よく行く駅に、大きな大きな七夕飾りがあった
七夕の願いって、軽やかで楽しい
神社の絵馬と、少し違う
本気度や切実さが違うとかじゃないと思うんだけど、見ていて重くない
とりどりの紙に、とりどりの色で描かれた願いは、7月の風にさらさら揺れている
きっと願いは、さらさら運ばれていく気がする
叶うか叶わないかはわからないけど、願いって、これくらい軽いほうがいいのかもしれないな
見る人の五感を楽しませ
描かれた願いも、喜んでるのじゃなかろうか
紙は神だし
揺れる様は、夢の跡のような切なさもあり
七夕って、いいな
何となく、ジーンとしてしまった
やっと、体が通常モードになりつつある
梅雨入りしたあと、少し涼しくなっていたが、久々に雨が上がった日の熱気はすごかった
真夏の、逃げ場がない、あの感じ
この日、蝉も鳴き始めて
あー、、夏だなあ、と、うんざりするような、懐かしいような、ワクワクするような、永遠に終わらないような、複雑な夏休みの気分を思い出した
でも、この気分は錯覚に過ぎない
時がクロスする、生きるに最も近い季節
社会という枠組みから少しだけはみ出して、本来の生物としての何かしらを仄かに感じる季節
身だしなみを整え、理性でコントロールし、哲学し、他種とは一線を画す人間という被りもの
そんなものは簡単に綻ぶことを、予感する季節
夏が来た
久しぶりに、まだその気分を引きずっている(現在お昼の12時)
今まで生きてきて、それなりに悲しいことはあった
でも、笑えたし、泣けたし、ご飯食べれたし、生活リズムも崩れなかったし
わたしは、乗り越え方を知っていて
感じなくする術を知っていた
それを強さだと勘違いして、立ち直りは早いんで、と大丈夫風を吹かしていた
悲しさを、とりあえず寝かしていた
その時時のこなすべきことがあったから
テスト勉強とか
明日の撮影予約の件数とか
今月のお給料の残金とか
でも、そのやり方が通用しない出来事が、ここ数年で数回続き
自分は今まで何をしていたんだろうと、自信がなくなった
誤魔化すことも、都合よく解釈することも、寝かすことも、手放すことも出来なかった
忘れる、というのは、能力だと思っている
そしてわたしは、その能力のお陰で、忘れていられるから生きていられると思う
じゃないと、全部覚えていたら、恥ずかしくて耐えられないかもしれない
頭が感情でいっぱいになったまま
自分を否定したり、誰かを否定したり、し続けるかもしれない
でも、忘れられないこともある
その悩ましさこそが、生きることでもあるのかもしれないけど
例えばたまに夢にみては
悲しくなる
悲しさは、いつか違う形になって
わたしを、少しだけ優しい人間にしてくれるだろうか
七夕の短冊のように
不思議と、共通の経験のようなものがあったり、実は過去に住んでた場所が近所で、ニアミスしてたかもしれない、ということがわかったりした
私たちは、ほんとに狭い世界にいて、出会うか出会わないかは細やかなタイミングの違いで
もし出会ったらわかるように、何かしらの種みたいなものが、ちょっとしたサインとしてばらまかれている
そのサインは、その時にならないとわからなくて、意味もない
その時がきたら、とてつもないサインだったんだと、意味が大きく変わってわたしに刻まれたりする
この世界はサインだらけで、その時が来るか来ないかだけの違いの中を、私たちは生きている
起こった出来事も、感じた感情も
いつかその時がきて、特別な意味を持つことがあるだろうか
あの経験はこのためだったのね、と
それとも、そのまま流れの渦に消えていくだろうか
なんて、煩わしいことだろう
でも、七夕の短冊のように、少しだけ切なく
さらさらと揺れるこの悲しみを見てみる
キラキラと飾り付けをして、物語のように眺めてみる
***
月がわり写真展と題しまして、HPのトップの3枚の写真にテーマを添えて、毎月お届けしています(*^^*)
今月のテーマは「風に聞け」
どうぞ心の空きスペースに
okunoakemi.com