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うたのブログ

H22年春、母を子宮体がんで亡くしました。過ぎ去ってしまった、驚くほど短い闘病の日々でしたが、少しずつ思い出しながら綴っています。
日々の出来ごとや、時には独り言もつぶやいたりしています。

私の住む地域では、昨日で夏休みは終わり、今日から学校が始まりました。


夏休みが始まったばかりの頃は、この日が来るのはずっと先かと思っていましたが、振り返ってみるとあっという間に過ぎ去って行きました。


8月からパートに出るようになり、子供達に留守をさせることが心配ではありましたが、二人とも鬼の居ぬ間にではないけど、そんな風な感じで留守を満喫していたようです(笑)



久しぶりに母の事を・・・。

もともと更新が少なかったのですが、最近さらに減ってしまい、母のこともほとんど書いていませんが、母を思い出さない日はやはりありません。

なんで、どうしてという言葉は一年前に比べたらだいぶ消化され、その分起こった現実をより受け入れ、自分の中で吸収してきたということでしょうか。

でもやっぱり、寂しさはふいに訪れ、辛い記憶が浮かんできます。

今も思い出す母の顔は、すでに末期状態だったにも関わらず、母本人ももちろん私も何も知らずに一緒に買い物に出かけた時の顔=表情。ふと母の顔を見たら、何となく違和感を感じ、

「こんなにやつれていたっけ?年取ったなぁ」

と思ったものの、そこから先はその時は何も考えずに終わってしまいました。

今思えば、あの時の表情は化粧っ気もなかったにしても、のっぺりとしてやはりおかしかった・・・。

もう一つありますが、2度目の抗がん剤治療のための入院中の母の姿です。

副作用でフラフラ(亡くなる数日前だったので、実は副作用ではなく、体の機能そのものが終末へ向かっていたのだと後から思いましたが)の足でトイレへ行き、病室の入り口で母のが戻ってくるのを待っていた私。

私の目に飛び込んできたのは、数日ぶりに見た母はまた一段と痩せて小さくなり、点滴棒につかまって前に進んでいる所でした。

目の前に来た母は顔面蒼白で頬がすっかりこけてしまっていました・・・。


その二つの母の顔は、一生忘れる事ができません。

逆に、亡くなってからしばらくして元気な時の母の写真を見たら、

「ああ、そうだった!こんなにふっくらした頬で、健康的な顔だった」

と思い出しました。

その母の顔が、私の中で「健康な時の母」と定着しました。


他の写真もありますが、嫁ぐ前後から子供たちが小さかった頃くらいがやはり母と一緒に過ごした色濃い日々だったこともあり、その当時の写真が一番しっくりと私の中の記憶にも焼き付いています。

そうやって思うと、それ以降の私は母の(父も)健康などは、「健康であって当然」という見方をしていたのかもしれません。


健康が当たり前ではないことを知り、ちょっと臆病になった自分がいます。




ほんの少し前から、就職活動(パートだけど)を始めました。

といっても、まだ一度だけですが。


それにともない、履歴書が必要になり、学歴やら職歴を調べるべく(平成○年とか、うろ覚えではっきりしないので)、あまり開ける事に無かった「箱」を開けた。


箱といっても、30×50×20ほどの、蓋つきのケースで、それが3つ。

結婚を控え、自分の大事な持ち物をそこに納めて一緒に嫁いできたけど、それから13年の間に開けたのはほんの数回だった。

何となく、一箱ずつ中身のジャンルが分けてあり、久しぶりに開けた事もあり思わず忘れていた数々の宝物を目にする事になった。


そのうちの一箱には、本当に懐かしい物がたくさん詰まっていた。

中でも、母が小学生の頃に誕生日プレゼントとしてくれた、小物入れになっている手のひらサイズの丸いオルゴールが目に飛び込み、胸が熱くなった。

開けてみると、白鳥の湖が流れた。

中身は、母方の祖母が旅行土産でくれた、カニの甲羅の部分に貝細工が使われている小さなペンダントと、ピンク色のプラスチックが宝石みたいに付いている指輪などが入っていた。

指輪は当時子供用だったが、今は私の小指にピッタリだった。

小学校何年生だったか忘れてしまったけど、母がやはり誕生日だったかにくれたかわいいリップもあった。

キャップをとってにおいをかいでみると、当時と同じにおいがして何とも言えない気分だった。

30年近くも昔のものなのに、宝物として取っていたので形も崩れていなくて新品同様のそれに、また大切にキャップをして他のものと一緒にオルゴールに納めて蓋を閉じた。


他には、高校時代の親友のご両親が旅行した際に私に買ってきてくれたお土産、結婚する前に旦那君がくれた年賀状、プレゼントしてくれた財布、義姉が海外で買ってきてくれたお土産、職場の方が海外出張で買ってきてくれたお土産も。

頂き物が多く、中には使っておらず、きれいなままの物がほとんどだが、どれも嬉しくて有難くて、処分なんてちっとも考える事ができずに当然のようにこの箱にきれいに入れて持ってきたものばかりだった。


その箱と同じ大きさの箱がもう一つ。

そこには、高校時代に情熱をささげた部活動の思い出がたくさん詰まっていた。

記録されたビデオテープやら、パンフレットやら。

写真も出てきた。

真剣な顔で集中している、若いころの私。懐かしい面々。

清々しい記憶と過ぎてきた年月を想い、少し甘酸っぱい気持ちになった。


そして、同じ大きさだけど深さのある箱が最後に出てきた。

そこには、記憶から忘れられていた写真がたくさんしまってあった。

去年引越した時、他の写真はほとんど見直してきちんとアルバムにはさんだが、これはすっかり見落としていた。

主には20歳前後から結婚する前の物だったけど、数枚だけ幼少から中学生くらいまでの間の写真も出てきた。

不思議と、私の子供達のどちらにも似ていて、早速子供達にも見せたら、やはり似ているといってしばらく交互に眺めていた。

ミニアルバムが数冊出てきた。

めくってみると、そこには母も一緒に納まっていた。

急にまた胸に熱い思いがこみ上げて来て、涙が出そうになってしまった。

私の記憶の中で一番濃い面影の母だった。そう、元気そのものだった頃の母。

確か22歳前後だったと思うけど、当時は彼だった旦那君と、実家の庭で3人で花火をしていた。

いたずら好きで茶目っ気のある母は、「私は写さなくてもいい」とカメラから逃げていたけど、旦那君が私と母が二人で並んだところを撮ってくれた。

お互いに少し頭を寄せ、母は持っていたうちわで口元を隠して納まっていた。

そう、そんなこともあった。あんな風に一緒に花火もしたんだ・・・と、消えていた記憶が何となく蘇ってきた。


他にも、結婚する前にあちこち行っては二人で撮った写真や、旦那君の友達と一緒に川遊びに行った時のものもあった。

みんな若く、私は写真の中の自分の若さに切なくなった。

旦那君ももちろん若くて、今は少し太ってしまったけど、筋肉がきれいに浮かんだ体とすっきりした顎のラインが懐かしい。

・・・時が経ったことを十分実感した。


最初の箱の中に、就職した時に撮った入社式の写真が一枚入っていて、それが職歴の欄で活躍した。

でもあとは特に履歴書には関係なく、ほとんどが私の忘れていた記憶を呼び覚ますものばかりだった。


母の遺品を整理した時に、母の鏡台の引き出しから色々なアクセサリー類が出てきた。

海外土産のチョコレートのプラスチックの中敷きケースに、ネックレスやブローチがきれいに並んでいた。

その中に、私が昔プレゼントしたおもちゃのようなアクセサリーもあった。

古いたんすのあちこちから、きれいにたたまれてしまってある衣類の一番下に、母の子供時代から娘時代の写真が出てきた。可愛がっていた猫の写真も数枚あった。20年前に亡くなった母方の祖父の免許証もあった。

一か所にまとまってはおらず、開けるたびにどこかしらからそういった物が出てきた。

母も、59年の人生で心に残る物、忘れられない物を大事に持っていた。

私は自分の大事な3つの箱を、いつまで大事に持ち続けるんだろう。

どれもこれも、選ぶ事ができない物ばかり。

母は私ほど雑多には思い出を持たず、人生のところどころで厳選して残った思い出が遺品となったのだろうか。


私が母の年齢になるまでには、まだ20年ほどある。

その中で、何回あの箱を開けるのだろう。

母が自分の思い出の品をひそかに持っていたように、私もひそかに持ち続けるのだろう。








また数日ぶりでピグ部屋に行ったら、豪華なお弁当の差し入れがありました。


「ありがとうございます!」


と、おじぎしたピグの写真を撮ったのですが、そのまま記事を書かずにいったんマイページに戻ってしまったら、今度はいざ記事を書こうとしたら写真を載せることができませんでした・・。

前はどうにかして載せる事ができたのに汗

いまだにわかっていないのがイタイと自分でも思います。


心当たりのある方が二人浮かんだのですが、以前見当はずれで申し訳ないことをしてしまったので、この場を借りてお礼を言わせてもらいます。


改めまして、

「ありがとうございましたビックリマーク