2018年5月26日
『フロリダプロジェクト』
(“The Florida Project”2017年 監督:ショーン・ベイカー)
2010年代を代表するような子ども映画の傑作が虹のように不意に現れてすごくうれしい。
フロリダのディズニーランド近く、高級なホテルや観光地がある一方で、景気のおこぼれにすがる感じで、派手な看板や外観がとってつけたようでちょっと物悲しいおみやげ屋さん、アイスクリームショップや安モーテルがぽつぽつと廃れ気味に営業している。映画の中盤で登場する少し遠くのエリアは、恐らくリーマンショック後に住む人が去り、廃屋となった建売住宅が軒を連ねてエリアごと荒廃している。しかしピンクや黄色のパステルカラー調に塗装された外観なので廃墟と言うほど古めかしいわけでもなく、子供が荒く遊んだ末に飽きられて捨てられた玩具の街のようにも見えてそれがやっぱり物悲しい。またそんな人工物が、フロリダの真っ青な空や昼間の輝く太陽光線、まるでアトラクションの照明演出のような極彩色の夕焼けなどに照らされ包まれている。そんなところの安モーテルに週払いで部屋を借りて暮らしているムーニーという女の子とその母親のヘイリー、彼女たちの周囲の子どもや大人のひと夏が描かれる。
子どもにとってはどんなところでも遊び場。モーテルの新入りの車に唾をかけて遊ぶ、電源を切ってホテル中真っ暗にさせて遊ぶなどなど悪戯もやりたい放題。でもそれが叱りに来る大人たちへの荒手の挨拶としてコミュニケーションの手段にもなっている。さらには観光客からお金を恵んでもらってアイスも買うし、ファーストフード店の裏口でワッフルももらう。フードトラックにパンをもらいにいくのも子どもたちの役目。お金はなくても遊びながら食糧確保、食糧確保が遊びの一つになっている。全てが遊びを通じてなされるのが子どもが子どもとして生きる姿なのである。
そのことを無意識的に知っているヘイリーは売春用の宣伝写真の撮影すら、水着の撮影ごっこと称して遊びに変えてしまい、ムーニーにとっては最高に楽しい時間にすることができる。実際、車のフロントガラスに吐いた唾を掃除に行かせるように誘導できる親、さらにはその場に一緒に同行して悪態をつきあいながらも車の持ち主と結局友達になれる親というのは、稀と言ってもいい。内容はともかく、ヘイリーのように子育てできる者はそうそういるわけではなく、彼女は稀に見る繊細で高度な子育てができる親の資質を身につけている人物であり、金があったとしても怒りや暴力で子どもを支配することしかできないような親よりもよほど上手に子どもを育てる術を知っているのだ。ムーニーの友達ジャンシーを連れての夜のピクニックでは1本だけローソクを灯したマフィンと、夜空に広がるディズニーランドの打ち上げ花火をサプライズプレゼントしてくれる。確かにヘイリーは売春を通報したと思われるスクーティの母親をボコボコに殴ってしまったし、客の持ち物も盗んだ。でもムーニーはヘイリーと一緒で毎日最高に楽しいのだ。
しかし、仕事が得られないために、ムーニーに入浴させている間に部屋で売春しなければならないその状況はやはりつらい。ムーニーが大きな音で音楽をかけてお風呂に入っていると、客の男が乱暴にドアを開けて用を足すためにバスルームに入ってくる。ほぼ反射的にシャワーカーテンを閉めて男の視線から自分を遮断し、息をひそめて身動きひとつしないムーニーに胸を締め付けられるような痛みを感ぜずにいることはできない。その一瞬のショットが、ヘイリーや周りの大人、仲間の子どもたちとの関係の中で、貧しいながらも子どもとして活き活きと過ごした幸せな時間が間もなく終わろうとしていることを見る者に告げているからだ。
子どもたちや勝手な大人たちに手を焼きながらも彼らをケアする役回りを担う管理人役のウィレム・デフォーはこの映画の中で唯一の有名職業俳優であるようなのだけれど、そのことは彼の存在がもはや現実には存在しないようなファンタジーにも近い良心的な人物だからであるようにも思われる。落ちくぼんだ眼や深く刻まれた皺のある彼の顔は賢者のように見えるし、“ベルリン天使の詩”に登場する人間を見守る天使たちの一人のような感じがしてしまう。
映画の最後、走って大人たちから逃走するムーニーの姿に、“大人は判ってくれない”のラスト、同じように走って逃げだすジャン=ピエール・レオーの姿が思い起こされもするけれども、ジャンシーの家まで走りまくってきたムーニーは、「どうしたの?」とジャンシーに問われても、「何も言えない」と号泣し、やっとのことで別れを言うその泣き顔は、あの時のジャン=ピエール・レオーよりもずっとずっと幼く、まだほんの幼児でしかない。それまでは終始控え目にムーニーの後をついていくだけだったジャンシーが何かを確信したようにムーニーの手をとりある場所を目指して思い切り全力疾走する時、走っていく二人の少女の後姿は、映画史に燦然と輝き続けると断言したい。