こんにちは。

在韓のカナンです。



債権の件から個人的に色々
考えていると、時々不思議な
感覚になっています。


🥺「被害を受けたはずなのに、自分でそれを認めることが難しくなってる。」


相変わらずの韓男が

「おまえが悪いんだろ~
おれはなにも悪くないから」にやり

とぶちかましてます。



IMAGE



次の段階では、私自身が[被害]を認めようとすると、自分の人生そのものが大崩壊してしまいそうになりますね。


今日は元信的にその心理の移り変わりについて考えていました。






 被害者になることの難しさ




① 「不幸比較」


被害を語ろうとすると、
よくこう言われました。


「でも結婚もして子供がいるじゃないか」

「子供が欲しくても持てない人もいるんだ。」

「一般家庭でも不幸はある」


もちろん、それらは事実。

その瞬間にその人はだれかと
不幸比較をしてないか?

その比較は私の被害はなんでもないことだと吹き飛ばすように
向けられました。


私はべつに誰かと不幸を競いたいわけではないのに•••。

誰かより幸せなのか不幸なのかと言いたいわけでもない。


ただ、自分の人生に起きたことが、自分の人生だったとして
認めていきたいだけです。


。。。。。。。。。。
でも認めたくないんだ。
。。。。。。。


なかったらどんなによかった
んだろうかと考えたりも
最近ようやくしてみました。


昨日のこの事件↓をみると
やはり
折れそうになります。





なかったことにもできず、
記憶を、曖昧にしてても
全否定して切り捨てること
も簡単でもない。


否定して切り捨てることは
困ったことに自分自身を
全否定と帳消しすることになるその間にいます。



② 成果と権利


元信者が苦しむ理由の一つに

人生の成果
人生の権利

が混ざってしまうことです。


例えば、

・子供が生まれた

・家庭を築いた

・資格を取った

・社会で成功して生きている

その人の人生の成果になる。




祝福結婚
選択は自由だった。

だから
問題はなかった。

だから
傷ついていない。

ということにはならない。



人生の成果は
成果。

人生の権利は
権利。


もともとは
別の問題だってことを
だれも私の回りで
理解してくれる人はいない。


この問題で

「離婚していないのだから
家庭生活に問題はない」

「子供も成功しているのだから結果よかったじゃないか」

という言葉が向けられました。


夫婦関係が続いていること

結婚の選択が自由



なはずはない。


子供がいること。

選択権が

守られていたか。



同じではない。



結果が一般的に良かったように見えるからといって、
過程に問題がなかったことにはならないとわたしは思ってる。

じゃ
仮に結果がよかったとする。
だからすり替えるための
全上書きは可能なのか?


いや。。。

無効化にならない。

(私の場合)


いつの間にか一般的な
成果バイアスで権利侵害も
勝手に消えるかのように考え
ようとしてしまっています。


成果は成果。
権利は権利。


選択の自由はどうだったのか
それもいつも考えます。
別に存在していて、
消えてない。




私は祝福結婚で

「別の人と結婚していれば
幸せだっただろな」

と言いたいわけじゃない。

どんな結婚生活でも
不確定なことは
誰にも分からないでしょう。

私が失ったと感じているのは、幸せの保証でもなく、ただ。

自分で相手を確かめて、
自分で相手を選んで、
会話をして知ることができ、
自分の違和感に耳を傾ける
選択する権利だったかも
しれないです。

余談ですが女性の夢の
ウェディングドレスも
なんかへんちくりんな
デザインで鶴がデザイン
したとかいってたけど、
きっとうそだろう。(笑)


全然笑ってない


*AIIMAGE




結婚指輪も自分で用意。
結婚費用も日本から用意。
どれもこれもおかしなこと
ばっかりだった。


韓男がいまだにとぼけた
ことをいってるけれど、
それに対して
こいつ←を悪く言うつもり
ではないんだ。


そのとき、
相手を知るすらなかった。




人のご縁って一般的には

相性

生き方

価値観



そんなのなにもかもしらない。

知らないからよしとされて
いまだにどんな人なのか
よくしらないでいる。


読んでるあなた。
心からの笑顔で祝福式の
写真残ってる人いる?


(私ほんとに気持ち悪いから。)



③ 「上書き」では回復不能



先程少し触れた上書き。

よく、辛い体験した人に

「新しい体験で上書きすればいいよ」

と言いますね。一般的に
恋愛とかでもよくいわれます。


でも、それは元信者にとっては簡単な話ではないですよ。

なぜなら失ったのは一般的な
恋愛や仕事だけではないからです。



自分自身の価値観。


神様の存在。


人生の意味。


自分とは何者なのか。



その土台そのものが
揺らいでいる。


どうすればいいのかは
上書きではなく
整理が必要
になります。



何が自分のものだったのか。


何が自分のものでは
なかったのか。
(不純物抽出)


それを
一つずつ分けていく作業にも
なります。





④ 祝福結婚と
自分の価値の逆転


祝福が詐欺だったなんて
簡単な言葉にはできない。

そこに価値を付与してた
教団がいたのでね。


祝福結婚をしたから
価値がある。
祝福家庭だから価値がある。


という考え方が強く存在します。



すると、
離脱後に残っている
家庭の存在はどうなるのか。



祝福結婚を否定する


結婚を否定する


家庭を否定する


子供を否定する


人生を否定する


という段階の恐怖が生まれてきます。

私の場合、国際結婚なので
外国籍血統になるという
現実的な視点から冷静に
なってみると凍るほど
とんでもない選択をした
とパニクりました(笑)


しかし本来は逆ですよね。



私に価値がある
から結婚したのであって、

結婚したから
祝福の価値が生まれた
わけじゃない。

私に価値がある
から家庭を築いたのであって

祝福家庭だから
価値があるわけではない。


この順番が逆転していることが、多くの元信者を苦しめるのだと思います。



⑤ 全否定と全肯定の間


脱会後、多くの人は二つの極端の間を揺れます。

「全部嘘だった」
「全部正しかった」


しかし現実はそのどちらでも
ないんじゃないか。


被害者で加害者

そんな言葉もどこかでみた。
これはどうもわたしは
受け入れられない。

なぜなら、その過程において
わたしはこう考えてます。


苦しみもあったし••••。

愛情もあったし•••••。

傷ついたこともあった••••。

なにかしら
得たものもあった••••。


それらは同時に存在します。


だから回復とは
全否定でも全肯定でもなくて、


受け止めれないでいた部分の
人生をそのまま受け止めることなのかもしれません。

---

ちなみに

私は鮑を捌けるように
なりました🔪
(どや笑)








教団が与えてくれた価値でもなければ、誰かに認められて得た価値でもないけど。

生きているうちに身につけた、ただの生活の技術です。

でも、そういうものも含めて
今の私を作っています。


ただ、
人生の成果は私のもの。
人生の権利も私のもの。

そう言える場所まで
歩いていきたいのです。








*この記事のサムネは
祝福のIMAGEです。
実際の人物とは関係ありません。