サイコパス(ヒト型ハ虫類)の言動に日夜苦しむあなたが、「人生の執事」により、角を曲がったところで待つ素敵な出会いを楽しむまでに。

サイコパス(ヒト型ハ虫類)の言動に日夜苦しむあなたが、「人生の執事」により、角を曲がったところで待つ素敵な出会いを楽しむまでに。

会った後、整理しがたい不快感や罪悪感を残すサイコパス同僚に、日々理不尽な思いをさせられ、自信を失い、仕事もミスが目立っていた人が、「人生の執事」を用立てることで、1ヶ月で蘇生し、そこの角を曲がったところで待っている素敵な出会い、に遭遇する毎日を送ります。

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懐中温泉です。

本ブログをご訪問いただき
心より感謝いたします。


教えてください。

もしもあなたが理不尽な苦しみを
覚えているのなら。

もしもあなたが、かつての私と同じような
状態にあるのなら。

・・・
その頃の私は、
あなたとまったく同じ出発点にあったと
言えます。

サイコパス、
すなわち良心のない人は
最近の研究では100人に4人はいる
とされています。

25人に1人ですね。

遺伝によるものでもなく、
突然変異のようにして
現れる存在です。

私は一種の先祖返り
ではないかと見ています。

そして、この場合の先祖とは、
ほ乳類の先祖であるハ虫類です。


あらかじめお伝えして
おきたいことがあります。


ここでいうサイコパスとは
専門家の診断を待って
そのように呼び称するのが本来でしょう。

しかし、ここでは、
もしも現在、あなたの身の回りに、
私自身が遭遇したような存在がいるのだとしたら、
まずは応急処置および予防措置が必要と考えます。


措置を施した上で、あなたの安全を確保してから
です。

そして、あなた自身の潜在能力を高め、
そうした存在を副次的なものとして、
時間の経過とともに洗い流してしまう

そのときまで、
サイコパスとして一定距離を
保つのが良いと考えます。

野良犬に噛まれてから
その野良犬が狂犬であったか
心配するのではなく、
まず噛まれないことが大事です。

すなわち、その存在が本当に
サイコパスかどうかは、あなたが
言いようのない違和感を感じるのでありさえすれば、
そうだと見なしてよいのです。

私はあなたの味方です。

あなたが感じる違和感を
少なくとも私も感じていたので、
それで十分です。


その人物に会い、
なんらかの会話をし、
その後、なんだか不快な感じ、
あるいはうまく整理できない

やはり違和感というのが
いいと思いますが、
そうした混濁した感覚が残るのです。

もちろん、人間は誰しも
完璧ではありません。

だから、いいところも悪いところもあり、
また善意を抱くことも
悪意を抱くこともあるでしょう。

また、相性というものもあり、
うまが合う、とか、
なんとなく苦手とか
そうしたことも往々にしてあります。

だから、好意を抱くでしょうし、
嫌悪感を抱く場合もあるでしょう。


実のところ、このように内省すること
は良心のはたらきであり、
サイコパスは、まさにこの
われわれの良心につけこむのです。

このような内省がひるみとなり、
一瞬のスキとなり、そこを
攻撃してくるのです。

サイコパスの前には
良心を働かせるとは
こちらの対抗力の減退、すなわち
弱い、ということを意味します。

ハ虫類の世界は
弱肉強食だからです。


それだけです。


だからこそ、
あなたと私にとって問題にすべき
サイコパス

(今後、この言葉を用いるときは
常に、この「あなたと私にとって」と
いう文言がついている、ということを
覚えていて下さい)

は、次元が違うのです。


誰でも、
悪意があって悪意を抱くのではない
ものです。

しかし、サイコパスは
悪意があって悪意を抱きます。

そういう生き物なのです。


ハ虫類がそのまま進化して
人間の形をしている存在だと思って
サイコパスを観察すると
こちらは迷わなくなります。

こちらの迷い、
それがたとえ良心に由来するものであっても
その迷いは、サイコパスには弱みとして
しか映らないのです。


私の場合には、同僚として現れました。

おしなげてサイコパスは
ぱっと見、素朴な感じで
なにか懐かしささえ抱きます。

ハ虫類は、進化論上、
ほ乳類の先祖ですから
どこか懐かしさを覚えるのは
当然です。

また、どこかポツンと
1人でいる、という印象があり、
それは年配の人が感じたりする
ようです。


しかし、サイコパスは
まずこの「同情」してもらう
ことが、いわば獲物を引き寄せる
強力な武器なのです。

したがって、同情心の強い
心優しき人々はそのまま
サイコパスの餌食となります。


今思えば、勤務先に今度新たに
配属されることになり、
同じ部署の人間が集まり、
紹介されたときから、違和感がありました。

私は彼と同格ながら先輩筋にあたり、
その後、彼の面倒を見る立場に
あったのです。

ところが、彼は、上司には、
いかにも素朴な好人物として挨拶し、
懇ろ(ねんごろ)なのですが、
同格の者には、いかにもおざなりに対しました。

そして格下・年下の人間には
横柄です。


絵に描いたような、というのは
サイコパスの行動パターン
のために言い表されたような言葉です。

自分がどう振る舞っているのかを
客観視できないのでしょう。


そこらへんがハ虫類だというのです。

いや、ハ虫類のような行動パターンを
とる人でも悪意のない人も沢山いますので、
そうした人すべてがサイコパス
というわけではないのです。

だからこそ混乱するのですが。


まず、目を合わせません。

とくに次第に露わになりますが、
私に対しては、目をあわせるべき局面でも
首を左右に振り動かして、
目を合わせようとしないのです。


ここでも、正視恐怖症という言葉も
あるくらいです。

コミュニケーション能力の発達の遅れか
なんらかの障害で目を合わせられない人が
皆サイコパスだというわけでもないのです。

矛盾するようですが、
サイコパスの強力な武器の1つは、
邪視(じゃし)です。

ここが違います。

しかし、その邪視も、
注意をそらされてしまうと
無効です。


そして、なぜか自分が
見られているとは思わないので、
見られていると知ると、これまた
漫画のような反応で慌てます。


また、原因はわかりませんが、
神社のお札で神爾(しんじ)という
万能の札を求めて、オフィスに入り口に向けて
物陰に置いたところ、彼は寄りつきませんでした。


どうやら白日の下に、
自分の行動が見られている
という状況を、そのときまで
思いつかないようなのです。

したがって、こちらが
いつも心に太陽を、
という態度でいるのは
とにかく苦手のようです。


私が遭遇した試練について
お話しすることは、あなたが遭遇している
ことがあなただけに起きていることではない

そして、あなたの落ち度ではない、
ということを確認してもらう

そのためにあえてお伝えします。


サイコパスという概念は知りませんでしたが
わだかまりとして残る違和感を覚える存在。


会っているときの息苦しさと、
会った後の疲労感。


勝ち負けに異様にこだわる。

自慢と見下し。

あるのは上下関係のみ。


こちらの落ち度を目ざとく見つける。

それを指摘し、こちらの痛点として
短いながらも痛烈な言葉を
絶妙のタイミングで投げかける。


共感はなく、同情を装った軽侮。

何か常にこちらが至らない存在である
と感じさせる。

圧迫感。

こちらの落ち度を
常に許して貰っているかのような
罪悪感。


競争と支配のみの世界
がそこにはあります。

幸い、私は過去にもそういう存在に
遭遇した経験がありました。

そういうときには、
常に、なるべく早い段階で、できれば
最初から、強く出ること


これで、関係が決まるので、
あとはそのまま距離間が
保たれます。

また、この場合もそうですが、
立場的に上だったり、先輩筋
であるために、形式上とりあえずの
関係が保たれます。

ただ、この場合には、彼は、
組織内での彼の支配を確立するために、
障害となるのは
私だと見なしたのでした。

私は、とりあえず彼と同じ大学で
先輩筋にあたり、年長で、
しかも、彼にとっては「使いにくい」
存在だったからです。


サイコパスは、
彼もしくは彼女の過去を
よく知る年長者を嫌います。

本質的に
「上」
だからですね。

そういう年長者には、通常なら
尊敬と親しみを持って接する
はずですが、上っ面な自慢と
自己弁護で終始するのです。


サイコパスにとって、つきあいとは、
利用できるまでのつきあいであり、
利用できなくなれば、そのまま
関係を切ります。

あさましい
人間として恥ずかしい

そのようには感じないのです。


私自身、仕事が重なり、
その分ミスなども起こり、それを
彼はまさに鬼の首でもとったかの
ごとくに攻めるようになりました。

ちょうど、私と同期の同僚とが、
昇進の時期にさしかかっていました。

本人同士は仲良くしていましたし、
今でも親交が続いています。

ですが、
どちらが先に昇進するか、という
ように周囲は見るようになりました。

とくに、そうした競争に敏感な
サイコパスの彼は、今にして思えば
同期の同僚を使って、私の追い落としを
図っていたようです。


私の落ち度はごくささいなものだったのですが
ことある毎にそのミスについての警句を
人の集まる会合などで、言い放ちます。

また、ゴシップを配下の人間に集めさせ
周囲の人々の弱みを握ったとして、
すべて批判的に話題としてとりあげ、
おもしろがる人々を引きつけていきました。

一時期、私は、私の身近な同僚が発する、
次はどんなミスをするのか、という視線で
囲まれていることに気づきました。

もう1つミスを起こすと、昇進にも
響いたのかもしれません。


とはいえ、昇進自体は
私は雑務が増える
ために望んでいませんでした。


しかし、サイコパスの彼にとっては
同格である私が彼の上司になることに
なるので、阻止したかったものと
思います。

代わりにより御しやすい
私の同期の同僚の昇進を
望んでいたと考えます。

まったく気づきませんでしたが。


このようにしてじわじわと
私は悪意の視線による結界(けっかい)
に追い込まれていたのです。

結界とは、多数の人間により
囲まれ、身動きできないように
され、動けば攻撃されることを
覚悟しなければならない、というものです。

暗い冬を送りました。

が、春になり、イギリス留学中の指導教官であった先生が
引退して日本に招へいされて特別待遇外国人研究者として
しばらく滞在することになり、私はそのお世話に忙殺される
ようになりました。

注意は先生のお世話にのみ向けるように
なったのです。

それは、私への結界が解かれる
きっかけともなったのです。


また、その先生と毎日のように接することで
私は、最高の存在にだけ目を向ける
という姿勢を学びました。

もちろん、まだ潜在意識の活用
などというところまでは十分意識
してはいなかったのですが。

春から夏、と過ぎ、
その間、勢いがあり、
強い私と映ったのでしょう。

他方、
サイコパスの彼は私に近寄らず、
他の御しやすい相手を見つけ攻撃を
しかけていたようです。

その被害者は少しずつ
増えていました。

秋になり、同期の同僚が転任して
出ていくことになり、
同時に私の昇任が
決まりました。

その後、私とサイコパスの彼の関係は
上下に定まったので、彼は
形ながらも私を上司とたて、私も常に先生に学んだ
確たる姿勢を保つようにしていました。

やがてそれは習い性となり、
そのまま関係として定着しました。

しかし、彼は二度と私と視線を
あわせることはありませんでした。
首を左右に振って視線をあわせない、という
まさにハ虫類調のわかりやすい表し方です。

他方、小規模ながら、半独立のチームが
創設されることになり、彼がもっぱらその
創設の中心となったのです。

その人選には彼が扱いやすい人物ばかりが
選ばれ、もちろん私は入りませんでした。

私が入れば、当然そのチームの長として
おさまるようになったでしょうから。

私も彼と一緒にならず、
安堵していました。

かくして、私自身に限って言えば
サイコパスの邪視や結界から
免れることができたのです。

実は、私の仲の良い同期の同僚に替わって
赴任してきた人物は、もう1人の
サイコパスあるいは超ナルシストでした。

超ナルシストも、自分だけが
良ければいいという観点から
他者に対するので、サイコパスと
ほとんど変わりません。

他人は利用する価値のあるときだけ
利用する、
支配・被支配だけで動く人物でした。

したがってこちらの人物ももちろん難物でしたが、
私も、なんとなくそういう人物との距離の取り方
が身についてきたので、最初から
応対に迷うことはありませんでした。

幸い、その第2のサイコパスも、
私を先任として、形式的に
尊重する態度をとったので、
問題はなかったのです。

ところが、もともとのサイコパスの彼に
とっては、第2のサイコパスは
自分自身の鏡、もしくはパロディのように
感じられたのでしょう。

徹底的に嫌いました。

ハ虫類は、鏡に映るのが
好きではない

かどうかちょっとわかりませんが
サイコパスは嫌がるでしょう。

少なくとも自分の姿が客観的に
映じられる、眺められるというのは
嫌がるはずです。


私はこの2人の見えざる照応と
葛藤とを一定距離から眺めることに
なったのです。

サイコパス同士が互いに鏡の
ように互いを映じあう。

考えようによっては
極めて醜悪な情景です。


ぱっと思い浮かべたら、
すぐに頭から捨てて下さい。


あ、もう遅いですか(笑)

大丈夫です。

そう、もともと、
あなたは大丈夫なのです。

私の職場は、構成員の人数が
70名ほどで、サイコパスが
25名に1人いるのだとすると
3名いることになります。

見ていると、専門領域の違いで
職場全体での会合以外はほとんど
接触のない部署で、やはりサイコパス
としかいいようのない人物がいました。

しかし、この3者が三つどもえと
なることはありませんでした。

サイコパスは良心の欠落した、
ハ虫類から直接進化した人物、です。

そして、ハ虫類にもその能力において
個体差があります。

その能力は影響力のおよぶ範囲を
決定し、棲み分けをするのです。

そのため、通常ならお互いの縄張りを
保ち「平穏」に過ぎていくのでしょうが
私の部署の2人のサイコパスは
どうしても衝突が生じます。

彼らは、間接的に他の同僚を
利用して、互いに攻撃しあい
エネルギーを用いていました。


もちろん、私は距離を置いていましたが
巻き込まれた人々は、気の毒なくらい
消耗していました。

病気になり、長らく休暇をとる
人も出てきたほどです。


彼らの様子を一定距離から眺めて
いると、いくつかわかったことが
あります。

まず、ありがとう、など
感謝の言葉を言わない、
言ったとしてもきちんと言わない

すみません、ごめんなさいなど
謝罪の言葉も言わない。


基本的に
自分は悪くないという主張を
言い張ります。

すべての言動が批判的です。

そして、自慢を声高にします。

さらに

独創性に乏しいこと

それと関係するでしょうが
能力が高いはずだが、
ミスが多いこと

配下の人々に対しての
えこひいきが激しいこと

がこうしたことが挙げられます。


一般に人が生きていく上では、
1人では生きられません。

互いに助け合い、
されたら、お返しをする。

また、言葉は発すれば
すべて自分に返ってくる。

これが原則です。


常に人を批判する、
しかも相手によって態度を変える

こうしたことは
サイコパスでなくとも
するものです。

しかし、サイコパスとは、
生き方そのもの
が支配のための攻撃の連続
の存在です。


であれば、人間関係として
長続きしません。

事実、彼らは
持ち前の演技力と魅力により
その時々にずいぶん親しい「友人」が
できます。

しかし、まず、長続きしないのです。

まともな人間ではつきあいきれません。

また、利用するためだけであれば
利用したらポイ捨てをするか
されるかです。

同様の人間ばかりが集まって
そのようなことをし合うのです。

実に殺伐とした関係です。

貧しいのです。


顔もしたがって
だんだん悪相になっていきます。

よく、強面の人が
意外な優しげな一面を見せる
というのがありますが、
残念ながら、悪相のままでいくのです。

いずれにせよ、私は一定距離を保ち、
ときに強く出て
彼らからは敬遠される
ようになっていました。

そのうちに、最初の
サイコパスの彼が、職場に
おけるセクハラ・パワハラで
休職処分となりました。

同時に不正経理も
見つかったのです。


民間の会社であれば即解雇で
しょうが、公務員の世界のため
なかなかそうはなりません。

もちろん
普通の人間の感覚であれば
自ら退職しますが、
なにしろサイコパスです。


自分は悪くない

その一点張りです。


正直、自分がなぜ責められるのか
まったく理解できないのです。

ハ虫類がハ虫類として
己の職務を果たしているだけ
ということなのでしょう。


実は、職場の上層部も、
人間社会の常識から、彼が辞職する
ものと思い込み、解雇までは、
と詰めを甘くしたところがあります。


彼はしかし、要するに失脚しました。


振り返ると、彼がそれまでに他の同僚や
周囲の人々に向けて発した
言葉が気味の悪いほどに
彼自身にふりかかっています。


「あれはセクハラだ!」

「いじめる」

「あざ笑う」

「彼は人の話をきかない」

「あの人は本当に敵が多い」

「あとでひどい目にあうぞ」

「ああやって、つぶされていくんだな」


彼自身が抱いた負のイメージを
言葉として発した結果、
そのまま素直に、時間差をもって
きているのです。


これまで、どちらかというと
負の描写が続きましたが
もう大丈夫です。


第1のサイコパスは、
失職にこそなりませんでしたが
最も重い休職処分を受けました。

なみの神経なら、再び職場に復帰した
際に受け入れる同僚がどのような感情を
抱いているかを想像し、理解し、依頼退職を
しているところです。

何もなかったかのように
受け入れることはできないのです。

呼吸の仕方を忘れてしまって
息苦しそうにしている人もいます。

セクハラですので、とくに
女性職員は生理的に受け入れません。

人間サイズのゴキブリが
同じ部屋にいる

そんなおぞましさと恐怖を
抱いているようです。

誰でもそういうところはありますが、
自分がされたことはよく覚えているのに
自分がしたことは覚えていません。

しかし、サイコパスとなると、
その度合いは次元を超えて
強烈です。

自分のものは自分のもの
ひとのものは自分のもの

周囲の人間は自分が
利用するためにある

徹底しています。

正直、復帰したら、しばらく
大人しくして、またぞろ
同じ事をしようとしていたようです。

が、処分後は、完全に
窓際族としての扱いが
待っていました。


サイコパスの心理というものは
わかりませんが、どうやら恐ろしく
退屈な時間が流れていくようです。

その退屈さをまぎらわすために
刺激を求める

とくに人を支配する
勝負で勝つ

こうしたことでそのときだけ
退屈さを紛らわす

のではないかと思います。


いずれにせよ、復帰しても
ほとんど顔を合わせることも
なくなりました。

私は、本ブログでお伝えする
潜在意識の最大限活用プログラムである
「人生の執事」の開発に取り組んでいました。

そのため、自然に
彼へことさら注意を向けることも
しなくなりました。

時間とエネルギーの
無駄だからです。

そのうちに第2のサイコパスも
転任となり、職場を出て行きました。

こちらもセクハラ・パワハラ
などでいつ停職になっても
不思議はない状態でしたが、
うまく逃げ失せたという感じです。

なに、次の職場で同じ事を
繰り返すでしょう。


次の職場は厳しいところで
処分も簡単です。

しかし、それもまた
どうでもいいことです。

さて、この間
私はここで扱っている
サイコパスという心理学の
専門用語に出会いました。

いくつかの関連書を読み、まさに自分が
遭遇し、一時は精神的に追い込まれた存在が
それにあたることを知りました。

サイコパスは基本的に
人から奪いはしますが
与えることはしません。

平気で嘘をつくでしょうし、
だますでしょう。

一般に、
与えれば与えられます

助ければ助けてもらえます。

しかし1回2回はだませても
何度も繰り返せば、それは
わかってしまいます。

したがって、数年間同じところにいると、
サイコパスとはわからなくても
どういう人間かは自ずから
わかってしまうのです。

だから、ミスも多く、
必要な情報もまわってこず、
配下にあつめさせたゴシップも
どんどん陳腐化していきます。

同僚の弱みを見つけたと
言って喜んでいたその情報は
何年も前なのにいまだに使っています。

それは新しい情報が
与えられないから
なのです。


サイコパスの本では、
多くのサイコパスは中年くらい
で失敗し、健康を損ねたりして、
惨めな最終状況を迎える

とあります。


人は誰でも自分のこととなると
力が十分には発揮できないものです。

家族・恩人・友人など、
誰かのためになら、自分でも
思いも寄らぬ力を発揮できます。

ところが、サイコパスは
自分の欲望を果たすことしか
考えられないのです。

だから、もしかすると持っているかも
知れない力も十分には
発揮できません。

誰のことをもその人のことを
思って助けないのですから
助けられることもなくなるのです。

先細りするわけです。

したがって、時間がたてば
解決するものにこちらの
大事な時間とエネルギーを振り向けるのは
やはり時間の無駄です。


このようなことも
潜在意識の最大限活用に
ついて学び、日々実践する
うちに身についてきました。


そのうちに、友人や知人からも
そうした類いの人物が同僚や近い
関係にいることを聞くようになりました。

その都度、私は関連書を紹介し、
サイコパスとはどういう存在かに
ついてまず知ってもらいました。

サイコパスの存在は
古来からあるでしょうが、
用語として確立してきたのは
つい最近です。

その研究はやはりアメリカで
最も進んでいます。

ところが、アメリカと日本とでは
社会慣習や習慣、組織のあり方
などで違いもあります。

したがって、アメリカの事例を
そのまま適用するのもどうかという
場合もあります。

とはいえ、人間の良心のあり方
の問題ですので、本質的には
大きな違いはありません。

それでも細かな、具体的な部分で
対処法などで差違もありえます。

私は、相談を受けて、まずはじっくり
話を聞き、その間、もしも相談者が
自分で解決法を思いつけばよし、
そうでなければ、自分自身の経験を話しました。

タイミングや、その人の置かれている
状況もありますので、即座の解決法は
簡単には見つからないのですが、
客観視し、距離を保つ

これだけでも理不尽に苦しむことは
ずっと減ります。

何よりも、そのような状況に
置かれているのが自分だけではない
ということが支えになるのでした。

これにより、私に相談してきた人も
1ヶ月、もしくは数ヶ月たち、
気づくと当該人物が勝手に離れていた、
というようになりました。

私自身の職場もずいぶん
風通しが良くなりました。

それもそのはずです。

60人ほどの組織で
相前後して3人のサイコパスの
うち最も攻撃的な2人が相次いで
去るか自主軟禁状態になったのです。

もう1人はもともと大人しい方なので
問題になりません。


残る人々は、つまりほとんどの
人は皆、普通の人であり、
良心の持ち主であることが
一連の事件を経てわかっているからです。

サイコパスは、自ら進んで
組織のための贖罪(しょくざい)
してくれたのですね。

もう大丈夫です。

私たちの内にある創造力は、
私たちが常に注意を向けているイメージに
私たちを導きます。

そして、感謝するときに、
私たちの意識は、
常に最高のものに
向けられています。

ですから、
あなたは最高の状態になっていきます。


最高の形、
最高の性質を自らも形成し、
最高のものを引き寄せます。

それが文字通り、
あなたの魅力となるのです。

そして、自分に起こったいいこと
すべてに感謝し、同時にすべての人に感謝すれば、
すべてのいいこととの間に調和がもたらされ、
それらがあなたに引き寄せられます。

私は、自由な注意力を日々養い、
このような感謝の法則を
生活の基軸にしています。

しかし、まだまだ途上にあるという状態で、
そのような信条を抱き、
そのように意識するように、
自分の意志を用いている、という意味です。

たとえば、ミラーニューロン
という概念があります。

なんだかむずかしそうですが、

朱に交われば赤くなる、

という意味ですね。

もしもあなたの身の回りに、
不満だらけの人がいたら、
その影響を免れることは、
なかなか難しいでしょう。

なぜなら、その人は、
よくないことばかり
考えているからです。

よくないことばかり考えるのは、
自らをよくない状態にし、
よくないものばかり引き寄せること
になってしまいます。

潜在意識の力が
そうした引き寄せる力を
もっているのです。

あるいは自分をそうしたものに
近づけていくのです。

これはただ単に、潜在意識は
物事の善し悪しや肯定・否定の区別が
できないからです。

不満を持った瞬間から、
すべてはうまくいかなくなります。

凡庸で、貧相で、醜悪で、
みすぼらしいといった
ネガティブなものにばかり
注意が向けるとどうなるでしょう。

あなたの心にもそれと同じような
イメージが形成されてしまうのです。

するとあなたは、
そのイメージを宇宙に
伝えることになります。

そして、その通り、
凡庸で貧相で、醜悪でみすぼらしい
ものがあなたにもたらされるのです。
 

実のところ、ここでサイコパスという文言を
書き入れる入れるのを
実は私は今少し躊躇しました。

それは、文言を書き入れることで、
最高のものとは対極にある存在に
注意を向けることになるのではないか、
と一瞬考えたからです。


サイコパス、は、今や
あなたはすっかりご存じでしょうが、
は虫類からそのまま人間になったような、
良心の欠如した存在です。


は虫類と
ほ乳類の中でも最も進化した人間
との違いは、良心があるかないか、です。

私は、あなたに、当面、身の回りにいる、
眼前のサイコパスの攻撃から
あなたを回避させ、
安全な空間に来てもらいたいと思います。


そのうえで、
ご自分の潜在能力を完全に発揮し、
最高に魅力的になっていただく。


そのためにも、もしも今、
もしかして自分も、
という状態にあるのであれば
私に教えてください。


メッセージでも、コメントでも、
構いませんし、もう1つの頁を
開いてからでも構いません。

あなたの苦しさを和らげる頁を開く

ご精読ありがとうございます。


懐中温泉