海賊版



ゲームの海賊版は、日本ではそこまで流行っていない。
「そこまで」と言ったが、懐かしの機種やソフトは「エミュレーター」なるものが存在し、
海外のサイトから誰でも簡単に無料でダウンロードして、パソコンでプレイすることができる。

だが、海外はさらに深刻だ。
DSやPS3など最先端のゲームソフトすらコピーされているらしい。
韓国の友人に聞けば、「正規のゲームソフトを買う人なんて全体の1割程度だよ」ということらしい。
実際、別の中国の友人(ゲーム業界人ではない)は、ニンテンドーDSの本体と、
書き換え可能なコピーソフトだけを購入して、

私自身、タイ旅行でゲームショップを見つけたときは愕然とした。
ほとんどが海賊版である。パッケージにはそこらへんのカラープリンタで印刷した紙を使っているにも関わらず、堂々と売っている。
映画と同様、ゲームに関しても一早く、徹底した著作権管理に努力すべきである。

ゲーム作る人間が、こんな記事を書いて真似する人がいたらどうすんだと言われるかもしれないが、
日本に浸透する前に、ゲームを作っている人間自身が、早期から訴えて行くべきではなかろうか。
今でも大金と長い期間がかかって苦しいゲーム制作なのに、ソフトの売り上げまで激減してしまったら、
私達はゲームをつくりたくても作れないだろう。給料がもらえないのであれば、家庭や生命を守れないだろう。

だが、どの業界も同じだとも思う。
音楽が今、違法ダウンロードの危機にさらされている。
たまたま、音楽というものが小さい容量で、インターネットを通してやりとりができてしまうが為に。
これは憂うべき問題であるが、同時に、新しいビジネスを見つけるチャンスでもある。
諸メディア先進国に対して、日本は遅れていると言われるが、確かにそうだ。
テレビ局はyoutubeを嫌う。
日本の企業がつくった「youtubeが観れる機能を搭載したテレビ」は、アメリカでは販売されるが日本では販売されない。日本がつくったテレビなのに。

話が逸れたが、海賊版撲滅を願うと同時に、早急に考えなければいけないことは、新しい商売の手段を模索することである。
現在、メディアに関しては紛れも無く規制の時代である。
もっとも旬なのものは、ケータイのフィルタリングだ。
一旦、全てのサイトを見れなくして、そこから閲覧できるサイトの一つずつ解除していこうというものだそうだ。
みて欲しくないサイトを閲覧禁止にする手法とはまったくちがう。

ゲームは2006年より、従来の年齢制限区分が詳細化された。
CEROによって、A(全年齢)、B(12以上)、C(15以上)、D(17以上)、Z(18以上)に区分されている。

メディアの規制によって、親たちは国やメディアに対して多少の「安心感」を得ることができる。
(子どもはいくら規制されても、そこをかいくぐって親に内緒でやってはいけないことをするものなのだが。)
規制は更に進み、「誰か」が生活者を「メディアの脅威」から守る図式ができるのであろう。
この、「誰か」が問題である。
「誰か」は、そのメディアに直接携わる人間であるべきだ。
政治家や、ブランドイメージアップを計る他業界の企業であってはならない。
テレビならテレビ局、ゲームならゲーム会社がいい。
もっと言えば、下請けのテレビ制作会社やゲーム制作会社が生活者を守る運動の立役者になれば、業界全体のイメージがクリーンに見えるように思える。

規制が行くところまで行けば、今度は緩和の時代がやってくる。
法が厳しくなると、自由を欲するものだ。
歴史は繰り返し、生活者が「そんなに厳しくしなくたっていいじゃない」と言う時代が来るだろう。
その時、私達はどう行動するべきだろうか。
簡単に緩和していいものか。再びメディアのイメージが悪くなるだけではないか。
いや、だが緩和によって、革新的なコンテンツがもっと自由に産み出される世の中にすべきではないか。
規制と緩和のバランスをどうとるのか。
笑いは緊張と緩和。ピーンと張り詰めた空気の中で、ふっとおどけて見せると笑いが生まれる。
規制の中でこそ、革新的なコンテンツが現れた時の驚きが大きい。
良い子ちゃんのコンテンツばっかりだと、子どもへの教育としても味気なく、つまらない気さえする。
メリット、デメリットだけでは議論できない所、何が一番大切なのかは、子を持つ親たちが一番よく知っているのだと思う。
ゲームをする人は、まず2種類に分けられる。

息抜きでやっている人と、どっぷり浸かってしまっている人。

さらに、どっぷり浸かっている人の中でも、
自分の仕事や夢がしっかりある人と、ゲームが生活の中心になっている人。

ゲームが生活の中心になっている人の中でも、
心の中では「こんなことしていてはダメだ」とイライラしている人と、人生のことを考えれず(または諦め)にひたすらゲームを楽しむのみの人。

人生のことを考えれず(または諦め)にひたすらゲームを楽しむのみの人の中でも、
一生、自分が死ぬまで経済支援を受けれる環境にある人と、いつかは自分で稼がなければ生きていけない運命にある人。

ゲームをひたすら楽しむことが生活の中心だが、いつかは自分で稼がなければ生きていけない運命にある人の中でも、
10代の人、20代の人、30代、40代、50代…、男、女、千差万別である。
どう抗っても、自殺をしようと、それぞれが自分の人生を生きているものだ。


必ずしも全員が夢を叶えれるわけではない。
ささいな夢すら叶わない人も大勢いる。

ニートであることを笑われ、母ちゃんの飯ばっか食ってないで仕事をしろと言われても、どうやっていいかわからない人が大勢いる。

ゲームをやめればいいと言うわけではない。ゲームやインターネットが働かない若者をつくる最大の原因ではない。
ただ、ゲームは一度始めると没頭してしまい、時間がかかってしまうものだから、思い切って一ヶ月だけでもやめてみれば、人生にとっていい結果に繋がるかもしれない。その間、ずっと働かなくてもいい。ゲームをやめてみるだけでいいのだと思う。


「ゲームは犯罪や社会問題とは関係無いんだ!」と擁護する時代は終わったように思える。
ゲームに関係する人間全員が、この問題について深く考え続けなければならない。
ゲームが犯罪を誘発することはあるのだ。ゲームによって自分の夢を追わない若者が増えることもあるのだ。
ただ、ゲームソフトはこれからもずっと絶えず作られることだろうし、ネット社会もますます進化するだろう。
私達は本来、この問題を考えながら、ゲームビジネスをすべきである。


追記:
ゲームをすることによって、人が前向きになること、夢をもつこともあるのだと思う。
大変おこがましいのだけれども、誰かが私の関わったゲームを遊んだとき、何か、希望のようなものを持つきっかけになってくれるようなことがあれば嬉しいな。
…こんな恥ずかしいこと、ここでしか言えないですね。汗
ゲームを作るにはもっともっと遊びの原点を知る必要があると感じます。
オセロだったりのいわゆるルールがちゃんと作られた「ゲーム」の原点ではなく、「遊び」の原点です。

球技だったり、ボードゲームだったりではなくて、人が日常生活の中でやってる「遊び」についてもっと深く考える必要があると思うんです。
そういう日常生活の中でやってる「遊び」ってのは、いわゆる「暇つぶし」ですね。
通勤時間に電車の中でやってるゲームも、のめりこみはしても最初は「暇つぶし」で始めるもんだと思うんです。
それをもっと、いわゆる「暇つぶし道具」というものを抜きにしたときに、人は己の身体、精神だけでどんな暇つぶしをしているのかを探る必要があります。
これが売れるゲームの今後を考えるヒントにつながるのではと考えます。

小さい頃、歯医者さんで虫歯を治療してもらってる時間が、もうむちゃくちゃ暇で、ずっと天井を見てました。
そんで、想像上なのですが、自分の視点を動かしながら、天井の模様と模様の間をすり抜けたり、ジャンプして他の模様に移ったり、ということを治療中にやってました。

今のはテレビゲーム的発想から生まれた「暇つぶし」ですが、暇な会議のときに書類を色んな方向に折ったり、一人でファミレスに入った時に周りの人の会話を聞いたり。

自分のしっぽをぐるぐる追いかけまわる犬だって、見方によっちゃあ遊んでますよね。
こういう犬を見たら、もう、ものすごいバカだなぁと思いますが、たぶんあれやってて楽しいとこもあるんですよね。

結論も無く、漠然と考えているだけでなんだかあまりまとまっていませんが、己の備忘録として。