こんにちは。

最近は勉強で忙しくなってきている今日この頃です。



さてはて、最近友達との距離感というものが僕が考えているもののひとつです。

これは非常に難しいものです。

その人は、親友であるのか、知り合いなのか、はたまた恋人なのか。
自分の中のこのような位置づけで、対応も、言動も大分変わってくると思います。

そして特に今回僕が意見したいのは、

これらの位置づけのランクアップには、時間を要することがが絶対だ、と思う人達のことです。


おそらく、これでは言っていることがよくわからないと思うので、例を挙げさせてもらいます。

僕が実際に高校生の時に友達と卒業後話した会話です。



僕「お前って、物事よく考えてるけど単純だよなー」

友「親友の子たちによく言われるよ。たった2年の付き合いなのによくそんな事分かるね」



つまりこの友達は、2年くらいじゃ人のことなんてよくわからない。

というふうに取ることができます。

僕は、勝手に自分で親友だと思っていたので、正直なところ悲しかったのですが、

まさに僕が訴えたいことはこれです。



人との信頼関係は時間でしか築けないのか。



時間が経たないとその人との信頼関係を築けないということは、
その人のことをいかに知ろうと努力していないかということにつながると僕は考えます。

たかだか2年だろうが1年だろうが、1週間でさえ、本気で知ろうと思えば、どんな人なのか、どんなバックグラウンドがあるのか、思想はどうなのか、なんていうことは簡単に理解できるはずです。


それを時間のせいにして、本気でその人を知ろうとしてない人に、信頼関係が築けるのでしょうか。



僕は、小学校の友達も中学の友達も高校の友達も、はたまた大学の友達だって、本気でわかろうとした人は

時間に関わらず、同じぐらいその人達のこと理解できたと思っていて、このことについて僕は自負します。





ただ、これは、僕がすごいとかそういう事でなくて、

このような態度でいなければならないというのが普通だということです。



もちろん理解できる人に個人差はあります。まったく心を開かない人、割りきっていろいろ伝えてくれる人。。などなど

これらにおいて、人を知るための時間が変わってくると思うのです。
 
つまり
差が出るのは、時間ではなく、個人差であるべきなのです。


知ろうしなくても、長くいれば嫌でもみえてくる事はあります。

しかしそれは、時間に頼るという受身の行為なのではないでしょうか。


僕としては人と繋がろうとするとき、受身であるというのは甚だ疑問です。





このような意見ですが、どう思いますでしょうか。




すごく久しぶりにここに書きます。



特に、なにか思い立って書こうと思ったわけでは無いのですが、
気が向いたので書こうと思い立った次第です。


さて、僕にとってアメリカの短大生活も2年目に入り、学期も4セメスター目に突入しました。

その4セメスター目もすでに4分の1を経過し、そろそろ中間が近くなってきています。


今回は授業数を減らしhistoryを2クラスとeconomic, honors, physical education の5つに絞って受講しています。

この学期で編入できる単位を満たせないため、編入は1年以上先な故、この頃進路について再考するするようになってきました。


両親からは、最終的に職につけるような選択をすればいい

と、いうような条件を言いつかっているため、

両親の期待には最低でも応えたいとは思うのですが、


今の選択が本当に最適な道なのかと問われたら自信を持って
今やっていることですとは言えないのが現状であります。


今、この悩みに結論づけるなら、

今やっている勉強に最善を尽くせ、そこから考えろ。

というのが、もっとも綺麗な結論になるとはおもいます。


最終的にこのことは避けようとしても避けられない壁になるのは分かっている時点で
この事に触れないのは逃避になるのでしょうか。


さて、これ以上だらだらと続くのも不快なので、
ここでおわります。




ここのブログ更新は久しぶりですね^^


さて、私事ながら、
3日ほど前に20歳になりました!ワーイヽ(゚∀゚)メ(゚∀゚)メ(゚∀゚)ノワーイ



20歳といえば、法律上は

『大人』

と定められる歳になります。



これは、法律上、いってしまえば建前の話で、
本質的に、いつオトナになるかいうことは人によって全く違うわけです。


無論、何が大人で何が子供か、という基準もまた存在しないわけで、

その受け取り方は人によって大きく違ってきます。。


気配りができることなのか、

我慢ができることなのか、

自己犠牲ができることなのか、

はたまた、じぶんの思ったことに純粋に生きる事なのか、



それは、わかりませんが



ただ僕の意見としては、

自分とは他人から見た自分である。

という観点から、他人に「大人だなあ…」と思われた時点が

その人の大人になったというポイントではないかと思います。



この他人の目、つまりは客観視の視点というのは、その人を確実に表してるもので、


本人そのものを指すものであると思います。



他人は自分の鏡である。



という言葉がありますが、



これはつまり、自分から見えている他人の感情は、その時に他人から見える自分の感情と同じである。

ということです。



例を挙げると、

自分から見て、他人が明らかな理不尽で、自分に怒っているのだとします。
そうなるとそれはつまり、自分が同じような感情をその人にも発しているのだということです。




こう言ったことを考えると、怒らない事の大事さ、苛立たないことの大事さが、みえてくるような気がしないでしょうか。。



これはなかなか難しいことで、

最近、僕が苛立ってしまったときに、そのような考えを思い出すことができませんでした。


これはつまり、

周りを見る

ということが出来ていなかった結果に思えます。



逆に言うと、また周りの人も自分の感情に気づけていなかったというでしょうか。





ぼくを含めた現代人、全員で考えるべき観点ではないのでしょうか。






自分を見つめ直すには。。


どーもこんにちは。


今日で長かった6月もついに最後の日で、徐々に夏本番の暑さを感じる今日この頃であります。


今年サマーリーグに参加し始めてからというもの、全然思ったとおりの成績を残すことができず、
僕にとって苦しい戦いが日々続いています。


さて本題ですが、

僕がこのサマーリーグに参加してからというもの、結果を残せていない理由の一つにイップスというものがあります。


イップスというのは、

イップス (Yips) は、精神的な原因などによりスポーツの動作に支障をきたし、自分の思い通りのプレーができなくなる運動障害のことである。本来はパットなどへの悪影響を表すゴルフ用語であるが、現在では他のスポーツでも使われるようになっている。(Wikipedia引用)


というもので、僕の場合は野球なので、スローイングに難が出てしまっていて、マウンドから投げても、キャッチャーが捕球することさえ困難な場所に投げてしまうといった状態になっています。



僕は未だにこのイップスであるということを自分自身認めることができなくて、

イップスであるということを認めたら、今のこの状態が障害のせいにしてしまって自分でこの障害と戦えなくなってしまうのではないかという不安がつきまとっています。





精神的なものである。とか、技術的なものである。とか、いろいろ言われているわけですが、

結局のところ、いま何をしたら克服に向かっていくのかすらわからない。




もっと投げることが、ほんとに正しいのか、
もっと下半身を鍛え直すのが、ほんとに正しいのか、
もっと柔軟性をつけることがほんとに正しいのか、




もちろん、まずやってみることは大事なので、
前は向き続けたいと思います。




おわり



今日は、一旦野球から頭を離してリフレッシュしよう!と思い、

トレーナーさんであり、先輩のhirotoさんにビーチの方に連れて行ってもらいましたアップ


広い海を見ていて、

俺たちのやっている事はなんてちっぽけなんだろう

と、

ありがちな感銘をうけました。。


俺たちのやってる事なんて、ちっちゃいちっちゃい!!!


もっと、広く目を向けて、もっと思い切りやらなくては!!



おわり