終活もかなり浸透しましたよね。

私の思う終活はあと何年あるかはわからないけれど、そのときに戸惑わないように、時間にも心にも余裕を持って行うもののイメージがありました。

母の場合の終活にあたる行動は今まさに死を迎えんとすることがわかった上でのもので、そういう意味では本当に必要なものに限られていたように思います。

それから、自らの気持ちのためにというより、あとに残される人たちのためにしていたように思います。


そんな中でも母がこれだけは自分の意識がはっきりとしているうちに…と言っていたのが自らの遺影選びです。

入退院を繰り返していた頃のことでした。
私の結婚式の時の写真のデータを持ってきてくれないか?と言われたのです。

何に使うのかと聞いたら、いい具合に痩せていた、かつ不自然じゃない位の若さの頃だし、いい式だったから良く笑ってた。だから、いい写真あったら遺影に使いたいのよねー、と。

父はまた馬鹿なことをー、と泣きそうな顔で言ってましたが、母本人は真剣です。私も、ほんとは父と同じように、何だかんだ言っても母は大丈夫だ、助かるって思ってました。ほんとに死に際近いのは日々の様子を見ていればわかってる。頭ではわかってるけど、心が思うことには解離がありました。心では最終的に母は運良く助かるとも信じてました。

遺影を自分で決めるのはそれこそ死がもう少し遠い時にやるから周りも受け入れやすいものであって、こうも死が近いと果たしてどうなのか、というのは母本人が一番わかった上での発言です。

そんなの、受け入れるのが親孝行に決まってます。したいようにさせてあげる以外無いでしょう。