自分の中で(も?)


お前なんか生きてなくていーよ


と何かが言ってるような気がする。



仕事、失敗とか多いし。

道とか全然覚えないし←脳異常過ぎる



ミス多いし。ほんとに。


色々とダメダメすぎる。


いい母親でもない。


いないほうがいい、くらいだ。


どんなでも母親は母親なのも

わかってはいるけど。



そんなことしらん、

とにかくお前なんか生きてんな


と言われてるような。

自分で思ってるような。


そういうふうに、親や兄から言われたとか

いじめられたから

刻まれているんだろうか。

レコードの溝のように。

どうしても、どこかにあるのかもしれない。



自分次第かどうか、はわからない。






そもそも



この「私」という意思とか意識とか思惟

とかいうものってなぜあるのだろう。


他の生き物には少なくとも「私(は)」という

単語を使って考えることはないわけで。


「私は私をどう思うか」

なんてのもない。


なら、実はそんなに大切なものじゃないんじゃないか?



「本当の私」だとか

「私とはかくあるべき」だとか

思いや希望だ、なんだかんだ言うけど



お菓子を毎日食べたーい!!とか


って、人間の身体にそこまで必要なものじゃない。


その前に、他に必要なものがあるっていうのに

そんなもののほうを食べたい!とたとえば、思う。


しかも「脳が糖分に対して依存しているのだ」


とか言うけど


そんなものは、だから「私」と考える脳でもって


しかもそのほんのわずかな一部だけで

それっぽくまとめただけのもので。


こんなふうに文字を使っているのも


本当は、どこまでも要らない、


ものかもしれない。





とは言え、


考えてないで動け

とかいうものの反対側


ということでもない。





考えることなしに

善悪を選択することは難しい。


それにどちらをも、いや、より悪なる行為のほうが

実行することだけは簡単な場合は多々あるし

善悪の間にはきっかりと濃い境界線を引くことは

できない。




善悪を考えないと実行できないことは

脳が「私」を認識してから始まったこと

なのではなかろうか。



こういうことについて考えるとき

私はどうしても

ヘレン・ケラーとサリヴァン先生とを

思い出さずにはいられない。





虫にも、小さな脳はある。

しかし反応する臓器である。

プラスしてあとから生まれただけの思惟には

無意識で働く細かな身体全ての機能ほど

素晴らしく緻密で高性能な側面なんてない。


しかし、それをこそ何よりも重要かのように

生きている。



文字


というものは呪いかなんかと

かわりはしない。

まじないだ。


さしたるものなんてなにもなく

生きていたはずが


「識字率」だの「国語力」だの



それらがいかに「善意による人類社会」を

真にもたらしたか…いや、NOだ。







コンクリートがあらゆる場所に敷き詰められている。


暑い…ってそりゃあ当たり前だ、と思う。


とりあえず、こんなになければ、

違うんじゃないの?!


自律移動する生き物によって、道はできる。

できないところには植物が群生する。



多種多様な命が次々生まれ、また消えていき

繰り返しつつも保たれている。


短期間で破滅をよんでいるのは人間だ。



今の、私たちの生活は

産業の革新した過去からの道の上に成り立っている。


破壊や蹂躙から生まれたものを

そのままに育てることは愚かではないか。



もう私の年齢層などはその上で生きて朽ちる。

せめてひどくしないようにできたらいいなあ。


と、私には希望する、しかできない。



子供の、あるいはその子供、子供の子供…


の世代には、破壊と蹂躙の上に立たず

育生と共生の中で生きていくような方向に

なればいいなあと思う。



子供の脳裡には

そういったものが浮かぶようになればいい。


想像は未来を豊かにするだろうから。