浜松市の広報にも井伊直平孫娘が、家康正妻築山御前とする系図が載っています。
〇事実の確立20% 非常に低いと思います。
煎本増夫氏が『井伊年譜』を引き、小和田先生が賛同したため、一般に信じられるようになっ
たのですが、この書は彦根藩主の命で編纂されたため彦根藩の正式な史書と認められたの
ですが、実はこれ以前に松居・沢村という藩士が書いた『井伊新譜』がベースになっていて、
直平孫娘=築山御前という説を挙げたのは、この本が最初です。「新譜」というからには「旧
譜」があるわけで、それが岡本喜庵がまとめた『寛永諸家系譜』に載る系図と、喜庵がその
のちにまとめた井伊家の歴史です。これも藩の正式な歴史書だったのです。それは井伊直
興が元禄十年に柳沢吉保に提出した『当家覚書』までは、この系譜が用いられています。、
この年直興は大老になっています。しかし元禄十二年には、将軍綱吉が諸国大名に直興
との接触を禁じています。子細は不明ですが、伝統を重んじる直興が、柳沢吉保、すなわ
ち将軍綱吉を批判したことが原因だといいます。この年直興は大老を辞し、家督を病弱な息
子に譲って隠居しています。おそらくこれが直接の原因で、徳川家との深い関係を示すた
め、自分の先祖の娘の子が築山御前だとしたのです。ちょうど正保年間遠江井伊谷龍潭寺
住職祖山和尚が、喜庵系図には直平子は二人であったのを、実は子供がほかにもいること
を教えたので、ほかの系図にはない娘を他の男子とともに加えたのです。直平娘はこのとき
初めて付け加えられたのです。
ほぼ信頼できる資料にはすべて、築山御前は関口刑部娘で、それ以上のことは書いてあ
りません。