私は今、地元の青少年育成団体で、朝の挨拶(あいさつ)運動のお手伝いを時々しています。

 週に3日、地元中学校前の交差点にスタッフ5、6人が立って、子どもたちの安全を見守りながら、「おはよう。いってらっしゃい」と挨拶をします。晴れの日も雨の日も立ちます。特に極寒の日は大変で、手足や耳が凍りそうになりながら挨拶をします。

 ある時、挨拶運動の意味について、先輩にお尋ねしました。すると、「それはよくわからんよ。役に立っているかどうかも。でも、こうしていると、子どもたちと知り合えるからね。知り合いになれば、ちょっと気にかかるときでも、〝大丈夫?〟〝どうしたん?〟と、声をかけやすくなるんだ」と話してくださいました。互いの関係とは、少しずつ深まるのでしょう。

 また、「そう言えば、最近気がついたが、車で親御(おやご)さんが送って来る時、交差点を通る際に、親御さんが会釈(えしゃく)をしてくれるね。すると、以前は後ろに乗ってるだけだった子が、会釈をしてくれるようになったんよ。親の姿を見とるんだね」とも話してくださいました。

 スタッフの挨拶が親御さんにつながり、それが子どもにつながったのです。

 また、ある先輩は「私は挨拶運動の朝、スタッフ用のベストを羽織って、家族に〝いってくるけーね〟と声をかけて出かけるんです。そんな日を繰り返していると、飼っているインコが、私が出かけようとしてベストを着ただけで、〝イッテクルケーネ〟と言うようになったんですよ」と話してくださいました。挨拶はインコにもつながっているのです。

 また、それを聞いた方が「言葉に気をつけないといけんね」と言い、みんなで笑いました。

出あえた不思議

 童謡詩人として知られる金子みすゞさんの作品に「こだまでしょうか」という詩があります。

 「遊(あそ)ぼう」っていうと
 「遊ぼう」っていう。
 「ばか」っていうと
 「ばか」っていう。
 「もう遊ばない」っていうと
 「遊ばない」っていう。
 そうして、あとで
 さみしくなって、
 「ごめんね」っていうと
 「ごめんね」っていう。
 こだまでしょうか、
 いいえ、誰でも。

 
 私たちは無数のご縁の中で、互いに関係し合いながら生きています。時にけんかもしますが、けんかができるのも出会えた証拠です。でも、どうせ声をかけるなら、あたたかい言葉をかけ合いたいものです。

 しかし、先輩は「でも、なかなか、いいことばかりというわけにもいかんからねえ」ともおっしゃいます。

 挨拶をすれば、いつも全ての子どもが返してくれるとは限りません。みんないろいろな悩みを抱えています。人と会いたくない日もあります。誰とも話したくない時もあるはずです。だから、呼び続けていくのでしょう。


 親鸞聖人は、『教行信証』の「総序」に「ああ、弘誓(ぐぜい)の強縁(ごうえん)、多生(たしょう)にも値(もうあ)ひがたく、真実の浄信(じょうしん)、億劫(おくこう)にも獲()がたし。たまたま行信(ぎょうしん)を獲()ば、遠く宿縁(しゅくえん)を慶(よろこ)べ」
 
 「ああ、この大いなる本願は、いくたび生(せい)を重ねてもあえるものではなく、まことの信心はどれだけ時を経ても得ることはできない。思いがけずこの真実の行(ぎょう)と真実の信を得たなら、遠く過去からの因縁をよろこべ」
とおっしゃっています。

 今出あえている南無阿弥陀仏のみ教えは、私があおうとしてあえるようなものではありませんが、阿弥陀さまのおはたらきが絶えず届いてくださっていたので、その過去からのお育てのお陰(かげ)で、今あうことができているというのです。今私がお念仏申していることは、当たり前のことでもなく、私が偉いからでもなく、不思議なことだったのです。

 どんな方も、生まれた時から挨拶ができているわけではありません。では、その私が、今、挨拶をしているのはなぜか。それは、考えられないほど多くのお育てのお陰があったからなのでしょう。

 今日も、私が「おはよう。いってらっしゃい」と挨拶する前には、そのご縁をつくってくれる子どもたちの姿がありました。