(1)概説
 岡山県津山市一宮695に鎮座している中山神社は、延喜式神名帳において

 美作國苫東郡 中山神社 名神大

 と、美作国の苫東郡の地名であった。美作国が設置された時に、苫田郡が東西に分割されたため
 苫東郡となっている。

 美作国が備前国から分立した和銅六年(713)四月三日に創立されたと言われているが、
 社伝では慶雲四年(707)四月三日の創祀とされている。

 元々、中山神社が祀られていた場所には別の大已貴命が祀られており、中山神に場所を譲ったと言われている。
 それでは、其の由来を載せている中山神社縁由を見てみよう。

(2)中山神社縁由

 「中山神社縁由』によれば、以下のとおりである。

 むかし此さとに伽多野部長者乙丸となんいへるとみ人ありけり、地主大穴持の神をことにた
ふとみおもひけるに、御神に宮所をゆつりまして後は、こと所にしつまりおはしますといへとも
、神威のいたくおとろへさせ給ふ事をほいなく思ひ、御神のことにさかへおはします事をそねみ奉
りける心もや侍りけん、贄賄梧狼の神いかりましていたくとかめ給ふにより、けいし親族ともことこ
とく身まかりなんとす、乙丸おとろきおもひ身のあやまりをくひて申さく、永く此ところを立しりそき、
人贄にカコヘて鹿二頭つふことにそなへ奉るへしとかたくちかことをなし奉り、足を空にしてのかれゆく、
御神これをあはれみおほしめして、先しはらくとまりて牛馬の市をなすへきよしの神勅ありけれは、
乙丸よるこひにたへすあなうれしやといひて、立かへりつ家の主へなる川原にしてあまたのうし、
むま又家につみたくはへたるくさくさの物なんと、みなうりはて、後に弓削庄にうつりすむ、
もとよりうしむまをめてさせ給ふ神のなへてならぬ御神なるかゆへ|こ、此市ことに神慮にかなひける
によりて、年ことにさかりに行れて世々にたゆる事なしといふ、その乙丸か家のあとをは長者御前とてあり、
そののち正月八日毎に鹿二頭つつそなへて贄賄梧狼を祭る事久し、その鹿贄をそなへて祭りし所を}ま贄殿とな
んいへり、御神鹿大蒜を喰事をいたくいましめ給ふといへとも、正月八日より四月八日にいたるまで鹿の
相火をゆるさせ給ふといふ、これそのことのもとなりそと、-とせ鹿贄の祭おこたる事の侍りしかは、
贄賄梧狼の神いたくたたり給ふ、此とかめによりて、贄賄梧狼を弓削庄に遷座なし奉りて志呂大明神と
あかめ祭る、庖谷といふ所にて贄祭をつかうまつりけるに、御神の末社に上官といふおはします、志呂明
神のまねきにより庖谷にっとはせ給ひて贄祭をきこしめしきとなん、此ところをすなはち庖谷大明神とあ
かめけるとそ、後には正月十五日に頼信名といふ所へ民ともあつまりはかりて十六日になん大昔山といふ所
にて鹿を狩しとかや、贄賄梧狼を弓削庄にうつし奉りてのちは鹿を贄殿にそなふる事なしといふ

 要点をまとめると、「大已貴命が中山神(おそらく鏡作命)に宮所を譲ったところ、以前から大巳貴命を奉
 じていた伽多野部長者乙丸がそれを不満に思った。これを怒った贄賄梧狼神が乙丸に祟ったので、乙丸は
 毎年鹿2頭ずつを供えることにした。贄賄梧狼神はこれを許し牛馬市を開かせた。
 その後、乙丸は弓削庄に退いた。鹿は大菅山で取り、庖谷で贄祭りをした。
 あるときこの鹿贄の祭りを怠ったので、また贄賄梧狼神が祟った。
 そこで贄賄梧狼神を弓削庄の志呂神社に勧請した。その後、鹿を中山神社に供えることはな
 くなった。」ということである。

岡山理科大学紀要第41号Bppl7-26(2005) より抜粋

久米郡誌 434p志呂神社にも同様の記述が見られる。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/978690

志呂神社.jpg

(3)多自枯鴨神社の伝承
 更に、中山神社が鎮座していた場所に祀られていた神の伝承は、備前国津高郡の多自枯鴨神社にも存在する。
 多自枯鴨神社は、岡山市北区建部町田地子542に鎮座している。
 備前国百廿八社神位付神名帳にも記載がある。

 創建年代は不詳。延喜の頃多自枯鴨神社、中古以来は五社八幡宮と称した。明治二年式社改により旧号に復した。
 式外社であり、神位従四位下であった。享保十六年七月九日火災のため古書類宝物縁記が鳥有に皈した。
 村名を田地子と称したのは多自枯鴨、多自枯布勢両式外神社の鎮座によったものという。本神社は出雲大社
 の御分霊を奉祀している。和銅六年美作国南条郡下神目村に分社を創建した。現在の(県社)志呂神社である。
 明治六年郷社に列した。

 以上から、元々苫田郡の中山神社の鎮座地で祀られていた大已貴命は多自枯鴨神社として津高郡で祀られるように
 なり、志呂神社に分祀された。

(4)苫田郡司の蝮臣(タジヒ)と多自枯(タジコ)布勢神社/多自枯(タジコ)鴨神社

 当時の苫田郡の郡司は、蝮臣(タジヒ)と考えられる。天安元年二月紀に「美作国苫田郡司蝮臣全継を正六位上に叙す」とある。
 苫田郡から勧請された多自枯鴨神とはタジヒ=タジ氏の氏神である鴨神と解釈ができる。

 同様に、多自枯鴨神社の類社である多自枯布勢神社もタジ氏の氏神である布勢神と解釈ができる。

 多自枯布勢神社に関連する神社や豪族が苫田郡や出雲の仁多郡に見られる。

 美作苫田郡にあたる富村(現在の苫田郡鏡野町富西)には、雲陽誌の出雲国仁多郡布勢郷の稲田社
 (現在の八重垣神社。元々はアシナヅチ・テナヅチの末裔である馬庭氏によって稲田姫のみが祀られていた)
 から勧請された布勢神社がある。苫田郡誌(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1176154Q)

 八重垣神社(稲田社)
八重垣1.jpg

 そうすると、多自枯布勢神社も苫田郡の布勢神社から勧請されたと考えられる。
 出雲の仁多郡も和銅年間においては、苫田郡の郡司と同じ、蝮部臣が郡司を務めていた(出雲国風土記)。

 以上を一覧として見ると、

地域    | 郡司          |  神社1    |  神社2
-----------------------------------------------------------------------------------------------------
出雲国仁多郡| 蝮部臣(タジヒ)・馬庭 | 布勢郷の稲田宮 | 杵築大社
美作国苫田郡| 蝮臣(タジヒ)     | 富村の布勢神社 | 中山神社が鎮座する前の神
備前国津高郡| 田使首(タジ)     | 多自枯布勢神社 | 多自枯鴨神社

 そうすると、津高郡の多自枯布勢神社は、出雲国仁多郡布勢郷の櫛稲田姫を勧請したもので、
 仁多郡の郡司である蝮部臣が美作国苫田郡→備前国津高郡と移住していったと考えられる。

(4)氏族分析1(蝮部臣と馬庭、漆嶋直)
 更に、元々の多自枯布勢神の祭祀者である馬庭氏も蝮部臣と同族であったため、神社とともに蝮部臣
 が移動したものと見られる。

 津高郡司の田使首は、葛城直と賀茂県主、漆嶋直とも同族であった。

 蝮部連と蝮部臣が同族と仮定すると、蝮部連の祖先である建筒草の母は葛城尾治置媛命であり、
 この代以前からの分岐であれば、蝮部臣は葛城直、漆嶋直と同族となる。
 また、蝮部連と同族の若倭部連は神魂命七世孫天筒草命之後也と新撰姓氏録に記載があり、
 神魂命裔の賀茂氏や三島溝咋の末裔と同族となる。
 更に、大国主神の末裔である都佐国造が、長阿比古の同祖三嶋溝杭命の九世孫小立足尼の末裔と称していた
 事からも馬庭氏の末裔が蝮部や田使首を称しても矛盾なく系譜が繋がる事が分かる。
 

(5)富家と苫田郡
 多自枯鴨神社は出雲大社から勧請されたと言われている。出雲大社の上官家であった富家は、
 馬庭氏と同族で、アシナヅチ・テナヅチの末裔と言われている。富家の領地であった出雲国出雲郡出雲郷には、
 富神社があり、アシナヅチ・テナヅチと共に櫛稲田姫が祀られている。

 苫田郡の富村にも、アシナヅチ・テナヅチを祀る神社や、其の親神である大積神荒魂を祀
 る式内社の横見神社が鎮座していた。以上から苫田郡の苫は、富家の富からの訛ではないかと推察される。

 苫田郡の富村は、美作国が設置されたときに大庭郡と苫田郡の境界線が変更されたため、
 大きな影響を受けた。

 大庭郡布勢郷の一部であった富村は富村を中心とした苫田郡に分かれたのではないかと考えられる。
 このとき、横見神社は富村から大庭郡に移住した人々と苫田郡に残った人々のために、2社に分かれた。
 布勢神社も同様で、大庭郡側に布施神社があるのも同じ理由による。

 美作や備前の山間部は出雲の土着系氏族である富家の信仰圏であった事が分かる。

(6)備前における多自枯布勢神社と多自枯鴨神の広がり
  今まで、取り上げてきた中山神社が祀られた時に、退いた多自枯神と関連が考えられる
  式内社の数は、8社を数える。

  邑久郡美和神社
  邑久郡片山日子神社(天日方奇日方神を祀る)
  赤坂郡鴨神社
  赤坂郡布勢神社
  上道郡大神神社四座
  津高郡鴨神社
  津高郡宗形神社
  兒嶋郡鴨神社
  
 また吉備の小豆島の国魂は、大野手姫といい、天日方奇日方命の妻・日向賀牟度美良姫とも言う。
 吉備児島の別名を建日方別命といい天日方奇日方の別名と考えられる。