第30代(即位572年)敏達天皇末裔牛島一門
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康も愛読した古文書『古事記』『日本書記』『吾妻鏡』からも明らかになりました!
尊卑分脈に始まる、賜姓皇族「四大姓」源平藤橘、氏長者「橘(たちばな)」から牛島氏誕生~現代へ伝承2681年の歴史。

皇族が臣下の籍に降りる「臣籍降下」の際に、天皇が源、平、藤原、橘の氏を授けたことにはじまる、賜姓皇族(しせいこうぞく)、つまり天皇の子孫の一族です。

※皇族は「氏(うじ)」と「姓(かばね)」を有していません。なぜならば姓が無いのが建前だからです。もしも姓が有れば、その姓は誰から授かったものなのか・・・という話になりますので。

 

 

■歴史の動き(概略)

239年 卑弥呼 魏へ使者を送る

538年 仏教伝来

587年 蘇我vs物部氏の争い

604年 聖徳太子 十七条の憲法

645年 大化の改新

736年 敏達天皇 五世の孫 葛城王が「橘」賜姓→橘諸兄の誕生

1016年 藤原氏全盛期

1167年 平家全盛期

1185年 壇ノ浦の戦い

1192年 源氏全盛期 鎌倉幕府

1237年 橘公茂 牛島左衛門尉となる→「牛島」氏の誕生

1338年 足利尊氏征夷大将軍

1467年 応仁の乱

1560年 桶狭間の戦い

1568年 織田信長入京

1582年 本能寺の変

1590年 豊臣秀吉 全国統一

1600年 関ヶ原の戦い

1603年 徳川家康 征夷大将軍

1614年 大阪冬の陣

1615年 大阪夏の陣

1866年 薩長同盟

1867年 大政奉還

1869年 版籍奉還

1871年 廃藩置県

 

 

 

 

敏達天皇~橘氏~牛島氏の系図

国立国会図書館デジタルコレクション

姓氏家系大辞典. 第4巻

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123910/3

[3478,3479頁と3479頁拡大]

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123910/51

[3482,3483頁と3483頁拡大]

[3484,3485頁と3484頁拡大]

[3486,3487頁と3486頁拡大]

[3490,3491頁と3491頁拡大]

[3492,3493頁と3492頁拡大]

 

 

 

 

 

■家系図① 敏達天皇から『牛島』公茂(橘公茂)までの家系図

 

[解説]

敏達天皇─葛城王(橘諸兄、五世の孫)─奈良麿─島田丸─(真材─峯範─広(廣)相─公材─)好古─(敏政─則光─季通─季綱─光綱─)公光─(公盛─公清─公長─)公業─公義─公茂『牛島』・・・

<引用文献>
045宮原家の系図探し25.菊池市の渋江家
https://ameblo.jp/mmmhide/entry-12331305307.html

 

 

 

■家系図② 敏達天皇から敏政(橘敏政)までの家系図

[解説]

敏達天皇─美奴王─葛城王(橘諸兄)─奈良麿─島田麿─真材─峯範─広(廣)相─公材─好古─敏政・・・

<引用文献>

www.harimaya.com

家紋を探る-橘 氏

 

 

 

■家系図③-1 橘諸兄(葛城王)から『牛島左衛門尉』公茂(橘公茂)までの家系図

[解説]

橘諸兄(葛城王)・・・公光─公長─公業─公義─公茂『牛島左衛門尉』・・・

<引用文献>

 

 

 

■家系図③-2 橘諸兄(葛城王)から『牛島左衛門』公茂(橘公茂)までの家系図

[解説]

橘諸兄(葛城王)─奈良麿─嶋(島)田麿─真材─峯範─広(廣)相─公材─好古─敏政─則光─季道─季綱─光綱─公光─公長─公業─公義─公茂『牛島左衛門尉』・・・
<引用文献>

 


 

■家系図④ 公長(橘公長)から『牛嶋』公茂(橘公茂)までの家系図

[解説]

公長─公業※2─公義─公茂『牛嶋』三郎左衛門尉・・・

<引用文献>
宮原誠一の神社見聞牒(047)
https://ameblo.jp/kenbuncho2017/entry-12354107850.html

 

 

 

■家系図⑤ 橘氏概略家系図

[解説]

美奴王─葛城王(橘諸兄)─奈良麿─島田麿─真材─峯範─広(廣)相─公材─好古─敏政─則光・・・

<引用文献>

「おとくに」フォトカルチャーラボ
22.橘氏考(附:県犬養氏考)
橘氏概略系図 筆者創作系図
http://ek1010.sakura.ne.jp/1234-7-22.html

 

 

 

■家系図①~⑤のまとめ

敏達天皇

(538-585年)

[古墳時代]

難波皇子

(560年前後?-587年?)

[古墳時代~飛鳥時代]

大俣王

(大派皇子:585年以前?-没年不詳)

[古墳時代~飛鳥時代]

栗隈王

(生年不明-676年)

[飛鳥時代]

美奴王

(生誕不詳-708年)

[飛鳥時代]

葛城王

(橘諸兄:684-757年)

45代聖武天皇より736年「橘」氏を賜る

尊卑分脈

[飛鳥時代~奈良時代]

奈良麿

(橘奈良麻呂:721-757年)

[奈良時代~平安時代初期]

島田麿

(橘島田麻呂:-750年-797年-)

[奈良時代~平安時代初期]

真材

(橘真材:生没年不明)

峯範

(橘岑範:生没年不明)

広(廣)相

(橘広相:837-890年)

[平安時代]

公材

(橘公材:生没年不明)

好古

(橘朝臣:893-972年)

[平安時代]

敏政

(橘敏政:生没年不明)

則光

(生没年:965-965-1028年以後)

清少納言の最初の夫

[平安時代]

季通

(橘季通:生没年不明)

清少納言の子

季綱

(橘季綱:生没年不明)

光綱

(橘光綱:生没年不明)

公光

(橘朝臣:橘朝臣公光)

1122年74代鳥羽天皇より「公」の一字を賜る

[平安時代]

公盛

(橘公盛:生没年未詳)

公清

(橘公清:生没年未詳)

公長

(橘公長:-1180年-)

[平安時代]

公業

(橘公業:1149-1240年)

[平安時代~鎌倉時代]

公義

(橘公義:-1247年-)

[鎌倉時代]

公茂

『牛島公茂』

1237年橘公茂が『牛島』を名乗るようになる。

[鎌倉時代]

公有

公俊

公貞

公雄

公常


 

 

■牛島氏は橘氏の末裔
菊池の物産館で 寛政6年 渋江公正著「菊池風土記」という一冊の本。それによれば、牛島氏は肥前長島荘で橘氏の本流渋江氏の支流として発祥したことが書いてあった。
人皇三十一代敏達天皇の五代目後胤である葛城王は、王族であることを忌み嫌い、天平の頃、四十五代聖武天皇より姓「橘」を賜わり、橘朝臣諸兄公と称し、正一位井手左大臣となられた。
二代目の後裔は、従四位下、島田丸 兵部大夫で、この代に、和州国(和歌山) 三笠山に春日大明神を鎮座されるときに、造営の職を頂いて冥感微妙の事であるので、四十六代称徳天皇から、「天地元水神」を氏神として付けるよう勅許があった(その時、賜った御綸旨は、いまも渋江家の本家にある)。その後、「水部の主」として、勅許の行事を代々引き継いで来たもので、当家以外には伝承されていない。
橘朝臣好古の時代に賊臣純友を追い討ちした功績によって、「承平天慶の乱」、941年頃)、従三位大納言鎮守府将軍に叙仕され、伊予国を賜わって宇和部(宇和島)の城主となった。
橘朝臣公光の時代には、保安三年(1122)の勲功によって、七十四代鳥羽院より「公」の一字を賜り、これより代々の実名に公の字を用いて来た。その後、鎌倉頼朝公の代に、出羽国秋田郡内に領地を賜わり、橘朝臣公業の代には頼経将軍より替地として、肥前杵島郡長島荘・大隅国種ケ島・豊前国副田荘・肥後国球磨郡久米郷を賜わり、この時から九州に来て、肥前国長島に居城した。
公業は鎌倉幕府に、「任えて軍功があり」、また橘朝臣公治の代にも、室町家に、「任え」軍功によって度々感謝状を賜わった。橘朝臣公村の時、はじめて、姓を渋江と改め、その弟三人は分家して、牛島・中村・中橘を名乗った。勅許の行事は、渋江本家のみに伝えて分家には教えず、この行事を代々伝承して橘姓嫡流の証しとした。
肥前国杵島郡三法方郷にある潮見山大明神の、上宮は正一位橘朝臣諸兄卿を祭り、中宮は泉大明神島田丸を祭り、下宮は渋江・牛島・中村の三社で、渋江家先祖の神霊を祭るところであって、いまでも九月二十九日の祭礼には、供え物をして流鏑馬を行っている。
(~中略~)
橘朝臣公重の代に肥後国に移る。その頃の肥前にいた同族は、大村侯御家中の大村右膳・渋江恵門・渋江橘右衛門・渋江善助・渋江主水ならびに、佐賀領水神社司渋江隼人・長崎水神社司渋江能登などがいて、いまでも親戚の交流は続いている。
<引用文献>
肥後翁のblog 肥後山上三名字、牛島氏は橘氏の末裔
2013年6月26日
http://blog.livedoor.jp/ushijimatoshihiro/archives/28836293.html

 

 

葛城王
葛城王(かずらきのみこ、かずらきのおおきみ)
葛城王 (敏達天皇の子) - 敏達天皇と推古天皇の息子。
葛城王 (天武朝の人) - 7世紀の皇族。
橘諸兄の臣籍降下以前、皇族時代の名。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E5%9F%8E%E7%8E%8B

 

橘 諸兄(たちばな の もろえ)

初名は葛城王(葛木王)。奈良時代の皇族・公卿。 臣籍降下して橘宿禰のち橘朝臣姓となる。敏達天皇の後裔で、大宰帥・美努王の子。 母は橘三千代で、光明子(光明皇后)は異父妹にあたる。官位は正一位・左大臣。井手左大臣または西院大臣と号する。初代橘氏長者。
改名    葛城王→橘諸兄
氏族    橘朝臣
父母    父:美努王、母:橘三千代
兄弟    諸兄、佐為、牟漏女王
妻    藤原多比能(藤原不比等の娘)
子    奈良麻呂、照夜の前
特記事項 初代橘氏長者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

 

 

■牛島の祖

牛島の祖は、遡ること飛鳥時代、第30代敏達(びだつ)天皇その5代目子孫 葛城王が、45代聖武天皇より天平8年(736年)「橘」姓 氏 苗字を賜り、「橘(たちばな)家」として始まった。 賜姓皇族。弟の佐為王と共に母・橘三千代の氏姓である橘宿禰姓を継ぐことを願い許可され、以後葛城王は、橘諸兄と名乗る。

その後1122年、橘家は74代鳥羽天皇にそれまでの勤労を認められて、「公」を賜り、名前に「公」という字を使うことを許された。以後代々、橘家では実名に「公」という字を入れるようになった。

1237年「牛島」氏誕生





<引用文献>

C⇒公長┬公忠
        ├公業┬公益───公瞭──┬公景───公定
        ├惟廣│                    └公村──┬公宗
        ├公高│                              ├公弘
        ├公仲│                             ├公康───公勝
        └公久│                                   └公平
                ├公眞───公政──┬公則───公信
                 │                 ├公親
            │                  └公清──┬公秀
           │                              ├公元
            │                             ├大進房
            │                                            └公晴
            ├薬上助局─景行───盛景──┬盛行
            ├公行───公持──┬木崎公方├盛俊
            │            │        └盛業
            │           └女────公氏
           ├公基──公時───公宗
          ├公友──公重───公時──┬公仲──┬公通───公勝
          │                                       ├公厚    └公名───公久
          │             ├公俊───公範───公廣
          │             ├公高───公時
          │             └公政
          ├公俊─┬公季──┬公秀───公春
          │        │        └公則
          │        └公澄───公宜
          ├公義─┬渋江公村───┬公遠┬公經─┬公重
         │       ├牛島公茂⇒Dへ └公多│      └大崎公次─公安
         │       ├中村公光            └上村公行─公直
         │       └中橋時成─公幸─公森─┬牛島公弘─公隆
         ├公員─┬公綱─┬公氏         ├公景─┬公玄──公成
         │          │        ├公能            │      └秋通
         │        │         └公資         └公通───公友
         │       ├公持─┬公政─公家
         │       ├衆妙 ├公連
         │       ├公兼 └公明─公重
         │       └公澄─┬公勝
         │               └妙器─公貞
         └公春──公久──久待
※公業=小鹿島公業
 

D⇒牛島公茂─┬公有─公俊─公貞─公雄─公常
             └公幸─公森─公弘─公隆

 

<歴代牛島氏の祖々、鎌倉~南北朝~室町~戦国~安土桃山~江戸時代>

1151 牛島太郎三郎教生
1198 牛島刑部助公ギョウブノスケキミ建久九年
※1200~1400※
1406 牛島《房童》ボウドウ丸応永十ニ年
1455 牛島《公代》キミシロ亨徳キョウトク四年
1532~1555牛島彦五郎公俊 肥前牛島氏の流れを汲む天文年間19年か20年~
   三十四代の末裔牛島《公》キミ友
   三十五代牛嶋喜衛門王公照
   三十六代牛島《公忠》キミタダ
1550 三十八代牛島俊正《俊政》《牛島三郎左衛門尉俊政》が天文十九年
   牛島公友 俊正より四代前の公友 河内牛島では最も古い
1568 牛嶋義続(継?)
1570 牛島下野守しもつけのかみ元亀元年今山合戦
1570~1573俊政の子・彦五郎公俊は(元亀1570天正1573の頃)
1571 牛嶋三郎左衛門橘公俊(彦五郎、三郎左衛門)元亀2年
1579 牛島兵部允天正七年 
15??~1579牛島金助
15??~15??牛嶋藤左衛門
1584 牛島新右衛門、牛島太郎三郎 天正十二年島原沖田畷の合戦
1587 牛嶋《下野守》しもつけのかみ橘公秀の次男藤七郎天正十五年当国に下着
1587 牛島《籐七》とうしち橘藤七郎公綱 天正十五年 鍋島《直茂》なおしげ家臣
1587 牛島金助(天正15年)
1592 牛島清右衛門屋敷なり清右衛門35才朝鮮往く、文禄慶長役1592年4月~1598年 
1588 牛嶋《藤》トウ左衛門 天正十六年
1588 牛島直吉 筑後将士軍談に牛島系図 上妻郡津江つのえ村百姓牛島直吉家記あり
1588 牛島蔵人丞 筑後将士軍談(矢野一貞)より
※1600~※
1646 牛島市郎右衛門
1700 牛嶋源蔵(出家) 牛島源蔵《一》カズ仲
1716 牛島久次兵衛 聞書第七18(江戸前期~中期武士道論書 初版発行:1716年)
1716 牛島新助  聞書第七37(江戸前期~中期武士道論書 初版発行:1716年)
1730 牛嶋新五郎(一刺剃髪)
1734 牛嶋衛門《公續》キミツグ享保十九年
1771 牛島五左衛門(南東30-8)
1791 牛嶋貫太(南東30-16)
1791 牛嶋平太(南東30-17)
1791 牛嶋忠助(南東65-66)
1791 牛嶋五一郎(南東60-3)
1801 牛嶋幸右衛門(病死) 牛島才助
1802 牛嶋公節
1803 牛嶋宇助(病死) 牛島杢弥
1804 牛嶋忠次郎(津波溺死)
1805 牛嶋三郎左衛門 牛島才助 牛嶋幸七
1806 牛嶋庄左衛門(病死) 牛島惣右衛門
1809 牛嶋忠次郎
1810 牛嶋三郎左衛門 牛島三郎助
1813 牛島杢弥
1813 牛島杢弥
1814 牛島杢弥(御役御免)
1817 牛島三郎助 牛島文喜
1821 牛嶋徳左衛門
1821 牛島彦五郎
1821 牛島五一郎
1821 牛島市郎左衛門
1828 牛嶋善八(病死) 牛島廣喜
1829 牛嶋忠次郎(病死) 牛島平三郎
1829 牛島杢弥
1829 牛嶋徳左衛門(病死) 牛島徳次
1829 牛嶋善三郎
1832 牛嶋善八
1832 牛嶋軍平
1832 牛嶋太右衛門
1835 牛島宇平太
1836 牛嶋太右衛門
1836 牛嶋忠五郎(病死) 牛嶋大吉
1836 牛嶋九郎左衛門
1837 牛島市郎次
1837 牛嶋太右衛門
1839 牛嶋九郎左衛門
1839 牛島杢弥(隠居) 牛嶋喜右衛門
1839 牛嶋惣右衛門(病死) 牛嶋鷹次
1840 牛嶋太右衛門
1841 牛嶋五左衛門
1841 牛嶋軍平(病死) 牛嶋新三郎
1842 牛嶋太右衛門
1843 牛嶋淳之助
1843 牛嶋寿助
1843 牛嶋淳之助
1845 牛島清左衛門
1848 牛嶋太右衛門(御役御免)
●1848●牛嶋治太郎
1849 牛嶋文蔵
1849 牛嶋兎角
1850 牛嶋文蔵
1851 牛嶋善三郎(相果) 牛嶋嘉一郎
1851 牛嶋徳次
1851 牛嶋才助(病死) 牛嶋圧蔵
1851 牛嶋惣吉
1852 牛嶋惣吉(病死) 牛嶋炮(ほう)左衛門
1854 牛島武富
1861 牛島清右衛門

 

 

 

<引用文献>

・肥後翁のblog肥後山上三名字、牛島氏は橘氏の末裔

 

・熊本大学附属図書館
十九世紀熊本藩住民評価・褒賞記録「町在」解析目録
https://www.lib.kumamoto-u.ac.jp/local/eisei2/

 

・肥前佐賀武富一族
http://www.bbweb-arena.com/users/takedomi/

 

・肥後細川藩拾遺
http://www.shinshindoh.com/

 

 

 

≪橘氏系図≫

国立国会図書館デジタルコレクション
タイトル:群書類従. 第四輯
著者:塙保己一 編

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879724/117



 

 

≪橘氏≫

国立国会図書館デジタルコレクション
タイトル:系図綱要
著者:太田亮 著
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971961/121



 

 

≪橘 タチバナ≫

国立国会図書館デジタルコレクション
タイトル:姓氏家系大辞典. 第4巻
著者:太田亮 著
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123910/51

 


 

≪牛嶋 ウシジマ ウシノシマ≫

国立国会図書館デジタルコレクション
タイトル:姓氏家系大辞典. 第1巻
著者:太田亮 著
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1130845/397

 

 

 

≪牛島系図≫

国立国会図書館デジタルコレクション
タイトル:筑後国史. 中巻
著者:矢野一貞 著[他]
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1175327/87

 

 

 

≪牛嶋≫
国立国会図書館デジタルコレクション
タイトル:阿波国徴古雑抄 故城記
著者:小杉榲邨 編
出版者:日本歴史地理学会
出版年月日:1913
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1918662/152

 

 

 

東京国立博物館デジタルライブラリー
webarchives.tnm.jp/dlib/search
https://webarchives.tnm.jp/dlib/search?q=%E7%AD%91%E5%BE%8C&title=&creator=&type=&_illustrated=on

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

時代の出来事と橘氏末裔子孫~牛島一門への継承

従兄弟(いとこ)、親戚たちも登場します古書来歴、文献です。

家系図作りの時代背景

 

 

■弥生時代

239年

卑弥呼が魏に使いを送る

 

 

■古墳時代

538年

仏教伝来

 

 

■飛鳥時代

587年7月

丁未の乱(ていびのらん)
蘇我氏と物部氏の対立は仏教をめぐっての政権争い

丁未の変、丁未の役、物部守屋の変ともいう。物部氏が滅ぼされた。

⇒物部氏の滅亡

<引用文献>
・刀剣ワールド丁未の乱古戦場
https://www.touken-world.jp/dtl/teibi/
・紙幣になった【聖徳太子】は何をした人なのか歴史をわかりやすく学ぶ 日本紙幣サイト
https://nihonshihei.com/shoutokutaishi-matome/

・物部氏と蘇我氏 神さまとのご縁を感じ、感謝をして生きていく
https://ameblo.jp/mirisunsun/entry-12544563569.html

 

 

 

■飛鳥時代

593年

聖徳太子が摂政となる

600年

遣隋使・遣唐使

(600年頃から894年の約300年間、計23回)

604年

聖徳太子 十七条の憲法

引用文献:読売新聞オンライン

お札の顔」でおなじみだったが…聖徳太子の「素顔」今もナゾ : エンタメ・文化 : ニュース : 読売新聞オンライン

 

 

 

 

■飛鳥時代

643年11月

 蘇我入鹿が山背大兄王一族を滅ぼす。山背大兄王、斑鳩寺で自決する。

 

 

 

 

■飛鳥時代

645年大化元年
乙巳の変(いっし‐の‐へん)
蘇我入鹿が中大兄皇子に暗殺され、蘇我氏宗家が滅亡した事件。大化の改新の端緒となった。
大化の改新
大化元年(645)から翌年にかけて中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)・中臣鎌足(なかとみのかまたり)が中心となって行った、蘇我氏打倒に始まる一連の政治改革。 唐の律令制を手本として、公地公民制による中央集権国家建設を目的としたもの。

⇒蘇我氏の滅亡

引用文献:

NHK中大兄皇子・中臣鎌足~大化の改新・天皇中心の国づくり~ | 歴史にドキリ | NHK for School

 

 

 

 

■平安時代

敏達天皇┬難波皇子・・・橘諸兄・・・「牛島公茂」・・・・・
      ├春日皇子─「小野妹子」─毛人─毛野─永見─「小野小町」・・・・・

      小野妹子                   小野小町

 

 

清少納言
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
清少納言
活動期間990年代-1000年代
代表作    『枕草子』
配偶者    橘則光
子供    橘則長
清少納言(せい しょうなごん、旧字体:淸𣥂納言、康保3年頃〈966年頃〉 - 万寿2年頃〈1025年頃〉)は、平安時代中期の女流作家、歌人。随筆『枕草子』は平安文学の代表作の一つ。

 

 

 

 

■平安時代

源平合戦

「源平合戦」とは、狭義では1180年(治承4年)~1185年(元暦2年)の「治承寿永の乱」を指し、広義では、1156年(保元元年)の「保元の乱」から1192年(建久3年)の源頼朝の征夷大将軍就任までを指します。具体的には、源氏が歴史に登場し、鎌倉幕府を開いて武士の頂点に上り詰めるまでです。
「保元の乱・平治の乱」とは、この源平合戦へと繋がるきっかけとなった平安時代の2つの争いのこと。源義朝や平清盛といった武家が政界へ進出することになったのが1156年に起こった「保元の乱」で、保元の乱の勝者である源義朝と平清盛が争い、平家が源氏を倒したのが1159年に起こった「平治の乱」です。こちらでは、源平合戦を語る上でかかせない重要な戦いである。
平清盛

治承・寿永の乱

橘公業は源氏に加勢

⇒平氏の滅亡

 

 

 

 

古事記

引用文献:ウィキペディア 古事記 - Wikipedia

 

 

 

 

日本書記

引用文献:ウィキペディア 日本書記 - Wikipedia

 

 

 

 

吾妻鏡

引用文献:ウィキペディア 吾妻鏡 - Wikipedia

 

 

 

 

 

■鎌倉幕府 源頼朝公

奥州合戦 藤原征伐

橘公業、橘公員 藤原追付

⇒藤原氏の滅亡

橘氏の本貫の地は、伊予国宇和郡であり、平氏の御家人になって五年ほどしか経っていない。橘公業は公長の二男である。宇和郡は宇和海に面し四国・九州間の海峡に日振島がある。橘氏は伊予灘から豊後水道にかけて活動する海賊(水軍)で、一定の海上支配権をにぎっていた。

橘氏は宇和郡の平氏の荘園を預っていて、平清盛の四男権中納官知盛の家人にもなっていた。また平氏の水軍としても活躍していたが 源平争乱の中で平氏不利とさとった公長は、嫡男公忠と公業を連れて鎌倉までおもむき、源頼朝の御家人になるという離れ業を演じた 。水軍が手薄な頼朝は、よろこんで家人に加えた。新しい戦力であることの外に、平知盛の家人として都で生活し、 朝廷に対する儀礼やしきたりを知っている橘氏親子の使い道は、武骨で無智な関東武士と異なり貴重な存在と思われたのである。

公業親子は・公忠・公長。頼朝の側近となったらしく「吾妻鏡」にそれを裏付ける記事がしばしば見られる。

秋田郡・男鹿島の地頭となった橘公業は、伊予国宇和郡から日本海にまわり北上して男鹿までやってきたのだろうか。水軍を率いてやってきた公業は、理想的な海域である脇本城に入ったものであろう。

源義経を迎える準備をしていたと思われるが、鎌倉の軍事力にはとても立ち向かえな、そして義経がいなくなっては奥州藤原氏が滅亡するのは確実であった。

この頃、橘公業が秋田郡・男鹿島の地頭となった後の動向などが「吾妻鏡」にある。
「吾妻鏡」
文治五(一一八九)年九月二〇日
文治六(一一九〇)年一月一八日、一九日、二七日
<引用文献>

国立国会図書館デジタルコレクション
五城目町史デジタルデータ2
五城目町史-古代OL.indd

なるほど! 歴史ミステリー

 

日本史【平安~鎌倉】奥州合戦 義経の最期、源頼朝の政治と鎌倉幕府の仕組み「早わかり歴史授業20」
66,841 回視聴2020/07/02

 

 

 

 

■室町幕府

室町幕府は、1338年(暦応元年)に、「足利尊氏」(あしかがたかうじ)によって京都に樹立された武家政権です。鎌倉幕府の政策を踏襲しつつ、各国の支配を一任した守護大名の設置や、明(現在の中国)との日明貿易などにより、3代将軍「足利義満」(あしかがよしみつ)の時代に最盛期を迎えます。
⇒源氏の滅亡

<引用文献>
室町幕府の機構 - 歴史まとめ.net
https://rekishi-memo.net/muromachijidai/muromachibakufu_kikou.html
 

 

 

 

■橘公業 四国 伊予へ

橘公員 文治5年(1189)九州肥後(久留米)へ⇒嘉禎二年(1236)肥前長島庄へ

 

 

 

 

■豊臣秀吉の中国攻め文禄元年(1592)

橘公師 朝鮮出兵

引用文献:ウィキペディア 文禄・慶長の役 - Wikipedia

 

 

 

 

 

■関ヶ原の合戦

 

 

 

 

 

■大阪の陣 慶長十九(1614)年

橘公茂・橘公延は大坂の陣に際して、大阪方に加わったが、落城ののち肥前に帰った。

参考文献:ウィキペディア 大坂の陣 - Wikipedia

 

 

 

 

■楠木正成
くすのき まさしげ

楠木氏の出自について太平記には「敏達天王四代の孫、井出左大臣橘諸兄公の後胤たりといえども民間に下って年久し」の記述があり、正成、嫡男正行(まさつら)それぞれ橘朝臣正成、左衛門少尉橘正行と自署したものが残っている。正成は、橘氏後裔。大局観を持つ戦略家であり、優れた戦術家でもあった。


楠木 正成は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。息子に正行、正時、正儀。 元弘の乱で後醍醐天皇を奉じ、大塔宮護良親王と連携して、千早城の戦いで大規模な幕軍を千早城に引きつけて日本全土で反乱を誘発させることによって、鎌倉幕府打倒に貢献した。 ウィキペディア
生年月日: 1294年
出生地: 河内国
死亡日: 1336年7月5日, 兵庫県 神戸市 中央区
埋葬地: 大阪府 河内長野市 観心寺
子女: 楠木正行、 楠木正儀、 楠木正時
孫: 楠木正勝、 楠木正秀、 津田正信、 楠木正元
兄弟姉妹: 楠木正季

<引用文献>

刀剣の専門サイト・バーチャル刀剣博物館「刀剣ワールド」
刀剣ワールド 楠木正成と刀
https://www.touken-world.jp/tips/44317/
https://www.touken-world.jp

 

 

 

 

■豊前中津藩 慶應大学 福沢諭吉

中津藩の下級武士、福澤百助の次男として大阪で生まれた福澤諭吉

天保5年12月12日〈1835年1月10日〉、諭吉は中津藩士福澤百助の末の子として誕生しました。下級武士であった百助は身分こそ低いものの、大変な学識の持ち主でした。

参考文献:ウィキペディア 福沢諭吉 - Wikipedia

 

 

 

 

■肥前 佐賀 早稲田大学 大隈重信 第8・17代内閣総理大臣

参考文献:ウィキペディア 大隈重信 - Wikipedia

 

 

 

 

 

賜姓皇族 源氏・平氏・橘氏の誕生秘話

 

 

 

 

■賜姓皇族 誕生秘話その1
天皇家には姓も名字もありません。従って、天皇家から分家して一家を興す際には、天皇から新しい姓を賜って独立しました。これを賜姓皇族(しせいこうぞく)といいます。「源」「平」「藤」「橘」などが有名ですが、他にも「清原」「在原」「高階」など、いくつかあります。
江戸時代以前は、家を継がない皇族は分家せずに僧籍に入るのが一般的でした。しかし、明治以降は宮家の分家は新しく家を興すことになりました。こうして戦前に新たに12家が新名字で創立されました。さらに、戦後にはGHQの指令で、今度は11家の宮家そのものが皇族を離れ、新しい名字をつくっています。



■賜姓皇族 誕生秘話その2
天皇が皇族,貴族,武士などの功績に対して姓を賜うこと。古代からあったと思われ,平安時代には盛んに行われた。特に,姓を与えられて臣籍に下った皇族を賜姓皇族と呼び,後世,公家あるいは武士として発展した。
古代~近世の律令においては4世王までは皇親となり、5世王は皇親とはならないものの王号を有し従五位下の蔭位を受け、6世王は王号を得られないものとされた。そのため、歴代天皇から一定の距離を経た者は臣籍に入るものとされた。



■賜姓皇族 誕生秘話その3 源平藤橘のルーツ
「源氏」は、第52代嵯峨天皇「皇子」の源信、源融が、斉衡3(856)年に「源」の姓を賜わり(賜姓源氏)⇒「嵯峨源氏」となる。
「平氏」は、第50代桓武天皇「皇孫」の高棟王が、天長2(825)年に「平」の姓を賜わり(賜姓平氏)⇒「平高棟」「桓武平氏」となる。
「藤原氏」は、第38第天智天皇より、中臣鎌足の臨終 天智8(669)年10月15日に際して大織冠とともに「藤原」姓を賜った。そして鎌足の子の不比等(659~720)に受け継がれた。

「橘氏」は、第45代聖武天皇より、第30代敏達天皇「皇子孫5代目末裔」の葛城王が、天平8(736)年に「橘」の姓を賜わり(賜姓橘氏)⇒「橘諸兄公」となる。




■賜姓皇族 誕生秘話その4
奈良時代の皇統(天皇の血筋)を教訓として、平安時代には安定した皇位継承のため、多くの皇子をもうけることがよく行われた。しかし、実際に皇位継承できる皇子はごく少数に限られ、平安前期から中期にかけて、皇位継承の道を閉ざされた皇族が多数発生することとなった。
これらの皇親に対しても律令の定めにより一定の所得が与えられることで財政を圧迫する要因となったため、皇位継承の可能性がなくなった皇親たちに姓を与えて臣籍降下させる皇親賜姓(こうしんしせい)が行われるようになった。
特に桓武天皇は一世皇親3名を含む100名余りに対して姓を与えて臣籍降下を行った。嵯峨天皇も多くの子女を儲けたが、父の例に倣って多くの子女に対して皇親賜姓を行った。
また、この頃になると、皇族が就任できる官職が限定的になり、安定した収入を得ることが困難になったため、臣籍降下によってその制約を無くした方が生活が安定するという判断から皇族側から臣籍降下を申し出る例もあった。

 

(1)賜姓とは何か?
皇室には常に複数の分家が存在します。しかし全員が皇族の身分のままですと、財政の負担が増大して来るのは必定。そこで皇籍を離脱、すなわち臣籍降下(しんせきこうか)して頂く事がどうしても必要なのです。

ところが該当者は天皇から臣下に必ず与えられているはずの「姓」(古代においては、正確には「氏」と「姓」)を有していません。なぜならば皇族には姓が無いのが建前だからです。(もしも姓が有れば、その姓は誰から授かったものなのか・・・という話になりますので。)

こういった事から、臣籍降下の際には新たに「姓(氏)」が与えられました。「皇別」の氏族はそれに該当する訳で、例えば橘(第30代敏達天皇末裔)、清原(第40代天武天皇末裔)の様に、個別に姓氏が与えられていました。
 

(2)源氏-個別の賜姓から一括賜姓へ。
ところが平安初期の嵯峨天皇(記紀52代、桓武天皇皇子)には皇子女が多く、財政などの理由でその多くを臣籍降下させる必要が有りました。この様な場合、個別の賜姓(2・3人程度の兄弟に同じ姓を与える場合は有りましたが・・・)は大変です。

そこで、一括して「源」の姓(正確には「源」の氏と「朝臣」の姓)を贈る事になりました。これが「源氏」の始まりで、818年の源信(みなもとのまこと)らが初例です。

そして、中国古典による『皇室と血筋の「源」を同じくする』というネーミングからか、嵯峨天皇以降も臣籍降下の際に源が贈られる場合が続出しました。ただ、同じ源氏でも系統によって繁栄・没落の程度は様々。没落した系統の方が圧倒的に多かったのも事実です。

その中でも記紀56代清和天皇を祖とする「清和源氏」が武門で活躍。源頼朝や足利尊氏が幕府を創成するなどの圧倒的な繁栄を示したため、「源氏」といえば清和源氏を指す場合が多いと言う訳です。
 

(3)平氏の起こり
源氏の他に賜姓皇族として有名なのは平氏でしょう。
825年に葛原(かずらわら・かつらはら)親王という皇族が兄の嵯峨天皇に「子女に平(たいら)の姓を称させて下さい。」と上奏した事に始まります。
初例は親王の子である高棟王。桓武天皇の孫という事で、「桓武平氏」と呼ばれる家系です。
嫡流は中流貴族、そして高棟の弟の系統は武門で活躍しました。後者は平清盛が有名ですね。
 

(4)源氏と平氏の区別
平氏にも幾つかの家系が有ります(桓武・仁明・文徳・光孝の各平氏)が、四人の天皇のうちでは桓武天皇以外の天皇の末裔に「源姓」が与えられている場合があります。すなわち、「源姓」か「平姓」のどちらか一方という訳です。
「源姓」を与えられる場合と「平姓」を与えられる場合・・・両者の違いは何なのでしょうか?
源氏の起こり・・・52代嵯峨天皇「皇子」の源信、源融
平氏の起こり・・・50代桓武天皇「皇孫」の平高棟
こういった先例からか、源氏は皇子か皇孫(1・2世王)、平氏は2世王以降で臣籍降下した場合に与えられるというガイドラインが当時は有った様です。
実のところ、賜姓皇族の官位の推移などを見てみても、どうやら「早い世代」で臣籍降下した方が「没落の度合い」が小さい様です。
これが源氏がどんどん増えていく一方で「平」の賜姓が先細りになった理由かもしれません。「源」の賜姓は江戸時代初期まで続きます。
 

 

 

<引用文献>

日本人の名字
姓氏研究家・森岡浩先生の運営するサイトです
https://office-morioka.com/myoji/shurui1.html
コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E8%B3%9C%E5%A7%93%E7%9A%87%E6%97%8F-1330705
Prof_Hiroyukiの語学・検定・歴史談義
歴史用語の基礎(第12回:賜姓皇族-源氏と平氏)
https://ameblo.jp/prof-hiroyuki/entry-10660628752.html

 

 

 

Weblio辞書 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
(2021/06/06 03:55 UTC 版)
https://www.weblio.jp/content/%E7%9A%87%E8%A6%AA%E8%B3%9C%E5%A7%93
臣籍降下(しんせきこうか)は、皇族がその身分を離れ、姓を与えられ臣下の籍に降りることをいう。賜姓降下(しせいこうか)とも言い、そのような(広義における)皇族を俗に賜姓皇族という。皇族女子が臣下に嫁すことで皇族でなくなる場合は臣籍降嫁(しんせきこうか)とも言う。また日本国憲法施行後は皇籍離脱(こうせきりだつ)の語も用いられる。

 

 

 

 

 

尊卑分脈

源・平・藤原・橘氏系図

 

引用文献

名字・名前・家系図/家紋ニュース

 

 

 

 

 

日本古典籍ビューア
尊卑分脈
http://codh.rois.ac.jp/iiif/iiif-curation-viewer/index.html?pages=200018797&lang=ja




Japan Search
尊卑分脈
https://jpsearch.go.jp/item/dignl-1182864





国立国会図書館デジタルコレクション
新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集
著者:藤原公定 撰
出版者:吉川弘文館
出版年月日:1903-1904
新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 第1巻
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991583

新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 第2巻
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991584
新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 第3巻
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991585
新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 第4巻
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991586
新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 第5巻
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991587
新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 第6巻
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991588
新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 第7巻
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991589
新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 第8-9巻
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991590/2
新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 第10-11巻
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991591/2
新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 第12-14巻
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991592/2
新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 第15-18巻
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991593/2
新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 第19-20巻
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991594/2
新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 索引
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991595

 


 

 

源平藤橘(四姓)という呼称がはじめて確認できるのは、平安時代~鎌倉時代初期の正治2年(1200年)頃に平基親という貴族(公卿)によって書かれた『官職秘抄(かんしょくひしょう)』有職故実の解説書。全2巻。
平安時代に源清蔭・平伊望・藤原忠平・橘公頼が同時に朝廷の要職に選ばれた後に、この四姓の貴族としての伝統的な勢力の大きさによって定着した呼称だとする説が有力です。
国立国会図書館デジタルコレクション
永続的識別子:info:ndljp/pid/2532238
タイトル:官職秘抄
著者:平基親 編
出版者:写
出版年月日:[室町末期]
請求記号:WA16-35

官職秘抄(かんしょくひしょう)

 

 


 

 

 

 

 

尊卑分脈

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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尊卑分脈』(そんぴぶんみゃく、異体字で『尊卑分脉』とも)は、日本の初期の系図集。正式名称は『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集』(しんぺん さんず ほんちょう そんぴぶんみゃく けいふざつるい ようしゅう、旧字体:新編纂圖本朝尊卑分脈系譜雜類要集[1])、また『諸家大系図』(しょか だいけいず)あるいは単に『大系図』(だいけいず)とも呼ばれる。

 

 

全国に広がる橘氏

1コトバンク

 

 

 

 

文化勲章の花として橘

橘の花は、文学や芸能で優れた功績を残した人におくられる「文化勲章」に使用されていることで知られています。もともとは桜の花が使用される予定でしたが、昭和天皇の意向により差し替えられました。

理由は「桜は葉も華も散ることが武将の潔さを表すものとして使用されてきた。しかし、橘の葉は季節にかかわらず多い繁っていることから、永遠を意味する。文化勲章は永遠のものなので、橘の方がふさわしいのでは」とのこと。

これにより、文化勲章には橘の花が使用されるようになったのです。

 

 

内閣府 文化勲章

画像:文化勲章・略綬

 

[引用元]