僕は自分なりのベスト版を作るのが好きで、これまでも何回か、ブログでご紹介して来た。

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ジョンの魂/ジョン・レノン
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その中に、「70S ROCK」というのがある。自分の部屋で宿題しながらリアルタイムでラジオなどで聴いた、70年代のROCK2枚組みベスト、計29曲である。この中に、いわゆるもとビートルズのメンバーの曲は1曲も入ってない。なるほどビートルズは60年代を代表するグループだが、解散後もメンバーは活躍している。特にジョージは解散後に名アルバムを次々発表している。3曲くらい入れたテープもあるが、何故か違和感があって聴いていない。エリッククラプトン、ディープパープル、クイーン、ツェッペリンあたりは2曲ずつ選曲されている。ほか、KISS、ビリージョエル、イーグルス、シカゴ、ボストンからチープトリック、UFOYes、ヴァン・ヘイレンのデビューまで。これらのアーティストのヒット曲に、元メンバーの曲が劣るとは思えない。

 

やはり、それだけ’THE BEATLES’の存在が大きいのもあるが、とくにジョンのことが大きい。解散後の彼のアルバムで最も良く聴くのは「イマジン」だが、アルバム中、最も良く聴くのは”HOW DO YOU SLEEP?”(よく眠れるかい?)というポールを皮肉った曲で、当時はとても話題になったらしい。「君のたった一つの傑作はYesterdayだ。そして脱退したと思ったらAnother Dayだ。」「君の顔がカワイイといわれるのもあと1,2年だよ。すぐにみんなに君の実力はばれちゃうだろう。君の作った曲は僕には皆musak(ホテル、空港、待合室、レストランなどで流されるBGMのこと)にしか聞こえない」「君は(僕と)あれほど長く一緒にいたのに何も学ばなかったのかい?」・・・・当事者じゃなくとも、おいおい、言いすぎだろ、といいたくなる詩。リズムやギターのカッティングはヘビーでいい曲なんだが。実際、この曲を聴いたポールはそうとうへこんだようだ。敵に回すと本当に恐ろしい。

このときはビートルズ解散当時のごたごたがあって(公平に見て、やはりポールがこのときは一番利己的で、彼の悪い性格面を見せていた)確かに一番関係の悪いときであった。しかし僕の好きなジョンのエピソードは、数年後どこかの記者がジョンに気を使ってポールの悪口を行ったとき、猛然と抗議したことだ。’お前はいったいヤツのなにを知っているというんだ?オレは10年以上一緒に仕事をしてきたんだ。ヤツの悪いとこも、オレにはまねできないすごいとこもみんな知っているんだ’まるで、オレがヤツを非難するのはいいが、他のやつはゆるさねえ、って、結局好きって言ってるのと同じじゃない?と思ってしまう。

 

イマジン以外のジョンの曲は、聴いていて切なくなる。'ジョンの魂'の一曲、MOTHER.

"ぼくは母さんにいて欲しかったのに、母さんにはぼくは要らなかった"”母さん、行かないでくれ、父さん、帰ってきてくれ”・・・これはジョンの心の叫びなのだが、痛すぎる。

 

ジョンの生い立ちを知らない方の為に紹介を。というか、ジョンが生きていない世界で生まれた世代がもう35代を超えちゃったんだな。・・・ジョンの訃報が朝のニュースで流れたのが昨日のようなのに。

 

ジョン・ウィンストン・レノンはドイツ軍の空襲の始まった1940109日にリバプールに生まれた。父は船乗りだったが、ジョンが2歳のとき、蒸発して帰らなくなった。母ジュリアは奔放な性格で、すぐ愛人ができ、ジョンはジュリアの姉、ミミ叔母さんに預けられた。5歳のとき、父が戻り、親権を争ったが、裁判でジュリアが養育権を勝ち取った。しかしその後母は愛人の元へ戻り、ジョンは再びミミおばさんに預けられた。このことは5歳のジョンに相当なトラウマを与えたようだ。ジョンは成長するに従い問題児(俗に言うグレたわけです)となり、外では喧嘩に明け暮れ、ひとりのときは内省的に過ごすようになる。ジョンによる8,9歳のときの話”このくらいの歳になるとわかるもんなんだ。自分が他のヤツらと違う感性を持ってるって。自分の天才的な才能に回りはなぜ気づかないんだろう、といつも不思議だったよ”これは芸術的センスの話で、中学3年の成績表には、”見込みなし。クラスの道化者。他の生徒の邪魔になっている”と書かれている。この後、このジョンがロックンロールでどんどん力をつけ、ビッグスターに成長していくのだから、スクールウォーズ大木大介のクウォリーバンク版じゃん。と思いたくなる。・・・スクールウォーズってドラマ、知ってますよね?(小声・・・)

 

ジョンはずっと、母を求めていたのだ。15歳のとき、ジョンは母親と再会し、ジュリアはエルビス・プレスリーを紹介し、レコードを何枚か聞かせた。ジョンはすぐプレスリーに心酔する。その母親もジョンが18歳のとき、交通事故で亡くなる。

ジョンの悲痛は強く、言動は狂気とまでなり、障害者の人を中傷することまでしたという。

ロックに打ち込むことで、ジョンはその悲しみを忘れようとする。15歳のとき、出会ったポールも、その前年巡回保健員だった母を亡くしている。この年、ジョージも加わり、ビートルズの前身シルヴァー・ビートルズが誕生する。

その後、ビートルズはエプスタインの目に留まり、マネージャーとなり、彼らはステージでお辞儀をすることを最初に覚える。ジョージマーティンにデモテープを聴いてもらい、オーディションを受け、合格する。リンゴが加わり、ビートルズ旋風が始まる。

ジョンはシンシアという女性と結婚する。従順なタイプだったようだ。ジョンはお世辞にもいい夫・父親ではなかったようだ。まあ、仕事が殺人的だから仕方ないとしても。ジョンは母親を求めていたが、気難しいジョンを時には叱り、時には誉め、コントロールするような強さは持っていなかったんじゃないかと思う。

 

1966年、ジョンはオノ・ヨーコと出会い、たちまち恋に落ちる。彼女は、ジョンに出会った日から、同じ空間、同じ時間、同じ権利を要求した。そこでジョンが”どうであれ俺に変わることを要求しないで欲しい。俺のスペースにはぶつかってこないで欲しい”と答えた。するとヨーコは”それじゃ、貴方のスペースでは私は息をすることもできないから、ここにはいられないわ”と返答。その後二人の脅しあいは何度もあったようだが、大抵ジョンの無条件降伏となったようだ。ヨーコはジョンをコントロールする知性と強さを持っていたのだろう。この流れでいくと、ヨーコはジョンの母親代わりの役割のようだが、ヨーコによれば、”ジョンは父親を求めていた”のだという。シンシアとは離婚し、ジョンとヨーコ二人は夫婦生活に入るが、ジョンのことで順風満帆とは行かなかったようだ。ヨーコに家から追い出されたときもあったらしい。1年半ほど酒びたりとなり、自分で死を求めていたという。

ヨーコにも何度も復縁の電話をかけるが、ヨーコの返事は、”あなたは裸の王様よ。一人旅でもしていらっしゃい”ジョンは意味はわからなかったが一人で香港に実際行ったらしい。しかし20歳のときからスタッフに何から何までやってもらっていたジョンはいい年をしてホテルのチェックインのやり方もわからない。旅先でもずっとカンヅメか誰かと同行だったから、旅先でどうしていいやらわからない。部屋で風呂にばかり入っていて、ふと気づいた。裸の王様・・・そうか、俺は世間知らずだったんだ!すぐヨーコに電話をかける。”誰だと思う?僕だよ!”そしてジョンは元の鞘に戻り、1975年待望の一子、ショーン・オノ・レノンが生まれる。ジョンは狂喜し、ヨーコは3ヶ月面倒を見た後、”私の役目はこれで十分。後はジョン、あなたがこの子の面倒を見るのよ”

 

坂崎幸之助なら、天下の吉田拓・・・じゃないジョン・レノンにこんなことを命令できる人間がいるだろうか、というだろう。

しかし、ジョンは、ショーンの母親代わりを嬉々として、およそ5年勤め上げる。隠遁生活をしている、と聞きつけたインタビュアーが、この頃は音楽活動されてないようですが、何を?”パンを焼いたり、赤ん坊の世話さ。”ー他には何を。”冗談じゃない。パンを焼いたり、赤ん坊の世話をしたりって、主婦の人にはわかるだろうけど、一日仕事なんだぜ!”

むしろアップル社の業務やマネージングなどはその5年、ヨーコがやっていたようだ。

ジョンが射殺される3日前、湯川れい子とヨーコが国際電話をしている。ジョンが5年間の”育児休暇”を終え、音楽活動を再開し、"ダブル・ファンタジー"というアルバムを発表した直後だ。ジョンは5年間すごく育児熱心で、"Touch, Love, Diet"とくにDiet,食事にもっとも気を下っていたという。外でビジネスをするのは私のほうが向いているみたい、とも話している。結局、かつてポールにオブラディオブラダなどの曲を”年寄りくさい”としてののしっていたが、同じような境地に落ち着いたわけだ。かつてのとげとげしさがなくなったジョンがどんな音楽を聞かせてくれるのか、もしかしたらポールともよりを戻すかも?ジョージとは無理か?などと皆が期待している矢先の射殺事件であった。

 

ジョンの死から3ヵ月後、MUSIC MAGAJIN増刊「ジョンレノンを抱きしめて」が発売された。

いろいろな方が執筆されていたが、一人のライターは、”3歳の子供がいるが、13歳になったらジョンレノンがいかにすばらしかったか、話してやるんだ”と熱をこめて語っていた。

2016年、その3歳の子供さんは39歳になっているはずである。話をしてもらったのだろうか。どんな思いを感じたのだろうか。同じような話を読んだことがある。他でもない、あのジョージマーティン。初めてのビートルズの正式なLIVEアルバムが解散から7年して発売になった。なぜLIVE版が出ていなかったかというと、録音状態が悪くて使い物にならなかったからだ。機材の古さだけが原因じゃない。あのジェット機なみのファンの絶叫のせいだ。しかし4トラックしかなかった当時とちがい、マルチトラックでリミックスする技術、フィルター、イコライザーという編集技術も生まれてきた。それでもジョージマーティンは苦労して、まあ、これならなんとか、という状態にしてLPにしてくれた。仕事が終わって帰宅すると、9歳になる末娘が話しかけてきた。”ねえ、お父さん、昔はビートルズの録音の仕事をしていたんでしょう。ねえ、教えて。ビートルズって、今のベイ・シティ・ローラーズくらいGREATだったの?”マーティンは答えた。いや、ローラーズほどではなかったとも。”今はこれでいい。娘も、きっと分かる時がくるだろう。”今、そのLIVEを聞きながら、ブログを書いています。And now, here they are! The Beatles!

なんだかこれまで以上に、まとまりのない、長い回になっちゃいましたね。

THE BEATLES FOREVER!

 

参考文献:

ビートルズの軌跡 ミュージックライフ編/渋谷陽一構成 SHINKO MUSIC 1987

ビートルズエピソード550 香月利一 立風書房 1978

明日への転調 レノン&マッカートニー マルコムドーニー SHINKO MUSIC  1987

ジョンレノンを抱きしめて ミュージックマガジン3月増刊 ミュージック・マガジン社 1981