松本城の五代目松本城主・戸田松平康長の正室、松姫。



松姫にまつわる間違った伝承の他に、

そのお子さん、松平康直にも伝承があるようです(・ω・)ノ




これは、知りませんでした。




“城下町探訪 五社(松本神社)” から再話しました。




⬇︎松本神社

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⬇︎松本神社拝殿


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⬇︎暘谷霊社から名前をもらった暘谷水神

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松本城の暘谷伝説。




松本城の北側に松本神社があるが、

そこには暘谷様がお祀りされている。




暘谷様としてまつられたのは、戸田永兼。




父・康長と、母・松姫の間に生まれた長男であった。

しかし、病を得てしまい、父の跡を継ぐことができなかった。




そして、1619(元和5)年6月10日、松本で死去した。




永兼だけでなく、異母弟の二男・忠光も、父よりも先に逝ってしまったため、

家を継いだのは、忠光の弟、三男・康直 で16歳であった。




康直は、1633(寛永10)年、松本から明石へ移った。


…が、1635年急逝する。


家督は、忠光の子・光重が受け継いだ。





その翌年。


城内の奥御殿に夜な夜な妖怪が現れ、婦女が病むことが続いた。

巫女 に占わせたところ、松本で亡くなった永兼が祟っているとのことであった。



永兼の霊は


「自分は東照宮(家康)の門流であるのに、なぜ他の霊と同じ寺に祀られているのか。

祠を建てて別に祀ってもらいたい。

そうしたなら、永く戸田の家を護ろう」



といったという。





そこで、戸田氏の祈願所であった弥勒院内に社を建て、永兼の霊をまつって新宮と呼んだ。


しばらくして、新宮を暘谷霊社と改めた。




永兼の霊の言葉通り、戸田家は、明治以降までつづく事になる。





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暘谷霊社…


なぜそういう名前にしたのでしょうね?






暘谷の『暘』とは、日の出の事。




“暘”の字を、“陽”と書く文献もあるようです。

松本城研究室の見解は、“陽”の様です…






『陽』だとすると、


1.
日の光。
 「陽光・夕陽・落陽・斜陽」

2.
日のあたる方。ひなた。山の南がわ。川の北がわ。
 「山陽・岳陽」








『谷』とは、

1.
山と山の間の流れ。また、山と山の間の低地。たにあい

2.
きわまる。ゆきづまる。


…事で。




占い的には、エネルギーの集まるところという意味あいもあるようです。








『暘谷』で、日の出とする見解もあるのだそうです。








つまり…


「日の出のごとくのぼり、繁栄をもたらすように」、

お祀りしたのでしょうか…




それとも、

「日の光のごとくお家を照らし続け、また、永兼が居たということを、人びとに知らしめるため」におまつりしたのでしょうか…





巫女の御告げ『私を家康と同じように祀れば、子孫繁栄になろう』にしたがって、


子孫繁栄のために祀ったのは間違いない様ですね(≧∇≦)









つづく。










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