うたいばんばん日記

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参加イベント・鑑賞したドキュメンタリー映画・ふと思ったこと、


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すみなしものの心なりけるままに書き綴ります。。。。

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国立新美術館の企画展でアンドレアス・グルスキーの写真展を今週観て来ました。




幾何学的なルーティーンが映し出された写真は、遠くから見れば規則正しく見えるけれど、近くで覗き込むとそれぞれ微妙に違い、一つ一つのパーツの差異を強調するかのようだった。





規則正しく配列されているからこそ、微妙な差異が強調される。写真だけではなく、日々の日常にもこれは応用されると思った。例えば日々のルーティーン。朝起きてから夜寝るまで。毎日規則正しく生活しているほど、その一つ一つに毎日の変化を感じることができる。




思えば"規則正しい"生活から自分はどれくらい離れていたのだろう。たぶん中学や高校の時だったり、大学ではほんの数週間だったり。思い返すとそういった"規則正しい日々"の中にいた時は毎日充実していた様に思える。





そして僕のモットーは日々の日常の中に生きがいや生活することの美しさを見出すことにあるから、「毎日同じことの繰り返し」として避けらがちな"規則正しいルーティーン"もやはり捨てたもんじゃないし、これからは積極的に実行していかねばと思う。




以上。。。

インド国内興行収入歴代No.1の映画、"きっと、うまくいく"(3 idiots) をみてきました。。。




笑い、涙、ミステリー、などなどいろいろ詰め合わさった170分で今までで1番面白い映画の一つだった。そして現在のインドを国内外に発信している画期的な映画だったと言えると思う。









まず、ヒーローとヒロインのキスシーンがあった点。これにはビックリ。今までで観たインド映画ではどんなラブストーリーでもキスシーンはなかった。何か慣習としてタブーになってるのだと解釈していたが、この映画でついにキスシーンが。インドという国の"変化"を象徴するようなカットだった。


(↑↑↑その後、ツイッターで反応頂き、キスシーンはタブーではないがあまり多くなく、今映画でも少しキスシーンについては話題にはなったらしいです♪)



そして、作中に出てくる舞台について。デリーの国会議事堂と凱旋門から始まり、大型ショッピングエリア、そしてシムラーというイギリス植民地時代のリゾート地と最後はラダックの大自然。インドの歴史と自然とそして現在を感じ取れる舞台。インドという国の現在を海外に発信する意図があると思えた。





その反面、物語の人間関係をわかりやすくした結果、女性の登場人物はヒロインとその姉くらい。経済発展をしてもまだまだ女性という登場人物は社会的には抑圧されている状況下にあるのかなとも思ってしまった。




とまぁ、国内向けにはわかりやすくキスシーンと"努力をすれば夢を掴める"というメッセージで国内の状況の変革を暗示して、海外向けにはコテコテの踊りなどのインド要素を残しつつ、発展しつつある国内の状況と歴史や自然などの側面も発信している画期的な映画だったと僕は思いました。。。









以上。


・自分の意見に対する反対意見に耳を傾けることができない時は、自分の思考回路はあまりよろしくない状態にあるようですね。



・好きな食べ物、音楽、スポーツなどなど享受しながら、自分でも作ったり奏でたりする様になって、それを突き詰められて、そして超健康で文化的な生活を営める様になったら僕はマジで幸せだし、それを目指す。



・フランス人が、「フランスの道は日本に比べるとゴミとか散在して汚い。だから僕らは上を向いて毎日陽気に過ごしてるんだ♪」って言ってたから、僕は「日本は道が綺麗すぎるから皆下を向いて歩くんだ」って言うしかなかった事を思い出した。



・自分にできない事を他人に補ってもらう。これは協力の第一義的な部分。ただ、社会に出る自分としては、それよりもっと有意義である「自分が1人では発揮し得ない力や成果を生み出す」ことにこれから重きを置きたい。的なこと。


・SNSとかって、企業が発信するようになると衰退するような気がする。タイムラインの誰か(個人)が"~ってとこで~のキャンペーンやってる!!"はありだけど、"~というキャンペーンをやっています"っていう企業の呟きとかコメント数が多くなると、SNSが新聞の折り込みチラシ化する。
2013年日本の論点で読んだ記事について↓


失業や過労などの自殺の原因がはっきりしている人たちへは生きることの「阻害要因」を減らし、若年層の自殺の要因は生きることの「促進要因(夢や経済的安定)」が低い事が原因である。というような記事(文藝春秋オピニオン2013年の論点)を読んだ。



一部の自殺対策は同じ文脈で、自殺はその「促進要因」より「阻害要因」が上回った時に起こるという見解に立って考えられてるらしいが、これは間違いだと思う。自殺が起きる理由は「促進要因より阻害要因が上回るから」というような比較でしか物事を考えられないことにあると思う。



そもそも、現在の自分と将来の自分を比べてもし後者が上回るなら死を選ぶという考え方に立てば、もっと老人の自殺者が増えるはず。では何故若者より老人の方が自殺者の数が少ないのかといえば、それは"老人が現在の自分と将来の自分を比較することにあまり意味を見出してないから"だと思う。




自由主義経済的な比較の仕方でしか、損得感情でしか物事を判断できない人が多いから自殺者が多いのでであって、生きがいを見出せない。損得でしか物事を見れない人は、自分の判断できない部分、「自分のまだ知らない何か」について思考を馳せることができなくなる。



つまり、人が自殺しない理由は、趣味があるとか、年収があるなんてつまらない理由ではなくて、「まだ自分の感じたことのない何かに期待感を日常の中で抱く(=生きがい)」ことができるからであると思う。要は、比較衡量では測れない何かの存在を自覚しているかどうか。




話を戻すと、促進要因が阻害要因を越えれば自殺は減らせるというような考え方の構造で成された対策は、一時的に数字は減らせても、比較衡量・損得勘定でしか考えられない人々の数は減らないから構造上自殺者は再生産される。




自殺する心理を更生して自殺者を減らすなら、「将来起こる嫌なことより楽しいことの方が多いよ」と説くのではなく、「将来起こる嫌なことと楽しいことを比較するだけで死を選ぶのでは考え方が貧しい」事を誰かや何かに諭されなければならないように思います。




怖いのは自殺問題を扱う記事で平気で生きることの促進要因と阻害要因を比較する文が載っていること。しかも自殺を食い止めた事例とかでその考え方が功を奏しているように脚色されてること。

結婚をしなくても、事実婚のみで席を籍を入れずに子供を持つことも珍しくない今、結婚の価値はいったいどこにあるのかどうか。そもそも、結婚する意味はどこにあったのか。という話題に。




結婚をする、籍を入れると、夫や妻としての社会的地位に拘束されることになる。肩書きが面倒だとか、形にはこだわらないなど、いろいろな言い分があるかもしれないけれど、それ以上の理由で結婚をする理由があるとすれば、それは結婚する当事者2人ではなく、その両親に起源があると思う。




自分が誰かの子供である以上、その親子には切っても切れない関係がある。夫婦2人の両親を結びあわせるのが結婚をする意義の大きな部分であると思った。



ここまで考えたが、ちと言語化するのが難しいな。

言いたいことは、結婚の価値が薄れるなか、結婚の価値を最後まで担保するのは "相手の両親と自分の両親が好意的に「うちの息子・娘をよろしく」と言い合える中であること" なのかなと思いました。ってことです。