松本城の黒門を出て、
そのまま真っ直ぐ、道なりに南に進むと、松本郵便局があって。
さらに真っ直ぐ進んで、一つ目の信号機から50メートルほどのところにホテルがあって、
その横にお茶さんがあるのですが。
さらにその横に、⬇︎この橋があります。
本町5丁目と、博労町と呼ばれる町の境の、長澤川にかかる橋で、
“美どりばし(緑橋)”と言います。
明治11年にこの橋に変わった時に付けられた名前なのですが、
それ以前は、『留袖橋』と、呼ばれていました。
今回はその、留袖橋のお話です。
留袖橋伝説
1615年元和元年。
小笠原秀政は、主君・徳川家康の命により、
不穏な動きのある大阪へ赴く事になりました。
秀政は、伏見城(京都府伏見)の守備を任されたのです。
秀政の長男・忠脩(ただなが)は、松本城の守りを任せられましたが、
前回の大坂冬の陣で、軍費が底をつくという失態をしてしまった汚名を返上するため、
幕府に背いて、出陣しました。
弟の忠政は、まだ14歳で元服しておらず、子供でした。
でも、父と兄と共に働く決意が固く、
秀政は、そんな息子の気迫に折れて連れて行く事にしたのです。
忠政の母(乳母)は、一度は三人を見送ったものの、
「忠政はまだ14歳。
まだ、こんなに若いのに…戦いで死なせたくない…。
二度と顔を見られなかったら…」
と思ってしまい、いてもたってもいられず、後を追って城を出ました。
走って走って…ちょうど長澤川にかかる橋のところで追いつきました。
突然、追いかけてきた母に、皆は驚きました。
「母上、どうかなさいましたか?!」
母は、息急き切って走ってきたので、忠政の足元に崩れました。
忠政は、鎧兜はつけていましたが、
元服前なので、たもとの長い着物(振袖)を着ていました。
その袖に取り付いて、
「どうぞ行かないでください。
あなたはまだ元服前の子供です。
あなたが元服していれば、武士の定めと諦めもつきましょうが、
子供のあなたが、なぜ戦に出なくてはならないのか…
母にはわかりません。
あなたが死んでしまったら、
あなたの顔を二度と見られなくなったら、
母はどうしたら良いのですか…」
と泣き、離しません。
忠政も母への思いがいっぱいになりましたが、
「母上、私は武士です。
主君のため、そして父上のため、兄上のために働きたいのです。
私は行かねばなりません!」
と言って、母への思いを断ち切るように、
母が掴んでいた袖を引きちぎって立ち上がり、
戦へと向かって行きました。
残された母の手には忠政の袖だけが留まりました。
母は袖を抱きしめ、静かに泣きました。
この話から、橋の名前が『留袖橋』と言われるようになったのです。
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さて。
松本市発行の「私たちの松本城」に紹介されているお話を元に再話させていただきましたが、
この紹介文には“忠政の母”としか記載されていなかったので、
全く気がつかなかったのですけど。
このお母さんは登久姫(((o(*゚▽゚*)o)))
…と、思っていたのですが。
松本城の公式ホームページでは、乳母になってますよ』
と、ご指摘いただきました。
ありがとうございます(^-^)
先日、“私たちの松本城”と、松本城ホームページを監修している松本城研究室の方とお話した時に、
「“私たちの松本城”は、毎年何らかの間違いが見つかり、
毎年改訂している」
と、いうお話を聞かせていただきました。
「史実が変わったと言うことですか?」
と、聞いたところ、
「いや、本当、単なる間違い(苦笑)」
と、の事で。
今年はこの件が、改訂になるのでしょうかね…。
間違いを載せてしまい申し訳ありませんm(_ _)m
さて。
乳母の、忠政を死なせたくないとの願いは叶いましたが、
大阪夏の陣にて、
小笠原秀政は、手柄を上げたものの重症を負い、死亡。
この手柄によって、後世まで子孫を助けることになります。
長男・忠脩は、幕府の命に背いたものの、その意気込みを徳川家康に買われ参戦を許されましたが、討ち死しました。
忠政も負傷しましたが、一命を取りとめ。
喪主として、立派に二人の葬儀をだしました。
その姿に感銘を受けた家康は、
本来ならば兄・忠脩の長男が継ぐべき家督を、その子が小さかったこともあり、
忠政に継ぐよう言いました。
そして忠政は、名を忠真(ただざね)と改めました。
また、忠脩の正室であった亀姫との婚姻も家康の命によるものでした。
ちなみに、亀姫様は、
登久姫の妹・熊姫の娘です。
家康にとっては、曾孫同士の結婚となります。
信濃小笠原家と徳川家の繋がりは、こうして強くなって行ったのですね(≧∇≦)
つづく。