松本城にまつわるお話、登久姫のお話をご紹介しています(・ω・)ノ




松本城の小笠原牡丹はただいま見頃です。

この牡丹にも民話が残ってます。





この花を愛でていた、小笠原長時は、

松本城三代目城主で松本藩初代藩主・小笠原秀政のおじいちゃんにあたります。




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この花を守らせ、小笠原長時は武田に負けて。

信濃小笠原家は諸国流浪の民となりました…









さて。


松本城三代目城主で松本藩初代藩主・小笠原秀政の正室、登久姫は、

天正4年(1576年)3月、岡崎城で生まれました。



登久姫が4歳の時。



お父さん・徳川信康は、

その才能を恐れていたと思われる母方のおじいちゃん・織田信長に、

お母さん・徳姫が出した浅はかな手紙のために、自害させられ。


父方のおばあちゃん・築山殿を、おじいちゃん・徳川家康の家臣に消されて。


お母さんは美濃へ帰されてしまったので。


おじいちゃんに育てられました。







天正17年(1589年)8月、13歳の時。

小笠原秀政と、豊臣秀吉の仲介で結婚しました。


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⬆︎すみません、可愛かったので、http://s.ameblo.jp/pdarks/entry-11829013110.htmlからお借りしました。m(_ _)m
成来姫の名刺にイラストを提供していらっしゃる方のブログです。








小笠原家と徳川家は、かなり親しかったような気がしていたのですが、





やはり戦国時代なのですね…この辺、かなり複雑です…





小笠原秀政は、徳川家の人質だった時代がありました。





徳川への人質だった秀政は、

徳川家の重臣で、後に松本城初代城主となる石川数正に預けられたのですが。


石川数正は天正13年(1585年)、

なぜか徳川家康の元を離れ、豊臣秀吉の方へ出奔(寝返って)してしまいました。


その時に、秀政も秀吉の元へ連れて行かれたので、

秀吉に仕えることになりました。

この時、秀政は16歳でした。





それより3年前のことですが、

天正10年(1582年)に織田信長が武田勝頼を破ると、秀政の父・小笠原貞慶は、

父(秀政の祖父)・長時が武田に負けて支配された旧領の一部、信濃筑摩郡を与えられ。

本能寺で織田信長が横死すると、父・小笠原貞慶は旧領の地侍に迎えられ、徳川家康の支援を受けて、

7月17日に深志城(松本城)を、武田勝頼が討たれて浮き足立っていた武田方から奪った、上杉方から奪還することに成功しました。

それもつかの間…
8月に、木曾義昌が徳川家康と手を結んで、松本に攻め込んで来たため、

小笠原貞慶は徳川家康を見限って、木曾義昌勢を破り、松本の地侍や寺社などに所領安堵状や宛行状を多発して自立傾向を強めていました。




そんな経緯がある中。



天正17年、家督を父・貞慶から譲られ、

豊臣秀吉の仲介で家康と和睦し、

登久姫を娶ることを許されたのです。








…これだけでも、


徳川家康って…本当にタヌキだなぁ…と、思ってしまううさ吉です。

小笠原に対して、始祖の受けたうさぎ汁の恩を仇で返してる感が、半端ないです…_| ̄|○





ところで。


あまり資料が見当たらないので、秀政と登久姫。

夫婦仲がどうだったのかはわかりませんが、

秀政と登久姫の間には、8人のお子さんがいたことから、

仲良しなご夫婦だったかと、想像できますね(^^)




ウキペディアにあった、『娶ることを許された』…という表現からして…

二人は家康の元にいたので、顔見知りだったのかもしれません。



そんな仲良しなご夫婦に起こった不幸…。





大阪の陣。





その出陣の時、登久姫は……









つづく。







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