【「死」のメモ~母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。を観て~】


↓刺さったワード↓


死について考えれば考えるほど、意味が追加される。


親の死は子が先へ進む原動力となる。


この世に生きているんじゃなくて、生かされているんだ。という境地。


肉親がこの世に居ない世界について。


死を客観視し、寂しい事と死をごちゃ混ぜに考えてはいけない。

 




↓自分のメモ↓


・自分の死でなく肉親の死にて失うもの、想像にて得るもの


・親族の死は必ず意味を持つ


・「死ぬ気でやる」ということ、「必死」になるということ




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【母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。を観て】



母への愛、そして死の先の生について考えさせられる作品であった。


主人公が母の遺骨を運ぶシーンから物語が始まる。


遺骨を骨壺に入れ、そこから子ども時代の回想シーンとなり、母が死ぬまで、そして母が死んでから残された親族のシーンが描かれる。


最後の主人公の死から学び得たメッセージで締めくくられ物語は終わる。






この作品を観て、詰まる所、最後のメッセージにこの作品の意味が集約されているように感じた。




「死について考えれば考えるほど、意味が追加される」



というメッセージからは、


主人公である作者が、母の死から感じたこと、死の意味について、自分を投影させて考えてみた。




果たして、自分はどこまで母を愛せるのだろうか?


どこまで死を受け入れられるのか?




上記の2点が課題である。



自分は愛と死と悲しみの関連性について、


想像力が乏しい。



母が死んだ時、どこまで悲しむのか?


何を想起するのか?


分からないという一言で、逃げるように片付けてはいけないんだけど、


生きている間に出来ることをするというのも、こっぱずかしいもので。


ひとまず今の自分があることについて感謝の思いを伝えていくのが、一番かな。




いざその時になってみないと分からないけれど、


仮に母がガンだと宣告された場合、


自分はどのよう動くことができるのか?




人の死に意味があるとすれば、それは


誰かの背中を押すということだと思う。




生にエネルギーがあるように、


死にもエネルギーがあって、


残された者がどう捉えるかによって、


プラスにもマイナスにもなり得る。




それがエネルギーってものだと思う。




自分が死ぬときは、


今までの自分の考えてきた記録を大切な人に伝えたい。


この記載も。