ゴールデンウィーク突入ですね(・ω・)ノ
皆さんのご予定はお決まりでしょうか( ´ ▽ ` )
うさ吉は、お仕事ウィークです!
さて。
最近の松本城は、
忍者がいる!
…と評判になっております。
朝と夕方しかいない、レア者ですよ♡
実は、松本城。
実際に忍者がいたという史実があるのです(・ω・)ノ
歴史の陰で活躍した忍者は、
本来名を残さないものなのですが。
松本城の忍者は例外でした。
松本城のあった松本藩は、六万石から八万石の、小さな藩でしたから、
「松本藩にはすごい忍者がいる!」
と、宣伝をし。
他の藩を牽制して守っていたのではないか、と、言われています。
これを、甲賀の伴党に伝わる『甲賀奥義之傳(こうかおうぎのでん)』では、
自分が忍者であることを明らかにするのが陽忍の術としているそうです。
変装などで正体を隠すのが陰忍の術としているそうです。
たとえば「我こそは忍術大名人」と宣伝すれば、
敵の忍者は、
そんなに凄い忍者のいるところにはとても忍び込めないとあきらめてしまう…
これが陽忍の術なのだそうですよ(≧∇≦)
さて。
信州・松本藩、戸田松平家は、四術に長けていたと言われています。
槍術、銃術、医術、陰術。
この、陰術こそが、
芥川流の忍術なのです( ̄Д ̄)ノ
芥川流陰術は、
流祖の芥川九郎左衛門義道が甲賀出身なので、甲賀流の一派です。
寛文12年(1672)美濃国加納藩(岐阜県岐阜市)の時に、戸田家に仕え、
戸田家が移封された志摩国鳥羽(三重県鳥羽市)、
そして、
信濃国松本(長野県松本市)へと従いました。
四代目の芥川九郎左衛門義矩(1732~1810)は、
学問にも秀で、藩校で儒教を講じました。
忍術の技法にも優れ、数々の逸話を残しています。
ただし。
代々「九郎左衛門」を名乗っているので、すべてが義矩のこととは、言い切れませんけどね…
たくさんある武勇伝をご紹介していきたいと思います(^^)
…中には、こんなのが武勇伝か?!と、思うものもありますので、お楽しみに(笑)
つづく。