳でなく、戦禍の傷跡は残されていった。
 
フルトヴェングラーの最終弁論
 
前述した指揮者フルトヴェングラーは当時、反ナチズムの姿勢を取り、多くのユダヤ人音楽家をかくまった。しかしナチスの圧力により、国外追放か、政権の傘下にて演奏活動を続けるかを迫られた。その時、彼はドイツに残りオーケストラを振り続けることを決めた。戦後ナチスに加担した音楽家とされ、裁判が起こされた。その最後の弁論で彼はこう言った。
 
  芸術とは、政治や戦争、あるいは民族の憎悪から生まれたもの、またこうした憎悪を生み出すものとは無縁であるというのが私の考えである。芸術は、こうした対立を超越しているのだ。人類全体が一つの共同体であることから生まれ、またこれを顕し、またこのことを立証する何かが存在せねばならない。こうした事物には、まず宗教、さらに学術、そして芸術がある。確かに芸術はそれを生んだ国民を現すものである。しかし、その国と政治とは無縁である。芸術は民族から生まれるが、それを超越する。我々のこの時代において政治に左右されないことこそが、芸術の政治的役割なのである。
  
私が非政治的、超政治的な芸術家としてドイツに残ったという、そのこと自体によって私はナチズムに対する積極的な反対運動を進めたことになるのだ。何故ならば、ナチズムは政治の役に立つ芸術しか認めなかったからだ。ドイツがおぞましい危機の中にあることを私は認識していた。私はドイツ音楽に対して責任を負っていると感じ、ドイツ音楽がこのような危機から脱出するよう、微力の及ぶ限り助けることを私の責務とした。音楽の本質とは、ヒトラーの考えはそうであったが、音楽で何かを示威することでは決してない。
  
音楽の本質とは、また音楽の正当性とは、音楽それ自体にある。ナチズムにプロパガンダにされる懸念はより大きな考えの前に払拭された。それは、可能な限りドイツ音楽を守り、ドイツのオーケストラと、そしてドイツ人とともに音楽を続けるということである。かつてバッハ、ベートーベン、モーツァルト、シューベルトを生んだ民族は、ナチスのドイツという外貌のもとでも、その営みを続けたのである。その時にドイツにいなかったものは、それがここでどうであったかわかるはずもない。ヒトラーのドイツではベートーベンを演奏してはならないなどと、トーマス・マンは本気で言っただろうか。彼は考え付かなかったのだろうか。ヒトラーの恐怖政治下にあったドイツ人以上に、ベートーベンを、その自由と人類愛のメッセージを必要とし、心から聞きたいと願った人々は他にいなかった!
 
危急の淵にあったドイツを去ることなど私にはできなかった。あのときに国を出ることは私にとっては恥ずべき逃亡に他ならなかった。外からどう見られようが、私はとことんドイツ人であり、ドイツ国民のためにそうしたことを、私は悔いていない!
 
裁判所は鳴りやまぬ拍手に包まれた。フルトヴェングラーは無罪を勝ち取った。
 
おわりに
 
戦後七十年を迎えた年に遠いこの日本の地でも、マイスタージンガーは演奏され続けていた。除幕式のファンファーレとして、祭典の入退場の行進曲として、演奏会のプロローグとして。かつての惨劇の様子を知る者は少なく、ただその荘厳な響きに皆は魅了される。しかし、この曲の持つ精神思想が、残虐な政治を推し進め、当時を生きた音楽家たちに殺戮の道具として演奏を強いて、罪なき人々に非業の死を与えた、という史実を知るとき、我々は考えなくてはならない。いかに歴史と、世界と、芸術とに向き合い、生きていかなければならないのかを。
 
アウシュビッツ収容所は今もなお、人類に問いかけている。そして、フルトヴェングラーの遺した言葉と音楽は今もなお、人類を諭し続けている。

注釈
 
 このフィルムはドイツ週刊ニュースの元フィルム。ベルリン市内のAEG工場の特設ステージでの演奏。
 「音楽におけるユダヤ性」では、ユダヤ人に対しての嫌悪感を克明し、「再生論」では白人至上主義を表明し、過激な発言が繰り広げられた。
 ユダヤ人を「死体にわく蛆虫」「寄生虫」などの表現を用いて過激な排斥論を訴えた。
 身体が結合して出生した双生児のことである。
 ナチスが政権を掌握後亡命し、国外からフルトヴェングラーのナチズムへの「悲劇的な無知」を苛烈に糾弾しつづけた文豪。



前々回→
前回→

※ネタバレたくさんあります※

■いままでのまとめ。

まず、簡単にこれまでの①と②の記事をまとめてみよう。

・この映画のメインテーマは「おまえは誰だ!」という僕ら自身への問いかけ。僕・私は何者なんだろう?という思春期の少年少女たちのジレンマ。
・三葉がファンタジーに彩られたキャラクターである一方、瀧君は父子家庭と言うことを除いては、ごく普通
のありふれた高校生として描かれる。
・それは、普通である観客の我々と同じ地平に立ち、問題を共有するためだ。瀧は現代に生きる僕らの分身。
・東京⇔糸守は現実⇔非現実の対比。
・この映画のファンタジーをリアルとして解釈するとき、糸守や三葉は瀧の心の中の存在であると言える。入れ替り現象は、瀧の自己認識の揺らぎ(自分が何者か分からない)である。
・「三葉の死」は、時間の流れが瀧に引き起こす、必然的な自己否定である。
・転じて、瀧の三葉を生かしたいという願いは「自己肯定」である。三葉への「すきだ」はまさに、自分への「すきだ」なのだ。
・この時の瀧の自己肯定は、5年後のエピローグで、確かに彼自身に強く影響を残していることがわかる。

■「君の名は。」はタカキくんのための作品?

タカキくんとは、深海監督の前作「秒速5センチメートル」の主人公、遠野貴樹くんのことである。
「君の名は。」の特にラストシーンはこの「秒速~」を強くオーマジュしているようだ。そっくりなカットが何枚も続く。しかし、オチはまったく真逆なところに到達するのだ。
「君の名は」は「秒速~」とコインの裏表であるように感じた。または「秒速~」へのアンサー作品だ。
ここでは「秒速~」の詳細は割愛するが、素晴らしい作品だから是非観てほしい。

※※※

「秒速~」の主人公タカキくんは、今回の瀧と同様に、思春期の頃に大切な人との出会いと別れを経験するのだが、その後の行く末は天地の差である。タカキくんは、友達ナシ、彼女とは別れ、会社もやめて、暗く汚い部屋でひとりぼっちで、外に出ても初恋の少女の面影をひたすら追い求めるという有様。それでも最後はけじめをつけて前を向くが、もう全く、なーーーんにも解決してないのだ(笑)
瀧君が三葉を生かしたのとは逆に、タカキはこれから、アカリ(『秒速』のヒロイン)を殺し続けることによってしか居られないのだ。そうしないとたぶん、自分が死んでしまうから。
あまりにカワイソウだ。

ちょっとメタ的な見方になってしまうが、作り手はタカキ君に対して、ずっと申し訳ない思いを抱えていたのではあるまいか。
今回のラストシーンは、その罪滅ぼしであるように感じる。
曰く「タカキ、俺の感傷のために、不幸な目に遭わせてすまんかったなあ、、、お前、そのままじゃ痩せ細って死んじゃうよ…。お前は決して、不幸にならねばならない人間ではないはずだ。幸せになる方法が、あるはずだ。それを伝えてやらないと」映画を通じて、皆に教えてあげないとーーー。

そして「君の名は」のラスト、瀧くんにタカキを重ね合わせて描写し、ちゃんと救いを与えた。僕は勝手に「タカキよかったなあ~~泣泣」などと一人合点したものである(笑)

…あれ、でも「タキくん」、「タカキくん」……ん?似てない?(笑)これは果たして偶然か或いは…。

■「幸せになりなさい」

エピローグ中、奥寺先輩の印象的なセリフがある。

ーーー「君も、いつかちゃんと、幸せになりなさい」

素敵な言葉だ。でもなんとなく浮いて感じないだろうか?前後のシーンとの繋がりが見えづらい。先輩の結婚自慢ですか?てかんじ。
でもこのセリフも、「秒速~」を考えるとピンとくる。即ちタカキ君への言葉だ。「今度は幸せになれよ」という作り手の願いでもある。
また、キラリと光った奥寺先輩の左薬指。ああ、アカリだ。アカリからタカキへの
「幸せになりなさい」なのだ。

※※※

他作品を持ち出すのは、どうしてもメタ的な解釈になってしまうから、やっぱりちょっとズルいかな。
でも、タカキと瀧は同一人物。また僕らの分身。だから、上の奥寺先輩の言葉だって、僕らにはちゃんと届く。ちゃんとそういう風につくられている、良い映画だ。

でも「幸せになりなさい」と言われてもね。
どうやって幸せになればいいんですかね。タカキは。瀧は。そして僕らは。
その答えが、ラストシーンに込められている。

■ラストシーン。東京に現れる三葉。

ファンタジーの住人であったはずの三葉が、徹底してリアルに描かれていた東京に現れるのは、少し違和感がある。ミもフタもないことを言うが、現実の東京には、四代続く、人と入れ替る能力を持った巫女の末裔などいないのだ。少なくとも、僕らはそういうツマラン世の中に生きている。

※※※

だから、最後に瀧が出会った三葉は、あれは三葉ではないのだ。だってここは現実だから。(顔も声も三葉だし姓も宮水だけどそれでも!)
じゃ、誰や。
それは、瀧と同じように、或いは三葉と同じように、或いはタカキと同じように、嵐のような青春時代を超えてきて、「ずっと誰かを探しているような気がする」ひとりの大人の女性だ。
だからまあ、三葉でもいいんだけど。でも、三葉でなくてもいい。そういうことだ。

■名前を呼ぶこと。

瀧くんは5年経ってもわからないことばっかり。これからの自分についてのことも、まだハッキリしない。
「お前は誰だ!」ーーーその言葉は、いつまでも問い続けられる。
でもさ、そんなもん分かる人いないよ、大人でも。自分とは何者か、分かる人おる?それは一生の問いかけだ。僕らはそれに、1日1日、答えを見つけて行かなければならない。間違ったりもする。勘違いもするけれど。でもそうしていないと、本当に消えてしまうから。

・・・じゃあ、その方法は?
自分とは何者か。それに回答を与える方法とは?
タカキにさせてやれなかったこと。それは…。

※※※

それは、出会うこと。新しい誰かに出会って、その人の名を呼ぶこと。そして、自分の名前を呼んでもらうこと。
 「名前」は誰かに呼んでもらうことによって初めて意味を持つ。他人の認識によって自己はようやく存在できる。また他人を認識することによって、僕らはようやく自らを確認する。人は一人じゃ生きていけない。
出会いの一つ一つが、少しずつ自分を形ずくってゆくのだ。

これがラストシーンに込められた思い。
三葉を生かしたことで瀧のもとに巡りくる、「再会」であって「新たな出会い」なのだ。

※※※

夢の世界はいつか消えてしまう。「ちゃんと幸せになる」っていうのは、現実世界で、ちゃんと、名前を呼んでもらう。そういうことだ。

■おわり。ほんとにおわり。

以上、「『君の名は。』を考えてみる」でした。長々とお付き合いいただいた皆様、ありがとうございました。
ところで私はまだ1度しか観ていないので、忘れちゃったシーンなどがたくさんあります。特におばあちゃんが話していた「時間」「結び」の話…あの辺りにはもっと深いものがありそう。あと重要な小道具である「組紐」とか。
そのあたり、もしまた観る機会があれば考えてみようと思います!そのときは④が投稿されるかもしれません…(笑)
それにしてもアニメの技術、すごいですね。本当に美しい映像でした。
僕なんかはどうしてもストーリーにばかり気をとられちゃう傾向がありますが、映画は、映像であることの意味こそが最も重要だと思います。美しい世界に自分も入って行けて、登場人物とともに、ご飯食べたり、走ったりできれば幸せだなあと思います。映画っていいですね。






※ネタバレたくさんあります※

■糸守はどこにあるのか

前回、糸守はファンタジー世界で、瀧君のいる現実世界の東京と対比されている、という話をした。
つまり瀧の糸守への旅は現実から非現実への旅であり、瀧と三葉の出会いは、現実と非現実の邂逅でもあるのだ。
(現実世界からファンタジー世界に行く話はたくさんある。例えばハリーポッター。また例えば川端康成の「雪国」などは、純文学ながらに現実と現実離れした地を、ファンタジーさながらに描く。)

※※※

糸守は実在しない。
それではどこにあるのか?これをリアルに考えるならば、もう答えは一つしかない。
ーーー「瀧の心の中」だ。
そう。糸森は瀧が創り出した幻想世界なのである。そこにはもう一人の自分である三葉がいる。
やがて、瀧はその糸森と三葉に強く心を惹かれてゆく。

■三葉の死

ところが唐突に入れ替りは終る。なぜか。三葉が死んだからだ。
瀧にとって自分の半分である「三葉の死」とは何だろう。

これを僕は「自己否定の上に成り立つ自立」であると考えた。
シンプルなことなのだ。いつまでも、大人になってもずっと入れ替り続ける訳にはいかないでしょ?てことだ。
だって瀧は、三葉のものでない自分の人生を歩まねばならないもの。三葉にしても同じだ。いつまでも他人の身体を借りて、夢の世界を彷徨している訳にはいかないのだ。
時間が引き起こす必然なのだ。それは僕らが1年に一つ年齢を重ねることと変わらない。

ーーー分裂した自我に悩み続けるのもいい加減にしろ。亡き母の面影を三葉という少女に求め続けるのももう終わりだ。独り立ちしろ。そういう時期が来たんだーーー
「こう生きなくちゃならない」と自らを諭すこと。他の相反する価値観は捨て、半分の自分からは目を背けて…。それが「自己否定の上に成り立つ自立」だ。

…僕は映画を観ながら、まあこういう落としどころで終わるだろうと思った。
つまりこんな感じ(↓)で。
三葉の死を知る瀧。愕然としどうにかして生き返らせたいといろいろ試みる。でもムリ。過去を変えるなんてできるわけないんだ…。三葉のことは忘れてしまう…忘れてはいけないのに…。でも諦めるしかないんだ。僕は1人で生きていかなくちゃならないのだから。そう、忘れるということは、同時にポジティブなことであるのかもしれない………。終。

…というパターン。次回で触れる「秒速~」はこのタイプの終幕だった。
また大林宣彦監督が2007年に自らリメイクした「転校生」もこのパターン。副題は「さよならあなた」。

しかし今回はそうしなかった!
ここから、あの「バックトゥザフューチャー」が始まるのだ!!

■震災のこと、そして過去改変

「過去に戻っていろいろして未来をよくする」なんて、今やもう手垢のついたシナリオだ。過去を改変・死んだ人を蘇らせるなんて、ほとんどルール違反、もっと言えば禁じ手に近い。ドラえもんならタイムパトロールが出てくるところである。
「君の名は」ではうまく時間軸を設定しているとはいえ、どうしても「ウソっぽく」なっちゃう感がある。
だいたい、あれだけ震災のオマージュをやっておいて、それをきれいさっぱり無かったことにしちゃうのは、如何なものか。このあたりは賛否両論出てきそうだ。

※※※

東日本大震災は、この映画にも色濃く影を落としていると感じた。
彗星災害の跡地の風景や、「なぜ予測できなかった」等の新聞記事もそう。
後に出てくる「防災無線」もそう。このシーンは本当に涙がこみ上げた。
彗星災害で消えた町と多くの命。はじめ、瀧は「糸守」の地名を聞いてもそのことを思い出さなかった。
当時中学生だった瀧にとってそれは、過去に遠い地で起きた自分とは無関係な出来事だったのだ。それがいま、三葉の死と関わっていることを知り、急激に眼前に迫り、巨大な悲しみを生む。

…これも、僕らの姿だなと感じる。
震災を忘れて生きていられる僕たち。或いは今も地球上のどこかで行われている戦争について、何も感じずに生きていられる僕たち。
「忘れちゃダメなんだ」「消えた命は戻らない」「僕らはそれに対して何を思えばいい」
そんなメッセージとともに物語は終幕へ向かうと思った。だって僕らは震災を無かったことにはできないもの。

だが、そうはならなかった。バックトゥザフューチャーだ。
禁じ手ともいえる作劇を、こうまで清々しくやってのけるとはさすがに思いもよらなかった!
それまでの幻想的なSF設定と観念的な話に惹かれていた観客の中には、さすがにムチャクチャな変電所爆破シーンなどで冷めちゃった人もいるんではないだろうか?
(深海監督の2作目『雲のむこう~』でも、唐突なアクションシーンは少し浮いて感じられた)
だがしかし逆に言えば、作り手側としては、そうしてまで三葉を救わねばならない理由があったはずなのだ。
このことを次項では探って行きたい。

■瀧の決断

三葉の死は瀧にとって、「自己否定の上に成り立つ自立」であると言った。
しかし三葉の死を知った瀧には、強い願いが芽生える。

三葉を死なせたくない。

瀧は山を登りはじめる。三葉に会うために。
そして最後の入れ替りが始まる。
(口かみ酒を飲んでタイムスリップするシーンは本当に美しかった。原田知世の「時かけ」を彷彿とさせた。)
糸守の人々を救うために奔走する瀧。
瀧が救おうとしているのは…それは、つい昨晩まで、そんな災害で死んだ人々がいたなんて知らなかった、そういう人々だ。これは、震災のことを思うときの僕らの「祈り」のようだと感じた。
また糸守は瀧の心象世界でもある。それを救おうとする…それはどういう意味を持つだろうか。そして三葉を死なせたくない、その想いの真相は。

■瀧と三葉の邂逅

ご神体の前で目を覚ます、三葉(身体は瀧)。

(三葉はこのとき自分の死を悟るが、ここは仕組みがややこしい。三葉は彗星で死ぬ数時間前の状態。未来の体験であるはずの彗星の光景を思い出す。まるで前世の記憶かのように。
どういうこと?
それは、「瀧は三葉の死を経ている」からだ。自分の半分となった瀧が三葉の死をその身に経過しており、尚且つ、その前の日に糸守彗星災害を認識したことにより、記憶がリンクしたのだ。…ちょっと強引だけど(笑)まあここは割とどうでもいいので。)

そして瀧と三葉は出会う。
(このシーンも本当に美しかった。背景はクレーターが一つの糸守と2つの糸守が交互に映るけど、そのどちらも美しい。)
お互いに名前を呼ぶ。
入れ替りが解ける。
一瞬の邂逅はすぐに終わってしまう。
その最後、瀧が三葉の掌にマジックペンで書き残した言葉は「すきだ」。

三葉への「すきだ」。それは、そう、自分への「すきだ」なのだ。

瀧が三葉を生かしたいと願ったこと。それは、自己肯定だ。

※※※

幼いころの自分、間違っていた自分、弱い自分、意地悪な自分、情けなかった自分…。そんな、誰もが持つ分裂したたくさんの自分。一度はそれを捨てようとしたが、捨てなくても良いんだ。
生きていていいんだよ!!!!という強い願い。

僕らは自分のことを「すきだ」と言えるだろうか。
ここに、作り手のいちばん伝えたいメッセージがあるように思う。

■そして二人は別れる

糸守に彗星が落ちる運命は変わらないけれど、瀧は糸守の人々を救うことができた。その後、三葉との入れ替りは終り、彼女のことも忘れてしまう。
それは瀧にとって糸守というファンタジー世界が必要でなくなったから、必然的なことだ。
彼は文字通り、「現実に帰る」のだ。でもそのときに、瀧が三葉と糸守という、自分の内面世界を肯定して帰ることができたことは、瀧自身に確かな影響を残している。あの時三葉を死なせなかったことは、確実に彼を生かしている。
それは5年後の彼の姿が物語っている。変わらぬ友人たちがいて、将来への漠然とした不安は抱えつつも、いま自分のやりたいことを見出して、それに向かって邁進する瀧の姿。これこそが、自己否定型に終幕した「秒速」との最大の対比だ。次回詳しく述べます。
そして就活の面接のシーンでは、忘れてしまったはずの糸守の記憶が、確かに彼の中の深いところに息づいていることがわかる。

■おわり。そして次に続く。

第2回も読んで下さりありがとうございました。物語の核心に踏み込んできましたよ
!次回は、僕の大好きな新海監督の前作「秒速5センチメートル」を取り上げつつ、いよいよ「君の名は」のラストシーンを語ってみようと思います。
最後に瀧が会ったのは、実は三葉じゃない??ーーーその真相とは…?!こうご期待^o^

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K.F.

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