みなさま、こんにちは!!

お元気ですか!!

グレートYAYOIです!!



鳥取もようやく梅雨入りしました。

しばらく雨が降らなかったので、これで大地も潤いそうです。





あじさいも雨に濡れて色鮮やかに咲き誇りますが、

これはヒトも同じこと。

濡れてオンナも色気が増すというものよキスマーク


『性エネルギー』が『生体エネルギー』となるのだから、エロい人が、エネルギッシュで、パワフルなのは、うなずけますね指差し


みるみる元気が湧いてくるラブ

その方法は至ってシンプル。


それは『生命原理』の実践!!


愛する人とのOMEKO(まぐわい)や自己発電(マスターベーション)により、エネルギーが上がるのです!!


これも紛れもない真実飛び出すハート




さあ!冒頭からエネルギーアゲアゲアップで!


ぶっちぎるぜ!







さて、このところ、特に思うのですが、

時間の経つのが何と早いことか・・・


今年の春も桜を観ることができたなぁと、喜びを感じていたのが、気がつけば、もうじき夏至。

一年の折り返し地点がやってくるではありませんか!!


『ウチの時計は、めげとる(壊れている)物申す』と言いたくなる位、時間が加速的に過ぎていきます。




時間は有限

時間は命


我々がこの地球に、魂を成長させるために生まれてきたとするならば、この世とお別れするときに『やり切った!!』と思える人生にしたい。



せっかく生まれてくることができたこの命。

時間=命を無駄にせず、

“今・ここ・瞬間・完全燃焼”


小さなことでも、やりたいことをやってみる!

この肉体に与えられた五感をフル活用して、体感する!

味わい尽くす!!



グレートYAYOIは、生まれ育った鳥取にあるキラリキラキラと光るモノを、ピコピコセンサー📡で見つけ、何なら体感し、お伝えすることがひとつの使命。




グレートYAYOIによる

グレート鳥取の発見!!


どうぞお付き合いください!








今回は、

水木しげるロードのメインスポットである

『水木しげる記念館』



今年2022年は水木しげる先生の生誕100周年ということで、誕生日の3月8日、出身地の境港を訪れました。



水木しげる記念館は、2003年3月8日に開館。

水木先生の画業および関連事業の集大成として水木先生自身が世界中から集めた妖怪関連のコレクションや、独自に制作したオブジェの展示などを中心に、“水木しげると妖怪の世界”を展示紹介する博物記念館。

水木しげるロードの最終地点であり、ゴールデンウィークや夏休みは長蛇の列ができる人気スポット。








この日は誕生日当日ということで、館内も祝福ムードに包まれていました。






そして、この日限りの特別入場券ひらめき







こちらが記念館の構造




①ゲゲゲの玄関


②水木しげる漫画ワールド


水木先生の多数の作品が紹介されている。

妖怪漫画だけでなく、戦争漫画、幻想漫画、一代記など多彩なジャンルに広がる。

冒険家でもあった水木先生の世界旅行の思い出の品々の展示もあり、目を楽しませてくれます。

また、貸本漫画家時代の作品の一部が展示されています。




③水木ギャラリー


水木先生の写真や直筆壁画、代表作の原画(複製)を展示



④ねぼけ人生の間


水木先生の人生と作品の歩みを紹介。漫画家として大成するまでの苦難と格闘の日々がわかる。



⑤水木しげるの仕事部屋


実際の仕事部屋を再現。汗とインクの染みが付いたシャツが展示されている。





⑥のんのんばあとオレ


少年時代の水木先生に不思議の世界の扉を開いたのんのんばあ。創作の原点となった妖怪たちを展示



のんのんばあと水木しげる少年



⑦妖怪洞窟


水木漫画に登場する40体の妖怪が棲む





⑧妖怪ひろば


日本全国に伝わる妖怪を各都道府県で紹介した「全国妖怪大地図」を展示



⑨人生絵巻の回廊


水木先生の波瀾万丈人生をテーマにした漫画回想録。長さ10メートル



⑩企画展示室


歌川広重の東海道五十三次を見立てて、「水木しげるの“妖怪道五十三次”」を展示。

広重の五十三次と見比べながら楽しめます。



結びは・・・

妖怪庭園







ここまで、記念館の内部のご案内でした。






今回、あたくしグレートYAYOIがいちばん興味を持ったのは・・・


ねぼけ人生の間



何とも笑いを誘うようなネーミングがされていますが、水木先生の人生をここで知ることができ、年譜とともに、写真や展示品を交えて紹介されており、見応えがありました。



写真撮影は禁止となっていますが、公式ガイドブックで振り返ることができます。






今まで水木しげる先生について


“ゲゲゲの鬼太郎の作者”


“戦争で左腕を失われた”


という断片的なエピソードしか知りませんでしたが、波乱万丈の人生の詳細を辿ってみたとき、


水木先生は非凡・奇才・強運の人であり、

グレートな先生であると感じました。




今回、水木しげる先生の人生を紹介したいと思っていたところ、つい先日のことですが、その日の新聞のテレビ番組欄をふと見たときに、「水木しげる」という文字が目に留まりました。(これも偶然ではない)


調べてみたところ、水木先生の生誕100周年の記念番組であり、この日を初日に3日間連続で放送されるというものでした。


おかげさまで、水木先生の人生を当時の映像やインタビューなどからも知ることができました。


もしかしたら、水木先生が「これを見てみなさい」と教えて下さったのかもニコニコ


見えない世界からの、お陰様のフォローに感謝お願い




それでは、ここから水木先生の

超個性的で

超強烈な人生

をご紹介。





水木しげる 

本名 武良(むら)茂


武良家の次男として生まれ、2歳違いで兄と弟がいる。

幼少期から他の子とは少し違っていた。



4歳

初めて発した言葉は「ネンコンババ」(ネコの糞)

布団に粗相をしたのはネコだと訴えた。


5歳

武良家のお手伝いさんとして家に出入りしていた「のんのんばあ(景山ふさ)」に可愛がられ、妖怪の話を聞き、目に見えないものや、よく連れて行ってもらった正福寺にあった地獄極楽図を見て、異界に関心を持つようになる。


「人が●ぬところを見たい」と弟を海に突き落とす

→弟は通行人に助けられたとあり、こちらも胸を撫で下ろしました。

5歳児にして、その発想と、実行力。恐るべし滝汗


7歳

成長が遅いと両親が心配していたため 、1年遅れで尋常小学校に入学。自分の名前を「げげる」と発音するため、「げげ」のあだ名がつく。

→ゲゲゲの鬼太郎のネーミングはここから来ているのですよ


朝寝坊でも悠々と朝食を平らげてから登校するので遅刻が多くなる。


少年時代は趣味に没頭。

絵を描くことはもちろん、昆虫採取では標本箱の山を築き、当時流行していた新聞の題字の切り抜き、都市名や人口データの勉強など、夢中になったらやめない。


13歳

尋常小学校高等科に進む。

以前より欲しかった水彩、油彩の画材を父に買ってもらい、その才能を現す。


水木少年が描いた絵を、二科展審査員を務める画家でもあった教頭が絶賛し、個展を開催。

これが、新聞記事に取り上げられ

「天才少年画家あらわる」の見出しで、写真入りで掲載された。



15歳

高等科卒業。成績不振で進学を諦め、好きな絵の道で生活することを目指し就職。

石版印刷会社の図案職人見習いになるが、のんびりした気性に合わず、2ヶ月で解雇

次に版画社に入社するが、すぐにクビとなる。


16歳

大阪の美術専門学校に入学


17歳

自活のため電器会社へ職工として就職するが、2日でクビ


19歳

大阪の夜間中学に入学。アルバイトの合間に中之島洋画研究所へ通い、デッサンの勉強に勤しむ。



ここまで、幼少期からのエピソード見ただけでも、水木少年の超強烈な個性が伝わってきます。


コレクションに没頭し、流行が過ぎ去って誰も関心を示さなくなっても、続ける姿。

自分の得意なこと、大好きなことを継続し、貫き通す姿。



これは、まさに太陽意識の体現



太陽意識とは・・・

●大好きなことをする。本当にやりたいことをやる。

●興味あることの継続

●自分自身の体験を大切にする

●人生の中心に立つ(中心意識)

人生の主役になる(他人軸、他人目線ではない)



マイペースである水木先生。

寝坊の上に、ゆっくり朝食を食べてから登校。

会社勤めが合わず、最短2日でクビとなった逸話。


若い時から大物感満載のエピソードの数々に痺れます。照れ





さて、夜間中学に入学したこの年、

昭和16年(1941)12月8日

真珠湾攻撃で太平洋戦争が勃発。

この後、水木先生の過酷な戦争体験が始まります。



21歳

召集令状が届き、鳥取連隊へ入営。

マイペースなため、軍律に合わずビンタを受ける日々。

ラッパ卒を命じられるが、うまく吹けないため辞退を申し出ると、上官から「南と北、どちらがいいか」と訊かれ「暖かい方が好きなので南」と答える。

その後、間も無く岐阜連隊へ編入されて、南方の激戦地ニューブリデン島(ラバウル)に送られることになった。




この南方戦線での壮絶な戦争体験を、テレビの戦争証言の番組で水木先生も語っておられました。


「戦争証言 陸軍第38師団 ズンゲン支隊」

*NHKのアーカイブス番組で見ることができます



南太平洋の日本軍の拠点ラバウルを防衛するため、防衛線にあたるズンゲンに送られた。

初めは朝から晩まで山に塹壕を掘る。

毎日重労働が続き、地獄。


→この当時、ニューブリデン島は、制海権を奪われ補充兵が来ないため、水木先生はいつまでも初年兵扱いで制裁を受け続けた。


敵が来ない日は、理由を付けて殴られる。

365日殴られていた。


昭和19年4月末、10名ほどの分遣隊の一員としてズンゲンの南、100km離れた最前線のバイエンに派遣された。


ある日の明け方、1人で歩哨(見張り)をしていたとき、敵の急襲により、兵舎全滅。

兵舎から50m離れたところで見張りをしていたため、助かった。

ジャングルを彷徨い、5日後にようやくズンゲンの陣地に辿り着いたところ、味方の中隊長に

「何故お前だけ生きて帰ってきた。皆死んだ。お前も自決しろ」と言われ深いショックを受けた。


この後、マラリアに罹り、高熱を出して寝込んでいたところ爆撃を受け、左腕に大怪我を負った。

腕を切るほどの破片ではなかったが、血が出るため衛生兵が止血帯を締めすぎて、そのままにされた。

翌朝、死斑が出ていたため、早く切らねばならなくなった。

「腕はなくなったが、(中略)●ぬよりはいい」


と語っておられました。




この証言番組の他、色々と調べたところ


水木先生がマラリアと左腕負傷で後方に移送され部隊から離れていた当時、バイエンを死守するために大隊長から玉砕命令が下され、多くの兵士が命を落としていたのです。


『人生万事塞翁が馬』と言いますが、水木先生は負傷したことにより、玉砕を免れたと考えると、何が幸いするかわかりません。




水木先生は、幾度となく訪れる命の危機を乗り越えてこられました。

本当に見えない何かに護られておられたのだと感じました。



終戦を迎え、復員船に乗るまでの数ヶ月間、水木先生は現地の人と親しく交流するようになり、このまま現地に残ることを考えていたが、軍医から説得され、一旦日本に戻ることに。


昭和21年3月 駆逐艦「雪風」で横須賀に帰国




水木先生が生きて日本に戻ってこられたことで、今、私たちは多くの名作を目にすることができるのですね。



ここまで辿っただけでも振幅の大きい人生を歩んでこられたと思いますが、この後もまだまだ激しいエピソードが待っています。お願い




本日はここまで!


それではまたね!


ご機嫌良う♡